影走糸の研究員と緋色局

影走糸の研究員と緋色局 第15話「第13章」

湿ったコンクリートに、影が糸のように流れた。

湿ったコンクリートに、影が糸のように流れた。

薄暗い避難区の通路を、黒い線が床の目地に沿って滑る。澪(ゆづしま・みお)は両手のひらをそこへ押し当て、冷えた感触を指先で確かめた。糸は指の腹にすうっと吸い付くように伝い、そこから胸の奥へと低い振動が届く。影走糸――澪の手の内でだけ光らない、呼吸する索だった。

「準備はいいか」白井響(しらい・ひびき)が低く訊ねた。装甲ベストの表面に星屑のような泥がついている。彼の声はいつもより硬い。周囲には、情報班・現場防衛班・住民支援班のリーダーたちが固まっていた。河合颯(かわい・はやて)はサングラスの奥でモニターを見下ろし、指先を素早く叩いている。市村楓(いちむら・かえで)は子どもたちの毛布を直しながら、澪の方へ小さくうなずいた。

「タイミングは今」颯の声が通路の隅から飛んだ。「緋色局の追跡艇が三分圏内だ。データの吐き出しはここでしか繋げない。ここのノードを落とさなければ、住民の名前も避難経路も全部吸い上げられる」

楓の手が一瞬止まる。布の端を強く握る指に、小さな白い筋が浮いた。

「けれど、屋根のセンサーは敏感です。扉を一斉に開くのも、電波を撒くのも──子どもたちを屋外に出すことになれば、逆に標的になる恐れがある」楓は目を伏せた。「私は、今は……」

澪は感じていた。影走糸が仲間たちの合意を、肌の温度として返してくるのを。合意の輪ができたとき、糸は一本に結ばれ、澪が思い描いた作戦を瞬間的に実現する。だが、合意が欠ければ、挙動は変わる。前に一度、自分だけで糸を使ったとき、澪は聴覚の一部を失った。あの静寂がまだ耳に残っている。

「楓」響の声が硬くなる。「ここで待っていたら、情報班は全滅する。あなたの判断で我々全部が後戻りできなくなるかもしれない」

楓はゆっくりと顔を上げた。目に涙が光る。彼女はこの避難区の名簿を抱えている。誰が優先で出るべきかを決めるのは彼女の仕事だ。だが、彼女は今それを他人に委ねたくなかった。

「合意がなければ、私の糸は働かない」澪は言った。声はいつもより細く感じられた。「一つだけ、私が単独で──」

颯がすばやく首を振った。「だめだ、澪。前と同じになってしまう。君が一人で動けば、感覚が一部失われる。それどころか──」颯の指先がモニターに落ち、そこに映るのは緋色局の追跡艇の接近軌道。赤い点が緩やかにこちらへと寄ってきている。

「それでも、子どもがいる。あの通路の先に──」楓の声が震えた。

通路の先、薄暗い曲がり角に小さな足音が詰まっていた。澪はそこに、三歳ほどの男の子の形を感じた。毛布を二枚重ねにして震えている。彼女は何も言わずに手を伸ばした。影走糸が指に絡み、ひんやりとした束になって掌に巻きつく。

合意は足りていない。楓は首を横に振った。響は顔を曇らせた。颯は計器を叩いて止めた。全員が、それぞれの判断を下した。誰もが自律的に「今は待つ」と言っている。

澪の胸の中で、影走糸が鋭く震えた。彼女は前世で危険な現場の支援をしていた。瞬間的に人を救う術と、代償を秤にかける術を知っている。男の子の心臓の鼓動が指先に伝わる。その鼓動は、澪の腎臓の奥に古い記憶としてこびりついた痛みを呼び起こす。

「私が行く」澪は決めた。声が、通路を割った。

菱形の糸が一度だけ、澪の胸から四方へ弾けるように伸びる。合意の網を経由せず、彼女の意思だけで発射された影走糸は、男の子の体温を絡め取るように絡まりつく。糸の触れた側の空気が好きな金属のように鳴り、耳の奥に薄いガラスを割るような痛みが走った。

