鳴雷槌の操縦士と翼の税関 第3話「第2章」
耳鳴りが階段の踊り場で波になって砕けた。風間真白は片手で耳を押さえながら、油と焙った金属の匂いが混ざった空気を吸い込んだ。胸はまだ早鐘のように打ち、舌先が妙に痺れて味を判別できない。着替えもせずにコートを羽織り、彼女は静かに会議室の扉を押した。
耳鳴りが階段の踊り場で波になって砕けた。風間真白は片手で耳を押さえながら、油と焙った金属の匂いが混ざった空気を吸い込んだ。胸はまだ早鐘のように打ち、舌先が妙に痺れて味を判別できない。着替えもせずにコートを羽織り、彼女は静かに会議室の扉を押した。
室内は薄暗く、天井からの蛍光が一列に伸びるだけで、窓の外の焼けた空の色は見えなかった。長いテーブルの中央には、鳴雷槌が格納ケースから出され、布をかけられたまま置かれている。布の波紋が揺れるたびに、真白の心臓が小さく断続する。田辺修だけは作業着で、袖口に油の跡が付いている。長谷川菜穂は母親の顔をしていた。蓮(れん)は腕組みして立ち、他にも数人の代表が椅子に腰掛けている。
田辺が布を払うと、鳴雷槌は暗闇に黒い輪郭を落とした。低い光がハンマーの金属面に反射し、机の上にゆっくりと長い影を伸ばす。影が斜めに伸びる一瞬、空気は時を遅らせたように粘り、会議室の誰もがその動きを見つめた。真白はその影を見て、胸の奥が凍るような記憶を押し殺した。鳴雷槌はただの道具でありながら、彼女にとっては操作室のコントロールパネルと同じ匂いがする。動かし方、同期の取り方、失敗の数々。前世のように身に染みた動作が、彼女の神経に刻まれている。
「今朝の件について、説明してくれ」菜穂の声は低かった。言葉の端に市民の不安が滲んでいる。
真白は椅子に座り、手袋を外す。指先はまだ少し震えていた。口を開くと、声が耳の奥で遠く響いた。味と同じく、声の輪郭もいつもと違って感じられる。
「一度しか使えない。同期は一度で完遂するもので、反復はできない」彼女は平然とした顔で言おうとしたが、言葉が詰まる。言葉の代わりに、真白は自分が昨日やったことを言葉でなぞった。が、その説明は誰のためでもなく、自分自身のための確かめだった。
蓮が前に乗り出す。「でも、子供たちがあそこで待ってる。避難路の封鎖を解除できるなら、今すぐにでも──」
「私だってわかってる」真白は手を上げた。「でも、条件がある。同期は“共有された作戦”を媒介して、一度だけ全員の身体の動きを理想的に一致させる。だが同時に、使う『主体』が一人でも合意を欠けば、その結び目は周辺に別の影響を投げる。相手側にも作用しうる。昨日、それで──」言葉を切る。真白の耳鳴りが回答の代わりに響いた。
田辺が資料を広げ、芯の通った声で話し出す。「テストをやる。ここで証明しよう。実戦で失う前に、代償と境界を確かめる。合意のない状態がどうなるかも含めてだ」
「やらせるつもりか」菜穂の目がひらいた。代表としての重みがその瞳にある。
「やる。だが条件は厳密だ。全員の同意がいる。合意が一人でも欠けたときは、物理的に隔離した受け皿を用意する。俺が――いや、整備班が監視して障害を最小にする」田辺は指示に迷いがない。計測機器と古い防御機材がハンマーの周囲に並べられ、テストの装置のように見える。
会議は味気なく、計画に変わった。代表の何人かが起立し、近隣からの志願者を連れてきた。真白は一人、端に残った女性の小さな手を見た。手には絆創膏の跡があり、母の顔のしわが深く刻まれている。彼女は言った。
「私たち、投票する。全員の同意が取れるなら、やらせる。合意がなければ次の手を考える」
投票は即決された。テストは格納庫で行われることになった。
