鳴雷槌の操縦士と翼の税関 第21話「第19章」
雨はまだ止まなかった。低い雲の腹を擦る風切り音が、機体の外板を薄く叩く。椎名梢はコクピットの窓をべたつく雨粒ごしに見下ろし、下を流れる人の列を数えた。白いビニールの簡易合羽、子どもの小さな背中、傘の群れが狭い道路を埋めて、向こうには古い市民会館の緑の屋根が浮かんでいた。屋根の向こうが、彼らの“投票所”だ。
雨はまだ止まなかった。低い雲の腹を擦る風切り音が、機体の外板を薄く叩く。椎名梢はコクピットの窓をべたつく雨粒ごしに見下ろし、下を流れる人の列を数えた。白いビニールの簡易合羽、子どもの小さな背中、傘の群れが狭い道路を埋めて、向こうには古い市民会館の緑の屋根が浮かんでいた。屋根の向こうが、彼らの“投票所”だ。
左腕の肘に固定した鳴雷槌は、金属の冷たさを腹に伝えている。普段はお飾りのように見えるそれが、今は梢の呼吸とシンクロして、微かな振動を生んでいた。ラジオからは佐伯岳の声が、錆びたスピーカー越しにかじりつくように入ってきた。
「梢、下の道が封鎖された。監翼隊が中央交差点に網を張ってる。翠(みどり)班が突っ込んだが、遮断弾で押し返されてる。煙と光の装置だ。市民が止まる前に突破口を作ってくれ。時間は——三分しかない」
梢は黙って計器を睨んだ。雲間に紺色の機影が点々と現れる。翼の税関の監翼隊だ。つややかな機体は無慈悲に、規則正しく空を切り裂いていた。射出管から放たれる収束光が雨粒を瞬間的に白く染め、地面の数メートル先を変形させる。非致死性とはいえ、人間の流れを断つには十分すぎる。
「翠班の位置を確認。春日班は生存不明、東雲班が左に回っている。こっち、合意の確認を頼む。空中支援は三機で同期しないと——」
佐伯の声が途切れた。交信窓が一瞬、砂嵐のようにノイズで埋まる。梢の胸の中で、何かが鋭く冷たくなる。彼らは計画を持っていた。鳴雷槌で共有した作戦を“同時”に実現できれば、監翼隊のセンサーに幻影を送り込んで、物理的な網を一時的に浮かせることができる。だがそのためには、同意の応答が必要だ。相互確認で作戦の“輪”を結ぶのだと、昔誰かが言っていた。
梢はマイクに息を吹きかけた。「雷部隊、こちら梢。合図を送る。合意、録る。返答を——」
だが返事は返ってこなかった。東雲班の通信が断ち切られ、翠班は弾幕に押し戻され、春日菫の声だけがかすかに聞こえた。「梢、無理すんな……私たち、あそこを通させる。引いて——」それが最後の声だった。電波はそこで途切れ、あとは静寂がやって来た。
梢の胸の奥で鳴雷槌が、かすかな唸りを上げる。彼女はハンドルを握りしめる。合意の輪が欠けている——だが人々は行列の最中だ。投票所の扉は昼前に閉められる。三分の猶予は、もう残っていないかもしれない。
「梢、どうする?」佐伯が聞く。声に、もう冷静さは混ざっていない。
梢は視界の端で、子どもの傘の赤を見た。それが彼女の判断を決めさせた。合意が揃わないなら、自分が投げ込むしかない。だがそれは、いつもとは違うやり方を要する。単独で使えば、反動は大きい。彼女はそれを知っていた。左耳の遠さ、立ちくらみ、味覚の金属。以前にも、同じ代償を払っている操縦士たちの話を聞いたことがある。仲間の合意を無視すれば、能力は敵にも作用する——その奇妙な副作用は、今回なら好都合にも働くかもしれない。だが反動で自分の一部を失うということもまた、確かな未来に等しかった。
「やる」梢は短く言った。佐伯の息が荒くなった。「梢、待て、合意が——」
「時間がないの。春日班はもう——」梢は言葉を飲み込んだ。彼女の中で、前世の操縦士としての直感と、いま目の前にいる人間としての倫理がぶつかった。選択肢は二つ。待って仲間の輪を戻すか、単独で扉をこじ開けるか。選ぶのは梢自身だ。仲間が誰かを犠牲にしてでも勝利を独占する英雄を望まないことは、これまでのやり取りで分かっている。だがいま、目の前には息を詰めた行列がいる——それだけは誰もが同意している。
