鳴雷槌の操縦士と翼の税関

鳴雷槌の操縦士と翼の税関 第2話「第1章」

錆びた格納庫の天井を、曇り空から落ちてきたような灰色の光が滑っていく。空には翼のない安堵がない。行き場を失った人々の息と、遠くで回る巡回ドローンの心臓のような低い嗡(うん)という音が混ざり合い、奏(かなで)はその音に合わせて手を動かした。

錆びた格納庫の天井を、曇り空から落ちてきたような灰色の光が滑っていく。空には翼のない安堵がない。行き場を失った人々の息と、遠くで回る巡回ドローンの心臓のような低い嗡(うん)という音が混ざり合い、奏(かなで)はその音に合わせて手を動かした。

床の中央に置かれた鳴雷槌は、古い航空機の脚部パーツを再利用して作られたような異形の器具だった。握りは擦り減り、頭部は黒い漆のように光を吸い込む。槌の表面には細い筋状の文様が走り、時折薄く青白い光が脈打つ。奏が手を伸ばすと、槌はいくぶん暖かかった。

「本当にこれでいけるのか?」元機体整備士の修一が声を落とす。指先は油で黒ずみ、目は疲れで霞んでいる。彼は錆びた工具箱の上に足を乗せて、鳴雷槌をじっと見つめた。

鳴雷槌はただの武器ではない。奏はそれを知っている。前世の残像のように、危険な現場で操縦席にいた感覚が胸の奥で微かに鳴る──風の反応、空の抵抗、計器の過敏な示す危険。槌を媒介にして、複数の人間の行動を“共有”し、一度だけ、同時に成立する戦術を現出させる。その現象を仲間と合意して行えば、望んだ通りの軌道を作れる。しかし条件は厳しい。仲間の合意がないと、作用は敵へも波及し、さらに奏自身は代償を払う。感覚の一部を最低限失うという代償だ。彼女はその言葉を何度も噛み締めてきた。

「合意、だな。全員でやらないと、予期しないところに飛ぶ」連絡役のイツキが書類の束を抱えながら言った。イツキの声はまだ若く、震えが混じるが決意がある。彼は避難民たちの情報をまとめている。高屋文乃——子どもを税関に引き離された母が、彼らの中で最も強く返還を望んでいる。

「文乃さん、もう一度確認する。夜の三時に滑走路横のラフトを使って、北側の動力網の継ぎ目を抜ける。そこで――」修一が地図に指を落とす。彼の指が震える。合意の輪が書かれていく。全員が頷く。だが、合意には時間がいる。監視が密になっている今、時間はなかった。

「試験だけだ。味方と共有するのは後回しにして、まず小さな干渉を作れるか確かめたい」奏は言った。声は平静に聞こえたが、手は微かに震えていた。彼女の決断は仲間の合意を求める行為ではなく、短いデモンストレーションを兼ねていた。もし感覚の代償が短くて済むなら、その間に逃げられるかもしれない——そう思ったのだ。

槌を持ったとき、掌の皮膚に小さな震えが走る。文様が一度ちらつき、素早い閃光が目の端を掠(かす)めた。奏はゆっくりと振る。風が一瞬逆巻き、空気が弦のように震える。槌の頭が作る軌跡は視界に残像を残し、白い帯となって夜空を引き裂いた。

音が来た。鈍い金属を叩くような低い一撃と、その上に乗る透明な高音の重なり。だがその直後、奏の世界は布で耳を塞がれたように閉ざされた。音の輪郭が消え、代わりに耳孔の奥で金鳴(かな)るような、長く切れない鳴りが鈍く残る。

「——か、なで!?」修一が叫んだが、その声は遠く、ふわふわと漂ってくる。奏は自分の呼吸音だけが、妙に近くて大きく感じられた。舌先で歯茎を確かめる。味覚は無事だ。だが右耳の周囲が、冷たい空洞のようになっていた。

効果はあった。格納庫の向こう、屋外の監視ライトが一瞬歪み、巡回ドローンの群れの一体がハングアウトエリアから逸れていく。表示板の光が乱れ、空に残った槌の残響が、街灯の色を一拍遅らせて変えた。修一の目に、空中に薄い螺旋の帯が浮かんで見えた。それは、合意された共有行動でなければ現れないはずの“軌道印”のようだった。