格納庫の空気は湿っていて、鉄と切削油の匂いが強い。崩した壁の模型、壊れたドアの枠、仮設の障害物が組まれていた。真白は鳴雷槌を持つ。金属の手応えが掌に伝わり、わずかに振動が指先を駆け抜ける。痛みの記憶がそこに刻まれているが、それを追うように冷たい決意が湧く。
「全員、意思表示を」田辺が小さな旗を掲げる。全員が旗を上げ、合意を示した。真白は深呼吸をし、ハンマーの柄を胸に押し当てた。体内の神経が一斉に鳴るような感じがして、彼女は目を閉じる。何かが鎖を解くように、周囲の立つ者たちの動線が一瞬で彼女の身体に入ってきた。腕の動き、呼吸のタイミング、意志の微小な躊躇—それらが一本の細い糸に編まれる感覚。
「行く」真白の声は薄い。ハンマーを振り下ろすと、空気が裂け、障害物の重みが滑るように持ち上がった。五人の体が自然とその運動に合わせ、木製の梁は音もなく位置を移した。成功だ。短い歓声が上がる。
しかし、達成の直後、真白の世界は崩れた。耳鳴りが閾を越えて叫びになり、視界の縁が白く滲んだ。味覚は完全に消え、手の平の感覚が消え去る。真白はしゃがみ込み、床に膝をつく。唾を飲む感覚が遠く、身体が自分のものではないように思えた。
「真白!」田辺が手を差し伸べる。彼女はその手を掴み、なんとか立ち上がろうとする。数秒の沈黙の後、彼女は懸命に呼吸を整えた。
「代償だ。俺の計測では、視界・聴界・触覚のいずれかが一定時間失われる。回復は個人差がある。反復使用は神経に不可逆な損傷を残す可能性がある」田辺は動揺を隠せなかったが、メモを取る手は震えなかった。計器のディスプレイに真白の心拍と電位の波形が反射する。
蓮が目を見開いた。「君、昨日も使っただろ。二回目だよね? それに――」
「昨日は緊急だった」真白は首を振る。言葉の端に、彼女は何かを飲み込んだ。だがここで沈黙は許されない。仲間は判断を迫られている。
田辺がさらに言葉を重ねた。「もうひとつ。合意のない状態、つまり“共有”が成立していないのに同期を試みると、対象が“既存の行為者”に作用しうる。昨日はそれで、向こうの監視ユニットに一時的な影響が出た。無差別な影響が外部に向かう危険がある」
その言葉を聞いて、菜穂はゆっくりと立ち上がった。代表の重責が彼女の背を押す。「具体的に。私たちは誰を守るの? どう選ぶの?」
ひとりの老女が手を挙げ、声を震わせた。「子供! まず子供を。次に病人。あとは……順番はあとで決めるわ!」
議論は荒々しく噴出した。母親たちが泣き出し、若者たちが怒鳴る。真白の耳鳴りはその声を全て混ぜた合唱に変え、彼女の頭を重たく締め付けた。だが、その混乱の中で一つの冷ややかな視線がテーブルの隅から彼女を見ていた。市の執行部から派遣された男――公的機関の調査官である。彼はメモを取りながら、時折ペン先でテーブルの木目を叩く。彼の存在が、会議に公的義務の匂いを強める。
田辺はホワイトボードに太い字で書き始めた。「条件一覧。1)全員の明確な合意が必要。2)同期は一度限り。3)使用後の回復時間と不可逆損傷のリスクを共有。4)合意不在での発動は外部に影響を与えうる。5)運用は住民の決議に従うこと——」
「そこで決めるの?」菜穂の手が震えた。「今ここで投票? 私たちの基準で優先順位をつける?」
「それだけじゃ足りない。外部に知られた瞬間、翼の税関が動くだろう。彼らはこの種の力を公共秩序の名で徴収する。公開はリスクだ」執行部の男が低く言う。言外に脅しはないが、現実の重さが滲む。
真白は立ち上がり、鳴雷槌にそっと手を伸ばした。金属は冷たく、彼女の掌に馴染む。使えるのなら、今そこで救える命がある。だが、代償は重い。仲間たちの合意がなければ、向こう側の“翼の税関”にも作用してしまうかもしれない。昨日の一瞬