疾風杭の法医学者と雨の王女

疾風杭の法医学者と雨の王女 第5話「第4章」

雨は、まだゆっくりと落ちていた。糸のように細く、しかし確かに絶え間なく。仁は、体育館の外に置かれた古いベンチにもたれ、手のひらで耳の後ろをさすっていた。そこから伝わる感覚だけが頼りで、周囲の音は遠く、砂を噛むようにこもっている。遠くの子供の笑い声も、誰かがプラスチックのコップを重ねる小さな音も、すべてふわりと距離を取られていた。

雨は、まだゆっくりと落ちていた。糸のように細く、しかし確かに絶え間なく。仁は、体育館の外に置かれた古いベンチにもたれ、手のひらで耳の後ろをさすっていた。そこから伝わる感覚だけが頼りで、周囲の音は遠く、砂を噛むようにこもっている。遠くの子供の笑い声も、誰かがプラスチックのコップを重ねる小さな音も、すべてふわりと距離を取られていた。

「どう? 少しは戻ってきた?」

綾が傘の先でベンチの背を軽く叩き、顔を覗き込む。彼女の声は、仁の側では胸の振動として届いた。重低音だけがはっきりして、高い音域は霞んでいる。耳鳴りが高い蜂の羽音のように、ずっと背後で鳴っていた。

「まだだ。たぶん、数時間ってところだと思うけど……」

仁は力なく肩をすくめる。ポケットから取り出した手鏡で耳の外側を覗き込むようにしてみるが、見た目に異変はない。湿った空気が鏡の縁に小さな水滴を作る。指先に、先刻まで戦った土と鉄の匂いが残っていた。たたらを踏んだように固まった泥の感触。彼はその感触を確かめると、何度も深呼吸をした。

「でも、脱出ルートは確保できた。みんな、無事に体育館に入ってる」

岡部が、黒いビニール袋を肩にかけながら報告する。彼の声も低くてわかりやすかった。仁は頷き、視界の隅で人々の動きを確認する。雨に濡れたブルーシートの列、毛布を抱えた高齢者、幼児をあやす母親の影。彼らは安全を確保されていると信じて、ただそこにいた。

「仁が杭を刺した瞬間、雨粒が止まったように見えたんだよね。あれは、映像として忘れられない」ユイがそう呟いて、手に持った缶コーヒーを差し出した。彼女は法医学の知識を実地で活かす――と言えば聞こえはいいが、実際は冷静に事象を観察する癖がついていた。瞳の奥に不意に光るものがあった。

彼女の言葉に、仁は口元で小さく笑った。記憶は景色として残っている。疾風杭が地面を切り、彼が合図を出したあの日のこと。杭を中心に空気が巻き起こり、足をすくめるような風と共に、予定していた脱出経路が一瞬だけ『確定』した。それは計画であり、奇跡のようでもあった。

「条件は守った。みんなで合意して、役割を決めて……でも、杭を刺して起動したのは俺だからな。代償は俺のところに来た」

仁の声は小さい。それを聞いた綾が無言で仁の手を取った。彼女の手は眠っていた熱を持ち、しっかりと仁の指の間に絡んだ。言葉はいらなかった。

「あなたが全部背負う必要なんてない」綾が言った。言葉の重さに、体育館の中の誰かが壁を叩く小さな音が重なって届いた。仁は目を閉じ、耳鳴りの合間にその音を拾おうとする。大雨のリズムが身体の奥で共鳴する。

数時間前、彼らは一つの作戦を共有した。疾風杭は媒介であって、作戦は仲間が決める。同じ意思を持って動くことが、杭の力を味方だけに作用させる条件だ。だが、杭を実際に触れて作用させる『発動者』は、一人しかなれない。発動者には代償が来る。仁はその代償を受けた。聴覚の一部を、短期間だが失ったのだ。

「これで終わりだと思う?」ユイが素直に訊ねる。眉間に細かい皺が寄り、彼女は科学者らしい冷静さと、仲間に対する責任感が混じった顔をしていた。

「終わりじゃないよ」岡部が答えた。「でも、次にどうやるかを考えないと。杭は一度きりの実戦行為を成立させる装置だ。今回のように、一箇所に刺して流れを作ることはできるけど、数があるわけじゃない。しかも使う人間の身体に負荷が来る」

