鳴雷槌の操縦士と翼の税関

鳴雷槌の操縦士と翼の税関 第20話「第18章」

雨が降っていた。小雨というほど弱くはなく、かといって嵐に呼べるほどには激しくない、金属の縁を叩いて薄く広がる連続音。古いフェリー埠頭の鋼板の匂いが、潮と油の混ざった湿った匂いと一緒に鼻腔を満たす。街灯は濡れたガラスににじみ、遠くの航路標識だけが点滅していた。

雨が降っていた。小雨というほど弱くはなく、かといって嵐に呼べるほどには激しくない、金属の縁を叩いて薄く広がる連続音。古いフェリー埠頭の鋼板の匂いが、潮と油の混ざった湿った匂いと一緒に鼻腔を満たす。街灯は濡れたガラスににじみ、遠くの航路標識だけが点滅していた。

「ここでいいのか?」ジュンが声を張った。彼の手はビニールシートをしっかり握りしめ、指の節が白かった。避難民たちはシートの下で体を寄せ合っている。彼らの呼吸と、濡れた布同士が触れ合う音だけが、雨の中ではっきり聞こえた。

玲は鳴雷槌を抱えていた。槌の頭は黒く鈍い金属で、柄には古い絵柄が深く彫られている。触れると微かに振動が来て、胸の内側に静かな遠雷が落ちるような感覚が生まれる。雨粒が槌の縁で跳ね、細かい水滴が柄に流れ落ちた。

「ハル、ミコト、準備は?」玲は短く訊いた。ハルはスリットの入った小型端末を覗き込み、ミコトは医療バッグのファスナーを閉めた。二人とも目が覚悟で光っている。

「データは拾ってる。通路の一時開通、十六秒だけの余剰がある。そこに合わせて三方向から動く――」ハルは端末を差し出した。画面には単純な軌道と時間のメトリクスが表示されている。玲はそれを指先でなぞった。数字が冷たく手に伝わる。

ジュンは腕を組んだまま、頬に雨を伝わせていた。「俺は同意しない。やり方が危険すぎる。お前が一人でやるつもりなら、俺は人を連れて別の道を選ぶ」

「ジュン…」ミコトが呟いた。彼女の声は湿っていて、震えていた。避難民の子供が薄目を開け、濡れたまつ毛で玲を見た。子供の目には疲労だけでなく、何か期待する光も宿っていた。それが玲の胸の奥を締めつける。

鳴雷槌はひんやりと重かった。玲は思い出す。機体のコクピットで過去に味わった、時間と力が正確に重なりあう瞬間。前世の記憶は操作のリズムを身体に刻んでいる。だが槌を使ったときの代償も、皮膚感覚のように残っていた。単独で使えば、何かを失う。聴覚か、視覚か。いつも身体のどこかが遠くなる。

「みんなの合意が必要だ」とジュンは続けた。「あの規則を無視するな。……君が一人で叩けば、敵にも効く。何かがおかしい。さっきの拘束はその証拠だ」

玲は一瞬、指先で柄を確かめた。合意を無視すれば、効果は敵にも作用する。仲間の合意が揃わなかった今、槌は敵の動きをも変えてしまうかもしれない。だが目の前には避難民の影があり、時間は無い。ハルの端末は残り秒を刻んでいる。

「ジュン、私には…」玲は言葉をつまらせた。胸の中で遠雷が唸る。考える暇はない。もしここで止めれば、税関の網が避難民を捕まえる。だが使えば――

ジュンは顔を歪め、背を向けた。「分かった。なら俺は自分の道を行く。あの連中を引き連れて行く。お前のやることは、責任を負え」

彼は走り出した。濡れた金属を蹴って、暗がりへと消えていく。彼の背中が消えた瞬間、ミコトが小さく漏らすように言った。「ジュン……」

ハルは端末を握り締め、玲を見た。沈んだような、だが決意の光が滲んでいる。「全員の合意は揃っていない。でも、あれが今動かなければ多くが死ぬ。玲、君の選択だ」

玲は喉を鳴らして息を吸った。雷鳴が胸の奥で鳴る。コクピットのイメージが膨らむ。隊列の全員が同じ瞬間に、同じ軌道で、相手の死角を突く。前世で何度も重ねた合図と合わせを、今は鳴雷槌に託すしかない。だが同時に、何かの感覚を失う予感が、指先から体全体に冷たく広がった。