世界は、水の中に沈むように遠ざかった。

声が遠くなる。響の呼びかけが、プールに落ちた石の波紋のように遅れて届く。澪は途端に、自分の呼吸の音だけが大きく、内臓のざわめきだけが鮮明に響く異質な世界に立っていることに気づく。音が薄れていくと、触覚は研ぎ澄まされた。糸の微かな振動が指先から肘、鎖骨、心臓へと伝わる。男の子の小さな手が澪の胸に当たり、汗ばんだ暖かさが直接伝わる。

糸は作動した。避難口の電磁ロックが同時に緩み、通路の照明が瞬間的に消えた。情報班が仕掛けたノイズが小さく部屋を震わせ、緋色局のレーダーに届く信号が乱れる。颯がすぐさま黒い箱を押し込み、データの断片を吐き出す。子どもは澪の腕の中で固く目を閉じ、足が宙に浮いた。澪は身体の芯から糸を引っぱり、男の子を自分の背後へと滑らせるように送った。

だが、糸はそれだけで終わらなかった。澪が合意を取らず、自分の意思で作動させたことで、影走糸の性質が別の方向へ波及した。遠方の赤い点の中の一つ──緋色局の追跡艇の制御端末に、微かな振動が伝播した。端末を操作していた局の監査官の指が、画面の縁で微かに震えた。彼は独りごちるように言った。

「来た……解析装置が拾った。奴らの糸だ」

追跡艇の制御は瞬間的に乱れた。数機のプロペラが共振を起こし、軌道を外れて瓦礫の山へと落ちる。その一方で、局の監視網は澪たちの所在をより正確にトレースし始めていた。颯の顔に、瞬間的な硬さが差し込む。

「糸が――向こうにも反応してる」彼は低く吐いた。「単独で使うと、その干渉は敵側にも及ぶ。つまり、緋色局は我々の使い方を解析してるってことだ。これは……選択のコストが彼らの追跡を助ける形になる」

澪は耳の奥にあった痛みが消えないまま、敵の解析ログが自分たちを裏返していることを直感した。自分の行いが、一時的な救助を生んだが、同時に向こうに新しい手掛かりを与えた。合意を無視したその瞬間、影走糸は「作用の範囲」を再解釈し、敵と味方の境界を曖昧にしたのだ。

通路の外で、低い警報の音が遠くで始まる。澪は聴覚の一部を失っていた。細い笛のような高音はもう聞き取れず、声は胸の振動でしか拾えない。だが、彼女の肌は冷たく、糸のわずかな震えが脈打ち、周囲の空気の粘度が変わったことを伝えてきた。

「澪──!」楓の声が届く。直接は聞こえないが、胸に伝わる振動の強さで楓の叫びがどんな色なのかは分かった。楓は子どもたちの毛布を掴み、走り出す。響も颯も即座に後を追う。彼らは自律的に動いた。合意は崩れたが、行為の終局を迎えれば次の判断が下される。澪はその流れに自分を合わせた。

救助は終わった。扉が閉まり、ノイズのシールドが展開され、住民の一部は狭い階段の踊り場に圧縮された。澪はしゃがみこみ、男の子の小さな手をそっと離した。彼は毛布の中で眠っているように見えた。澪は胸の中の糸を手繰り寄せるようにして、自分の意志で収束させた。

「澪、聞こえるか?」響が耳元で尋ねる。だが澪は言葉を直接聴くことが出来ない。代わりに響の喉の動き、呼気の曇り、口元の形それ自体が伝わってくる。彼女は眉を上げて、口を動かした。

「聞こえない。高い音が抜けちゃった」

颯が地面に手をついて、端末を叩く。彼の指先が震えるのが澪の視界に入る。颯はスクリーンを回し、ログを追う。「解析が始まった。奴らは糸の振幅パターンをプロファイル化している。今回の作動で、我々のパターンが一つ追加された。緋色局はそれを利用して我々を同定できるようになる」

楓が膝をつき、指で自分の名簿を握りしめた。「私が……あそこ