影走糸の研究員と緋色局

影走糸の研究員と緋色局 第12話「第11章」

広場の空気は焼けた油の匂いと、切れた電線の焦げる匂いで層を成していた。コンクリートの陰から、薄汚れた毛布にくるまった避難民たちの息が白く上がる。巨大な宣伝スクリーンが緋色の帯を流し続け、そこに局の局長・早瀬賢吾の平然とした顔が映っている。声は低く、どこか楽しげだった。

広場の空気は焼けた油の匂いと、切れた電線の焦げる匂いで層を成していた。コンクリートの陰から、薄汚れた毛布にくるまった避難民たちの息が白く上がる。巨大な宣伝スクリーンが緋色の帯を流し続け、そこに局の局長・早瀬賢吾の平然とした顔が映っている。声は低く、どこか楽しげだった。

「再配置は救済だ。抵抗は混乱を招く。協力すれば短期間で安定を回復する」——その大きな声が、広場のすべてを覆っているようだった。

里見葵はコンクリ壁に寄りかかり、震える手で影走糸――黒い、光を吸う糸を取り出した。糸はただの器具ではなく、かつて彼女が研究所で弄んだ“媒介”だった。普段は薄い影のように視界の端にしか見えないが、いまは確かに指先で弾くと僅かな振動を返してきた。

「葵、無茶は……」西村香織が低く言った。香織は避難所の運営を取り仕切ってきた。瞳の端に赤い光が残っているのは、スクリーンの反射だ。原田純平は、膝に包帯を巻いたまま武器箱を抱え、口を真一文字に結んでいた。田中恵美子は、毛布の下で子供の体温を確かめながらこちらを見上げる。全員が消耗していたが、それでも意志はあった。

「合意を取ってからだよ。今回の作戦は一度きりだ。皆で決めた『四つの動き』を同時に実現するために、糸を使う」葵は静かに説明する。声は震えていなかったが、指先の糸は微かに煙の匂いを吐き出すように温度を帯びていた。

「全員か?」純平が吐き捨てるように聞いた。彼の瞳には、自分たちの中にいる者が捕まったら一気に瓦解する恐れがあることが映っていた。

「いや、連絡できないチームがいる」葵の答えに、香織の顔が硬くなる。通信網は局により部分的に遮断され、南側の防衛線にいた一隊とは一度も連絡がついていない。もしその一隊を含めずに糸を走らせれば、条件が満たされない。だが時間はない。局の鎮圧部隊は秒単位でこちらに迫っている。

「合意がないまま使うと、奴らにも作用するんだよね」恵美子が小さく言う。そうだ、と葵は頷く。仲間の合意を無視すれば、影走糸は“計画の実体化”の境界を誤認し、そこにあるすべてを同一の操作対象として扱う。敵まで作用することは攻撃的な効果を生むが、制御不能の副作用を伴う。研究データにはそう書いてあった。だが紙の上の言葉と、ここにいる人間の表情は別だ。

「それでも、いま救うべき命はここにいる」香織が言った。彼女の指先が震え、唇が割れた。避難民の一人が咳き込み、子供が寝返りを打った。葵は糸を握りしめ、窪んだ胸の奥で何かが痛んだ。

「俺は南の隊を探す」純平が立ち上がろうとする。香織が手を伸ばして止めた。

「ここを空けられない。葵、どうする?」その問いに応えるのは、彼女だけだった。

葵はゆっくりと呼吸を整える。影走糸の使い方は単純だ。糸を街の影に沿わせ、計画を“言葉”として織り込む。参加者が同意を示せば、その“言葉”は各人の行動に触れ、事前に設計された動きを正確に引き出す。成功すれば短時間で精密な共同作戦が成立する。だが——

孤独に行使すれば、反動が体を引き裂くように襲う。研究員として、葵はそれを知っていた。仲間の合意の有無が、糸の対象を制限するバリアとなるのだ。バリアがないと、糸の実体化は身体の深い部分を糸の媒介として借用し、神経の感度を削る。つまり感覚の一部が失われる。彼女は何度も実験データを見返して、その代償の重さを知っていた。

