影走糸の研究員と緋色局

影走糸の研究員と緋色局 第11話「第10章」

体育館の窓から差し込む午前の光が、折りたたみ椅子の金属を白く光らせていた。焦げた飯の匂いと消毒液、それに人々の湿った息が混じり、避難所全体が静かに煮えたぎっている。瀬戸紬は上段の観客席に腰を下ろし、膝に置いたノートパソコンの上で指先を擦った。机の端に置かれた小さな芯糸器から、黒光りする細い線が一本、かすかに震えているのが見える。影走糸。彼女の掌の温度に反応し、微かな弦楽器のような低い共鳴を空気に刻んでいた。

体育館の窓から差し込む午前の光が、折りたたみ椅子の金属を白く光らせていた。焦げた飯の匂いと消毒液、それに人々の湿った息が混じり、避難所全体が静かに煮えたぎっている。瀬戸紬は上段の観客席に腰を下ろし、膝に置いたノートパソコンの上で指先を擦った。机の端に置かれた小さな芯糸器から、黒光りする細い線が一本、かすかに震えているのが見える。影走糸。彼女の掌の温度に反応し、微かな弦楽器のような低い共鳴を空気に刻んでいた。

「――託していただければ、私たち緋色局は生活基盤を保障します。安全は渡します。手続きに同意いただくだけでいい」

礼儀正しい合羽を羽織った男が、笑顔を作ってマイクを握る。飛鳥礼司。緋色局の側近者と名刺に刻まれた文字は、避難民の前では信頼の印にも不気味な刃物にもなった。小さな赤い徽章を胸に灯している。その徽章に群がるように、即席の机に行列ができている。若い母親が紙の束を抱きしめ、老人がぎこちない指で書類に印を押す。紬はそれを見ながら、自分の胸が硬くなるのを感じた。

「制度は、人を救うんだ」菜穂が、体育館の中央で声を張った。丸い顔に皺寄せた優しさがある。彼女は配給班の一人で、飛鳥の提案を受け入れれば継続的な支援が受けられると信じていた。「個人の正義だけじゃ、ここの人たちを守れない。信じていいって、私、そう思う」

「制度って、個別を切り捨てるんだ」高峰燐が短く言い返す。身長は低いが喉の奥が強い。彼は紬よりも現場で泥をかぶって動くタイプで、窮地にある人間の尊厳を守るのが先だと考えている。「同意って言葉ひとつで、誰かの選択を奪える。俺たちはそれをもう見た」

二人の声は波になって広がり、遠巻きにしていた群衆の表情を揺らす。紬は膝に触れた糸器を見つめる。影走糸は、彼女がかつて研究室で扱ったものだ。光のように速く、だが実体を持つ細い線。それは「共有された作戦」を具現化するための媒介器具であり、紬の能力の中核だった。だが代償もあった。条件も厳しかった。

「これを使う。賛成と反対を可視化する。どっちが多数か、みんなに見せる」紬は声を上げた。周囲がざわつく。彼女は立ち上がり、手のひらを伸ばす。微かな黒糸が静かに繭を伸ばすように膝から生まれ、指の先へと這い上がった。糸は生き物のように震え、空気を引っ掻く音を立てた。

「紬、それ――」燐が間に入る。彼は顔を近づけてきた。「同意はいるんだろう? 無理にやるな。独断で発動したら、あの副作用が――」

紬は頷いた。糸は彼女の意志に合わせて小さく蠢く。彼女の声は震えていないが、掌の温度が冷たくなるのを感じた。「同意がない人には触れない。参加する人だけで結ぶ。だけど、時間がない。飛鳥がここで書類を回している。判断を早くしないと、強制に転じる可能性がある」

数名が前へ出た。菜穂は迷いなく指先を紬の掌に当て、顔を固める。「私、賛成。でもこれは…みんなに強要しないで」

年配の女性が首を横に振る。幼い少年は母親の袖に顔をうずめる。燐は腕を組んで黙っている。ユウジが、背後からかすかな咳払いをした。彼らの反応が紬の胸に重くのしかかった。影走糸は「共有」を前提に動く。仲間の合意がないまま触れれば、力は敵にも作用する。単独で行使すれば、紬自身が何かを失う。彼女は、これらのルールを自分の肉で知っていた。