玲は槌を握り、地面にきつく突き立てた。鋼が濡れた地面に触れた瞬間、低い音が空気を振るわせた。雨粒が振動に合わせて跳ね、金属の匂いが強くなる。ハルとミコトの呼吸が一斉に揃った。玲は目を閉じ、思考を一点に集中する――遠い領域でしか鳴らせなかった操作の意図を、仲間の身体に、行動に、時間に落とす。

衝撃が胸を貫いた。低周波の波が耳を塞ぎ、世界が遠くなる寸前の静寂に変わった。気配が薄く、音が引き絞られていく。驚くほど鮮やかに、空気の流れが視界に映った。手のひらが熱くなり、槌の柄が振動してまるで翼の振動を脈打つ感触のようだった。

だが、それと同時に、玲の周囲に奇妙な余波が広がった。ジュンが出て行ったという事実を忘れて、合意の一人が欠けたまま――ある種の曖昧な「共有」が成立してしまったのだ。鳴雷槌の力は、ハルとミコトと避難民たちの間に同調を作り出したが、同時に埠頭の向こう側で待機していた「検査翼」──翼の税関が付けた機械的な監査ユニットにも、その動きが捕らえられた。

「来る!」ハルの声が、遠いところから入ってきた。玲は自分の足が走り出すのを感じた。体は反応した。ミコトが隣で子供を抱き上げ、二人が一斉に走る。鉄製の格子門に向け、三方向が収束する寸前で、監査ユニットが赤い光を投げた。空気が切り裂けるような電子音が鳴る。だがそこには、いつもと違う挙動があった。

機械のアイリスが一瞬、まるで迷ったように揺らいだ。プログラムに組まれた順序とは少し違う脈動で、検査翼が一拍遅れて動いた。そのずれが避難民の列に隙を作る。玲と仲間はその隙を突いた。人々は濡れた足で走り、狭い通路を抜けていく。子供が叫び、靴底が金属を叩く。雨は顔に叩きつけ、心臓の鼓動は耳の中で止めどなく鳴る。

そのとき、誰かの悲鳴が混じった。通路の脇、薄暗い影から黒い制服が現れ、女性の腕をぎゅっと掴んだ。制服には鋭い徽章が光り、顔はこわばっている。高槻──税関の巡査だ。彼は何かに動かされたように、しかし確実にその女を押さえつけた。女は抵抗し、靴が水たまりをはねた。

「やめて!」ミコトが飛び出す。だが検査翼は、鳴雷槌の余波を受けて挙動を狂わせながらも、標的を外すことはなかった。合意の欠如が、思わぬ形で敵をも「共有」へ巻き込んだ。その結果、敵と味方が同じ瞬間に同じ軌道を描き、衝突が生まれた。

玲は槌を握る手が震えるのを感じた。胸の奥で、何かが切り裂かれた。耳にあったはずの高音が忽ち消え、世界は低い嗚咽だけになった。音の縁がぼやけ、会話が泡になる。ミコトの息遣い、子供の泣き声、制服の金属的な息遣いが、同じ湿った空気の中で溶け合う。掌から冷たい血のような液が流れ出る感触がした。だが見ることはできても、音声が遠くなることで判断の遅れが生まれる。判断の遅れが損失を呼んだ。

高槻は女性を押さえたまま、玲の方を見た。彼の目は驚きと、ある種の尊厳を失っていない冷たさを帯びている。「名を告げよ。君の行為は──」声が雨にかき消される。だがその瞬間、ミコトが身体を投げ出して二人の間に飛び込み、女性を引き剥がした。ミコトの肩に、制服の男が体重をかけた。金属と皮膚、雨と、仲間の身体がぶつかった。

「動くな!」ミコトは叫び、腕で女を抱え込み、ハルが格子の制御ハンドルを引いた。隙間が一気に広がる。玲は足を出して押し、背中に冷たい風を感じながら、人々を押し出した。子供がはしゃぐように飛び出し、避難民たちが順に通過する。誰かが笑ったような、嗚咽にも似た声が雨の中に混じった。

だが代償は明らかだった。玲の耳の一部は遠くなり、世界の音の階層が失われていた。道路の向こうで鳴るサイレンの高い悲鳴は、低い遠鳴りに変わり、会話の断片がつながら