疾風杭の法医学者と雨の王女

疾風杭の法医学者と雨の王女 第6話「第5章」

会議室の蛍光灯が、一つ、また一つと落ちていった。

会議室の蛍光灯が、一つ、また一つと落ちていった。

鈍いプラスチックのカバーが最後の光を吐き出すと、青白い影が床に伸びた。椅子に座る人々の顔がその都度浮かび上がり、表情の輪郭を削られ、やがて点描のようにぼやけていく。誰かが息を吸った音が、普段より大きく聞こえた。床に置かれた小さな金属箱──疾風杭は、レンの掌の中で冷たく震えた。普段はさして重くないその杭が、今は手の中で重りのように感じられる。

「内通者のこと、どうするんだ」島津武が短く言った。四十代半ばの体躯はまだ消防の名残を残している。彼の視線は梶原理人の席に釘付けだ。梶原はロジ担当として避難所の物資移動を仕切っていた男で、昨日のレンの記録から不審な挙動が浮かび上がった。だが、梶原は今、口を噤み、目だけが泳いでいる。

「問い詰める。証拠はある」相沢真奈が言った。前の学校の教師らしく、言葉は穏やかだがその奥に鋭さがある。「でも暴力はやめて。誰かを突き出して終わりにしたくない」

蛍光灯の一つがぷつりと切れ、暗闇が会議室の端から忍び寄る。外から薄い雨音が入ってきた。窓際の古い電灯がまだ残った光を吐いて、真奈の頬に小さなハイライトを作る。

戸の隙間から紙が滑り込んだ。封筒ではなく、紙一枚。朱色の章印と、事務的な活字。「降雨管理局通達──避難所の自律的合議は暫定停止、巡雨隊の一時介入を認可する」緊急性を示す太字。文末には、二十四時間以内の巡回および管理権移譲の旨が淡々と書かれていた。

「何だこれ……」誰かが呟き、紙が床にすれる音がした。蛍光灯はさらに一つ、落ちた。光が欠けるたびに、声の輪郭も細くなっていく。

「送り主は──」真奈が紙を持ち上げて章印を指さす。レンはその印を見つめた。印の周縁には細い波線のような彫りがあって、見覚えのない紋章だった。公式文書であることは間違いない。制度が、じんわりと避難所へ手を伸ばしている。その冷たさが、レンの背筋を刺した。

「これが来たら、勝手に会合なんてできなくなる。内部の判断を外に委ねろってことだ」島津の声に怒りが混じる。「外と通じてたやつを引きずり出して、直接問いただすべきだ!」

梶原の目が動いた。誰もそれ以上は言わなかった。だが、誰かが言葉にしない怒りを抱えている。レンは掌で疾風杭の冷たさを確かめる。杭は静かに、しかし確かにそこにあった。桜の木のような白い柄に細い鉄が埋め込まれている。それを見て、島津はふいに笑ったように言った。

「お前……あれ、使えるのか? あの杭って──」

レンは口を開けたが、言葉が出なかった。説明するのは簡単だ。杭を介して、複数の意志を同期させることができる。仲間と共有した作戦を一度だけ──完璧に実現するための装置だ。しかし条件と代償がある。単独で打てば、反動で感覚の一部が失われる。仲間の合意を無視した場合、その"実行"は敵にも作用してしまう。説明すれば、会議は分裂するに決まっている。選択を他人に奪わせないために生まれた自分の力を、どう取り扱うべきか。言葉は重荷だった。

その時、外で金属が擦れる音。遠いが、はっきりとした力のある引き裂き音だった。人々の顔が一斉にそちらを向く。窓の向こう、避難所を囲む簡易フェンスの一部で誰かが作業している。巡雨隊の方法か、特異な合図か。暗がりの中で梶原の肩が震えた。

「離れて!」子どもの叫びが廊下の方から聞こえた。小さな足が走る音。レンはとっさに立ち上がった。梶原が立ち上がり、会議室の戸を押し開けようとする。口元が引きつっていた。