「俺が、また発動者になるって選択肢がある。だけどそれを俺一人に押し付けるわけにもいかない」仁は手袋の縫い目を撫でた。雨の匂いが、遠くの木々の方から流れてくる。選択は、仲間全員で、しかも被害を最小限に抑える形で行われなくてはならない。

そのとき、傘の骨が小さく擦れる音がした。仁には薄い布の擦れ声としてしか聞こえなかったが、綾はすぐに振り返った。彼女の顔が微かに強張る。入り口の方から歩いてきた人物がいた。深い紺色の雨衣、胸には巡雨隊の徽章。年齢は三十代半ば。髪は濡れて艶やかに張り付き、表情は仕事と倫理の狭間で揺れているようだった。

「巡雨隊の、深澤です。お世話になっております」彼女は軽く会釈をした。声は抑えられていて、言葉に無駄がない。仁は立ち上がり、片方の耳に手を当てて挨拶を返した。綾がすぐに歩み寄り、簡単な事情を説明する。深澤は頷きながら、時折ノートに簡単な走り書きをしている。

「御無事で何よりです。ただ、いくつか確認したいことがありまして」深澤は周囲を見渡し、最後に仁を見つめた。「先程の杭について、あなたが発動者ですか?」

仁は即座に頷いた。深澤は眉を一つ上げる。彼女の目には、専門家としての興味と、そこから生じる職務的な緊張が混在していた。

「巡雨隊では、杭に関するデータは集積しています。個別の作戦を妨げる意図はありませんが、杭の作動が周辺に及ぼす影響は、厳密に管理する必要があります。『合意』のない作動が広域に及ぶと、予測不能な被害を生みかねませんから」

彼女の言葉は柔らかいが、その背後にある制度の重さを仁は感じ取った。綾が細く息を吐く。ユイが鋭く食い下がった。

「合意がなければ杭は敵にも作用すると聞いています。制度側は、その合意をどうやって保証しているんですか?」

深澤は一瞬迷った表情を見せ、その後、ひとつの書類を鞄から取り出した。黒いスタンプと、巡雨隊の印が押されている。書類を開くと、中には図表と共に小さな電子回路図が記されていた。それは杭の共振周波を読み取り、同時に参加者の合意を『確認』するための機構に見えた。

「我々は『合一符』と呼んでいます。現場での合意確認と、杭の作動ターゲットの限定を助けるための補助装置です。だが、これが100%安全とは言えません。誤差の範囲や、通信の輻輳によっては判定が揺れることもあります」深澤はゆっくりと説明する。彼女の瞳が、ふと遠いところを見るように変わった。

「それに……」と彼女は続けた。「裁量というものがあります。私は現場で人々を守るために動いていますが、上の判断は違うこともある。あなたたちのような民間の介入は、時に制度的な安全装置を脅かすと見なされることもあるのです」

言外に含まれたのは、巡雨隊が単純な守備隊ではなく、制度を維持するための執行部隊だという事実だった。雨の王女は厳粛な儀式のように名前だけが語られる存在で、実際に街を管理しているのは巡雨隊のような人々だ。深澤はその歯車の一つでありながらも、自分の手で誰かを傷つけることを望んでいない様子だった。

「それで、何が言いたいかというと――」深澤は書類を閉じ、顔を上げた。「杭の複製、量産の痕跡がこちらの調査で見つかりました。小規模な民間の工房で、ですが、同一の材質、同一の共振コアの構造です。つまり、杭は既にあなた方だけの『特殊な道具』ではなくなりつつある」

その言葉が落ちた瞬間、体育館の雨音がいっそう大きく感じられた。綾の手が仁の腕を強くつかむ。ユイは前のめりに座り直し、眉間に深い皺を寄せる。

「量産…?」岡部が低く吐いた。「もし巡雨隊がそれを手に入れたら、制御を一手に握れるってことか?」

「あるいは、ある組織が独自に配給して」深澤は口角を