彼女は鳴雷槌を膝に軽くぶつけた。金属が乾いた音をたてる。その音は無重力のように、コクピットに波紋を広げた。梢は目を閉じ、作戦のイメージを一つに固める。どこに影を落とし、どの機体を翻弄するか。地上で囮となる陣形、空中での連続的揺らぎ、そして大きなひとつの“鳴らし”——それが成功すれば、交差点の網はその瞬間だけ、虚像に惑わされる。
「単独で使う。反動は承知の上だ。だが今ここで止めるやつはいない」梢はささやき、鳴雷槌を胸の前で構えた。器具の表面が微かに光を帯びる。青白い脈動が、彼女の掌から腕を伝い、肩へと上る。
合意の輪を欠いたままの発動。鳴雷槌はためらいなく反応した。だが期待とは別の感覚が梢の中に流れ込む。軽い痺れ。嗅覚が一瞬鋭くなり、次いで消える。次第に世界が遠ざかっていくようだ。掌の震えが増し、空気が粘る。雨の匂いが鉄の味と混ざり、舌に金属の滲みが残った。
「梢、聞こえるか!」佐伯の声が叫ぶ。彼女は返せない。左耳が、さあっと遠ざかった。片方だけが閉じたように情報が欠落する。視界の端がぼやけ、俯瞰図の一部が消える。バランスが崩れ、舵が手から滑りそうになるのを、彼女は必死で押さえた。コクピットの振動が深くなり、鳴雷槌の光が短い閃光となって外へと放たれる。
空の中が裂けた。小さな稲妻の群れのような光が監翼隊のセンサー軸に滑り込み、彼らの視界と指示系を錯乱させる。目に見えるわけではないが、機体が微妙に揺れ、並走していた監翼の編隊が軌道をずらし始めた。片方の機体のコックピットで、パイロットがハンドルを強く引くのが見える。通信が高周波のノイズで割れ、監翼隊の一機が急旋回した。機銃は発射をためらい、収束光は一瞬だけ蛇行した。
だが同時に、梢の身体は代価を払った。左耳の鼓膜が破れたような感覚、右目の端が黒く沈む。舌先に砂利の味。椅子にしがみつく腕の力が抜けていく。どこかで鉄の鳴る音が、彼女自身の体内から鳴っているようだ。教科書通りの代償だった——単独発動が与えるという、感覚の一部の喪失。
「突破口が開いた!」佐伯の声が戻ってきた。梢は周囲の動きを見て把握する。地上では、翠班の数名が、血を滲ませながらも交差点の角に立ちふさがり、一斉に煙幕を投げた。春日菫の姿は、そこにはもうなかった。だが彼女が最後に囁いたであろう言葉と、班が取った勇断が空間を押し広げ、行列の列は苦しげに、だが確実に動き出した。
「子どもを前に! 低く、走らせろ!」梢は口元でそう叫び、祈るように舵を切る。投票所へと向かう列は、小さな渦を描いて反対側の路地へ逃げ込む。監翼隊は混乱を立て直そうとするが、鳴雷槌が放った幻影は敵にも作用した。兵装の一部が誤動作を起こし、非致死弾が予期せぬ角度で落ちる。皮肉なことに、能力の副作用が今はこの場を救っている。
梢は耳鳴りの中で、誰かが彼女の名前を呼ぶのをぼんやり聞いた。視界がまた薄くなる。自律飛行装置が警告音を上げ、機体が自動で高度をとるのが分かった。梢はひとつ息をつき、顎を引いて天を見た。雲は雨を握りしめたままだったが、そこに一瞬、青が差した。その青を見て、彼女は人々の足が止まらないことを確信した。
地上では、投票所の大扉が係員たちの手で必死に開かれ、最後尾の母親が子どもを抱えて中に滑り込むのが見えた。歓声は出なかった。雨の音と人の息遣いだけが、そこにあった。翠班の数名は重傷を負って路肩に横たわっている。春日菫が残したスペースは、彼女の名前が消えずに空気を震わせていた。
梢は鳴雷槌を見下ろした。光は徐々に弱まり、金属の表面に波紋の