だが効果は同時に、望まれない反応を引き起こした。外から高く、機械的な警告音が上がり、格納庫の入り口付近で強い光が走った。奏にはその音が聞こえない。ただ、入り口のドームカメラが瞬時に赤いランプを点滅させ、遠方の監視塔のスコープが一斉にこちらへ向けられる挙動が視界の端で告げられた。

「敵にも作用した……」イツキが小さく呟くのを、奏は口の形で読んだ。合意を欠いたことで、鳴雷槌の波が敵側の監視網にも触れたのだ。修一は顔を青くし、工具箱から慌てて何かを取り出した。

奏の頭の中で、代償が重く落ちてくる。耳の中の鳴りは増幅していき、次第に遠近を失った。腕が、槌の振動の余波で少し痺れているのに気づく。触覚の端に冷たい麻痺が広がり、床を踏む感覚が鈍くなる。見える世界ははっきりしているのに、指先の温度がわかりにくい。

「大丈夫か?」修一が駆け寄り、奏の肩を掴む。彼の声の震えは、奏には見て取れる。だが返答を発する前に、文乃が二歩前に出た。彼女の顔に怒りと恐怖が混ざっていた。黒い瞳の中に、税関に連れ去られた我が子の映像が燃えている。

「分かった、あなたがやったことは無謀だ」文乃の声は静かだが、矢のように刺さる。奏は口を開いた。聞こえない。言葉が噛み合わないもどかしさに、彼女の目に涙が溜まる。

「子どもは、まだ向こう側にいるのよ。許可証の名簿に載ってた。あの時、門で泣き叫んでた陽太が、あのリストに入れられてたの」文乃は封筒を取り出した。紙は擦り切れ、何重にも折られている。中には、無機質なスタンプと、税関の飛行許可証の偽造に見せかけた痕跡があった。誰かが誤魔化したのか、強引に押し付けられたのか。判別は難しい。

「時間はない。監視網がこちらに向けられる。今夜、門を通して陽太を取り戻すなら……」文乃は奏を見据えた。奏は唇を噛んで、返す言葉を探す。耳の中の鳴りが、まるで砂を噛むように邪魔をする。

合意を取らずに鳴雷槌を振ったことで、仲間との信頼が揺らいだ。だが同時に、行動可能な時間は短い。監視塔の光がこちらへ伸びる速度は、合意の時間を与えてはくれない。鳴雷槌が示した軌道印は、仲間と共有するためにあったはずの“道筋”を一度だけ形にできるという約束の痕跡でもある。もし今使えば——その“一度”を消費する。

「このまま引き下がるか、皆で合意して一度だけの軌道を使うか」イツキが言う。イツキの目には疲労と、しかし覚悟がある。修一は拳を握りしめ、工具の油が爪の周りに滲んでいる。文乃は封筒を抱いたまま、震える小さな手をぎゅっとする。

奏は槌を握ったまま、彼らの顔を見た。夜の薄闇が格納庫の中に溶け込む。耳の奥の痛みが、決断の鐘のように彼女を苛む。もしここで仲間と合意して使えば、代償は避けられない。だが放置すれば、幼い命が税関の管理下で引き裂かれ続ける。

奏は無言で槌を見つめた。光はまだ、薄く脈打っている。彼女の胸の奥で、前世の操縦席の振動が再び囁く──操縦士はいつも、最も危険な瞬間に進路を選ぶ。だが今の選択は、独りで決められるものではない。

文乃が先に口を開いた。「私の子を、取り戻す。それがあなたたちの理由なら、私も責任を取る。今夜、全員でやるのよ。合意するなら、手を挙げて」

修一がまず手を上げた。爪に泥が入る。イツキもゆっくりと続いた。奏は視界の中で彼らの掌が重なるのを見つめる。残された選択は、ただ一つだった。

だが、合意が成立するその瞬間、入口のドームカメラが赤いランプを点滅させ、外から別の声が、無機質に格納庫のスピーカーを通じて流れた。「不正使用——鳴雷痕感知。翼の税関、介入開始」

その声は冷たかった。奏はその言葉の意味を理解す