「梶原──何をするつもりだ」島津が一歩出る。梶原はふっと笑った。笑顔は笑顔ではなかった。それは、誰かに押し付けられた台本の一部のようにぎこちない。

「外へ行く。子どもの身を守るだけだ」梶原の声は震えていたが、足は動いた。廊下を抜けて外門へ向かうその後ろ姿に、真奈は飛び出そうとした。

レンは疾風杭を取り出すと、迷った。杭を打てば、梶原をその場に縛ることができるかもしれない。だが、会議の合意は得ていない。住民の大半が今ここにいるわけではない。合意なき実行は、"敵にも作用する"。それはつまり、梶原の動きを止めるために杭を使えば、梶原自身の"意思"も外部から操作されるかもしれない。子どもを守るための介入が、誰かの行為を強制することになる──レンはそれを望まなかった。

だが、子どもの泣き声は更に近づく。廊下の明かりがふっと滲む。少年の肩が扉を押し開けたとき、向こうにいたのは梶原の肩脇にある小さな手だった。子どもは恐怖のあまり顔を歪め、口を利けない。

レンの思考は一瞬にして割れる。合意を守れば多数の判断で動ける。だが時間はない。巡雨隊が来れば、もっと大きな力が住民から選択を奪うだろう。今、目の前でそれが始まる。

手が動いた。レンは衝動に任せて疾風杭を床に打ち込んだ。杭が床材にぐぐっと入ると、細かな振動が掌から腕を伝い、肩へ、胸へと広がった。空気が、音が、視界が一瞬だけ鋭くなる。レンは耳鳴りのような高い笛声を聞いた。杭から立ち昇るのは風というよりも、時間を押しつぶすような圧だ。

廊下の人間たちは一斉に動きが止まった。梶原は半歩動いて固まる。子どもの手が、唐突に梶原の腕を離れ、床に落ちた。梶原の顔に、レンには分かるような滑稽な静けさが広がった。身体は動かず、目は訴えるようにレンを見た。だがその目は、自分の意思で動いているようには見えなかった。

「――っ」真奈の叫び。レンは杭を握る手に冷や汗が出るのを感じた。杭の震えは急速に収まり、同時にレンの内側で何かが切り離されたように感じられた。空気のを嗅ごうとしたが、そこに匂いが無かった。雨の鉄の匂い、消毒液のアルコール、それらがすべて遠ざかる。舌先にあったはずの金属の味も、消えた。世界が匂いを失くした。

「レン! 何をしたんだ!」島津が近寄る。レンは自分の名を呼ぶ声の振動は感じたが、相手の服の匂いも汗の塩気も感じない。手の平を握ってみると、細かい感触──木目や紙の縁が曖昧で、指先の感覚が遠い。鋭い痛みが脳裏をかすめる。単独で杭を打った反動だと、理屈はすぐに来た。しかも、梶原の体が自分の意思で動いているように見えなかったことが、レンの胸を締めつける。

梶原は声を出そうとした。だが口から出たのは、誰かが彼に向けて命令したとしか思えない低い言葉だった。「…外へ行け、指示通りに」彼の口調は、他者の言葉をなぞっているだけに聞こえた。目は真に相手を選んでいない。

「敵にも作用するって……こんなふうに?」真奈が震える声で言った。島津の顔が青ざめる。会議室の空気が、また幾分か陰鬱になった。誰かの意思を外側から動かすこと。それは守るための手段として選んだもののはずだった。その瞬間、レンは自分が選択を奪った側になったことを理解した。

「止めろ、梶原!」子どもが泣き叫ぶ。梶原の体はぴくりと震え、やがてゆっくりと倒れた。レンは杭を抜こうとしたが、杭はもう温度がなく、手の中で重さだけを残した。打った回数を数える指先は、正確な数を感じ取れない。杭はもう、震えていない。効力は尽きたように見えた。ひとつだけ、残酷に確かなことがあった──一度しか使えない、ということ。

後始末はすぐに始