「いいか、やるよ」紬は決めた。掌にある糸を一気に広げ、参加を表明した者たちの喉元へとそっと触れさせる。触れた瞬間、糸は人の声帯の辺りで光るように固まり、そこから細い音の線を伸ばしていった。糸に触れられた者の目に、小さな蛍光の輪が浮かぶ。彼らの声は、体育館の空気とは別の透明な流れとして紬に届いた。

紬は糸を織り、声の波形を結び合わせていく。賛成の声は赤みを帯び、反対は灰色に沈む。糸が交わるごとに、紬の視界は拡張し、相手の顔の細部がズームされる。ある老婦の唇の震え、少年の眼差しの曇り、飛鳥の微かな口角の齟齬。人々の表情が糸で引き出され、紬はそれらを一つの布に織り上げていった。

だが操作が進むにつれて、紬の胸の奥で異変が起き始めた。低く、胃の辺りをえぐるような痛み。両耳の奥が詰まったように鳴り、音が遠ざかる。掌の糸が手から滑ろうとした瞬間、彼女は糸をぎゅっと握りしめた。だがその行動は、理性ではもう十全ではなかった。片目の視界が薄く霞み、口の中に金属の味が広がる。

「紬!」ユウジが叫んだ。だが彼の声は蜂の羽音のように遠く、紬には届かなかった。彼女は混乱の中で一つの事実を見た。燐が参加を拒んでいたはずの、あの老人の糸の脇に、薄暗い細い線が別に潜んでいる。人が意図せず装着しているように見える、外部から差し込まれた別種の糸だ。冷たい黒で、彼女が出した糸とは違う。飛鳥のポケットの中に、もっと太い糸束があるのが、同じ視界の端に映った。

それは――仕組まれていた。紬の手の動きが、最後の形を描いたとき、彼女が無意識に掠め取った確認音が体育館を貫いた。飛鳥の表情が瞬時に引き攣る。途端に、彼の姿勢が変わり、いつもの制御された笑顔がひび割れた。彼はポケットに手を伸ばし、無言で小型の送受信機を触った。紬の糸は、参加者たちの声とともに、その送受信機にも絡みついた。

「――何してる、礼司さん?」菜穂が歩み寄った。飛鳥は愛想を振りまこうとするが、その目が焦点を失っている。彼の声は一瞬だけ、機械的な反響を帯びた。体育館の空気が一瞬凍ったように静まる。紬はその瞬間、重大なことに気づいた。影走糸は、仲間の合意を得ていないまま触れたことで「敵側」――ここでは飛鳥と緋色局――にも作用した。だがその作用は予想とは違う形を取っていた。

飛鳥の手元で、黒い別線が彼の徽章と繋がる。徽章の裏側に潜む小さな器具が、外部からの同意操作装置だった。紬の糸がそれに触れたことによって、そこに仕組まれた「同意の起動」が露呈した。つまり、緋色局は既に多くの避難民に、同意を生成するための補助器具――あるいは強制的な同意を挿入する装置――を仕込んでいたのだ。それが表面の笑顔と配給という善意の皮を突き破って、今ここに姿を現した。

「やられた……」紬は唇を噛み、視界の縁にある光景を手探りする。耳鳴りはますます激しくなり、左手の指先が痺れてきた。単独で糸を伸ばした代償が、静かに身体を蝕んでいる。研究室で何度も試した反動が、今ここで本物の痛みとして返ってきた。声が掠れて出ない。

だが体育館は静かではいられなかった。燐が前へ飛び出す。彼は躊躇なく飛鳥に向かって詰め寄り、徽章を掴もうとした。飛鳥の表情は硬直し、周囲のスタッフが一斉に制止しようと手を伸ばす。ユウジは即座に燐の腕を押さえ、紬の方へ視線を戻す。

「紬、大丈夫か?」ユウジの声がようやく届いた。紬は首を振るが、言葉がまともに出てこない。金属味が広がり、口の中が乾いている。影走糸を放った反動で、彼女は聴覚と味覚の一部を失っていた。景色の片側が薄くなる。彼女の身体は、彼女がこれまでに払った代償の本質を示していた――使い手は、自分の一部を差し出すことによってのみ、人々の共有された行為を現実化できる。

「今、ここで同意を取るんじゃない!」燐が叫ぶ。「こいつらは偽の同意を作ってる! 紬、