「葵」香織の声に、わずかな瞳の涙が光った。「全員が揃わないなら……」

「私はここにいる人たちを守る」葵は言い切った。言葉に隙がなかった。だがその決意の裏には、自分だけが代償を負うという計算もあった。もし自分が一人で使えば、仲間は合意外の対象として糸の実体化による影響を受けるかもしれない。だがそれは逆に、局の重装備も巻き込めるということでもある。選択肢はどちらも血まみれだ。

「葵、やめてくれ」純平の声が震える。一歩踏み出しかけた彼は、拳を握り直して踏みとどまる。避難民の一人が、床に落ちたお茶碗を握りしめている。子供の寝顔は、世界で最も脆い像だった。

葵は糸を指先で弾いた。黒い線が空気を裂き、壁の影を伝って伸びていく。影走糸が広場の影と接触するたび、細かな震えが伝播した。糸はまるで意思を得たかのように、息を吸うように膨らみ、そして一瞬で静止する。

「香織、皆の同意は取れた。だが南は不明。ここにいる全員の合意はあるか?」葵は問いかける。その言葉に、避難民の中から低い声で「賛成」や「行け」といった合図が返ってきた。香織、純平、恵美子の顔に、曇りが消える。承諾だ。だが南の不在という穴はまだ残る。

葵は決断した。糸を引き、ついでに自分だけで最後の織り込みを始める。もし全員の合意が行き届かなかったら、影走糸は広範に作用する。敵の装甲車も、監視ドローンも、その網にからめ取られるだろう。犠牲は出る。だが取り戻せる命もある。葵はその天秤を静かに振った。

痛みは着火のようにやってきた。糸が完全に結ばれる瞬間、葵の頭の中に金属が砕けるような爆ぜる音が走り、右の耳孔が一瞬熱に溶けるように閉ざされた。視界の端から、赤と青の色彩が流れ落ちる。手の中の糸は焼けるように熱く、皮膚に小さな焦げ跡を残した。葵は息を吐き、膝をつく。

「葵っ!」純平が飛びかかる。香織が懸命に彼女の肩を支える。恵美子がステンレスの水筒を差し出す。だが葵はそれを受けとらなかった。耳鳴りが耳中を満たし、右側からの音は遠ざかった。色を識別する能力の一部が奪われたのか、世界は薄い灰色のグラデーションに変わりつつあった。匂いは残っていた。味も。だが音と色の一部が、自分の内部で抜け落ちていくのを感じる。

「大丈夫か!」誰かが叫ぶ。声は遠い。葵は自分の呼吸だけに集中した。胸の奥で、影走糸の“言葉”が広場の外へと伝わっていくのを感じる。触れた影は振動を伴い、都市の影と糸が絡み合っていく。遠くで、ドローンの羽音がうなる。だがいま、いくつかの羽根が異常な軌道を描き、エンジンが不自然に沈黙するのが見えた。糸は敵をも含めて結び付けてしまった。

「影が…機械を縛ってる」香織が言った。彼女の口調には驚きだけでなく、恐れも混じっていた。監視カメラが光を失い、装甲車の車体が僅かに揺れる。局の運用システムは、影走糸の信号を異物として拾い上げ、制御ループに干渉されたのだ。

だがその作用は黒い刃にも似ていた。装甲車の制御が層を乱し、数台が路上で斜めに止まり、転輪が空転して砂埃を上げる。敵兵の悲鳴と、金属と金属が擦れる断末魔が広場を引き裂く。葵は、その音の一部が右側から消えていることに気づかないまま、世界が一瞬の静寂と混乱を同時に味わうのを見た。

「葵、これ……私たち、やったよ!」香織が笑った。涙がふきだして、顔を伝って落ちる。純平は避難民を抱き上げ、壊れかけたバリケードを押して進む。恵美子は、手早く傷を縫い、薬を渡していく。全員が、自分で決めた行動を実行していた。葵が糸を引いた瞬間に、彼らは自らの意思で動いたのだ。合意の力は、計画を確かなものにしていた。

しかし広場の上空、スクリーンは切り替わった。局長の顔が再び映り、今度は冷たい笑みに満ちていた。

「影走糸の痕跡を検出した。発信源