疾風杭の法医学者と雨の王女

疾風杭の法医学者と雨の王女 第25話「第23章」

雨はまだやまない。鉄と布と古い板で作られた仮設広場の上を、冷たい針のように打ち付けながら落ちている。赤い数字が空中に浮かんだ——全雨統制機構の塔から投影されたカウントダウン。00:12:07。数字の縁から水滴が伝わり、光の糸がひび割れていくように見えた。

雨はまだやまない。鉄と布と古い板で作られた仮設広場の上を、冷たい針のように打ち付けながら落ちている。赤い数字が空中に浮かんだ——全雨統制機構の塔から投影されたカウントダウン。00:12:07。数字の縁から水滴が伝わり、光の糸がひび割れていくように見えた。

椎名天音は、掌で疾風杭の金属を確かめた。杭は長さ三十センチほどの鋭い棒で、先端は刃のように光る。打ち込むと、杭によって共有された作戦が「一度だけ」現実になる。天音はその仕組みを説明する言葉を知っている。だが今は説明ではなく、手触りだ。杭の冷たさが、彼女の指先から胸までを直線で通った。

「残り十分、統雨局のプロトコルは隔離モードに入る。ドームを起動して全区域を遮断する」低く合成された声が、塔のスピーカーから流れた。声と同時に、広場の外側に設置された大きな格子が軋んで降りてくるのが見えた。鉄の匂いが雨に混ざり、誰かのコートから線香のような焦げた匂いが立ち上った。

「時間がない」黒河凪が短く言った。凪の顔は泥と汗で黒く、呼吸は早い。彼はいつもなら先に動くタイプだ。今は天音を見た──その瞳に、問いと期待が同時にある。

天音は杭を握り直した。「合意が必要だ。これを単独で打つつもりはない」

凪の口が動いた。「だが、合意を待っている時間はない。お前ひとりでやれ。お前は──」

天音は言葉をかぶせた。「私が単独で使えば、感覚の一部を失う。前にも説明したはずだ」彼女の声が少し震えた。そこに確信が混じっているのは、説明ではなく経験だからだ。天音は以前、この杭を一度だけ独りで走らせた。その時、左耳から世界のざわめきが消え、香りというものが判らなくなった。小さな代償だと思っていたが、夜が来ると世界が均衡を失ったように感じた。法医学者だった前世の直観が、体のわずかな異変を逃さない。

凪の手が杭の柄に届きかけた。凪は仲間を守るためには犠牲も辞さない男だ。天音はその手を払いのける気にはならなかった。だが彼女はすぐに、別の危険を思い出していた——合意の形を歪めれば、杭は「敵にも」作用するという規定だ。

「無理やり合意を得ようとすることは、能力を全方向に波及させる」松永透が指先でタブレットを叩きながら言った。透の画面に、最近取得した監視映像が飛び込む。先ほど、統雨局の一部隊が模擬杭を無断で作動させたテスト映像がある。画面の中で、杭が放つ風は片側だけに留まらず、双方に吹雪を起こした。雨よけテントが破れ、子供の叫びが混ざり合った。影の端で、雨の王女――影像的な意志は映らなかったが、その行動を正当化する制度の冷たさだけが映っている。

「敵にも作用するって、具体的には?」千束理沙が小声で訊いた。彼女は避難民の代表で、握りしめた布の縫い目に指をかけている。理沙の手は震えていた。投票の手続きに関する鍵を彼女は握っている。誰が合意の鍵を持つかは、ここ数日の議論の焦点だった。

「敵が巻き込まれるってことは、無差別な変化が起こる。制御できない」透は映像を指差して言った。「こっちの意思で押さえたつもりでも、もう一方の世界を同時に変えてしまう可能性がある。あの日のテストは、杭が“強い意志の独裁”を補強することを示した。だから規制が生まれたんだ」

理沙が顔を上げて、赤い数字を見た。00:09:58。

「選択肢は二つ」天音は息を吐いた。「一つは、私がまた単独で使って咎(とが)を負うこと。もう一つは、みんなで合意して、共同で一回だけ使うこと。だが共同で使うなら、その合意は自由である必要がある。強制やごまかし、監視技術を使った誘導のない、手渡しの意思決定だ」

「理想だな」凪が短く笑った。「だが、理想は時間を食う。統雨局は投票を邪魔する術を持っている。私たちが票を取る前に、隔離を始めるかもしれない」

「だから、今すぐに手続きするんだ」理沙の声が震えながらも強くなった。「私たち避難民はこれまで“選ばれる”側だった。選ばれないことが安全の意味を変えた。今回、私たちが自分たちのことを決めるなら、そのための投票を守る方法を私たち自身で作らないと」

透が素早くテーブルの上の紙箱を開け、粗末な投票箱を取り出した。中には簡易の合意札と、署名するための木片、そして複製不可能に見える焼印機が入っている。彼はタブレットの接続を切り、監視の干渉を逃れる独自の周波数で投票装置を起動した。

「不正はできない」天音は言った。「監視を外して手渡しで、一枚ずつ。合意の鍵はここにある杭の一つじゃない。誰が『実行ボタン』を押すか、という権利だ。僕たちが押すのではなく、君たちが押すべきだ」

理沙が杭を見た。雨が杭の刃に沿って滑り落ち、その先端に小さな水玉が溜まる。水玉は鏡のように広場の顔ぶれを映した。天音の目に、理沙の小さな指が映る。その指を投票の器具に触れさせると、合意が成立する。合意が杭を媒介に実行を始める。

「いいのか?」凪が訊いた。「責任を取る覚悟はあるのか?」

理沙は一度、避難民たちを見た。泥にまみれた子供、膝を抱えた老人、焚き火を囲む人々の顔。彼女の口元がゆるみ、静かに笑ったように見えた。「私はいつも、守られる側だった。でも、守る側の言葉が誰かの代弁であっては嫌だ。私たちが選ぶ」

投票は手渡しで始まった。透が作った焼印機が、紙札にひとつずつ押されていく。印の熱と木の香りが鼻先を掠めた。天音はその匂いに、かつての職場で嗅いだ消毒液と同じ冷たさを思い出す。だが今はそれが、選択の温度だと感じられた。

赤い数字は刻一刻と減っていく。00:05:36。手が上がる。手が札を差し出す。手が握る。投票を回す指先の動きは、雨粒と交錯してひかりを散らした。監視カメラが焦点を変え、統雨局の無線が断続的にノイズを立てる。塔の低い声が再び広場に流れた。「投票は不正が確認され次第、無効となる。隔離プロトコルは自動で始動する」

「不正は認めない」透が断言した。「だから、僕らは見張る。票はオープンで、改竄(かいざん)できない。僕が外部信号を差し込む余地はゼロにした」

天音は目を閉じ、一度だけ杭に意識を向けた。杭はただの金属の棒ではなく、彼女にとっては昔の検屍台に立つ遺体のように冷静だった。杭が現実を“実現”するとき、それは人の体温と意思を秤にかける。彼女はその秤の片方に、自分一人の感覚を乗せることをためらった。

投票箱の最後の札が焼印機を通り抜けた。理沙がゆっくりと顔を上げ、投票箱を閉じる。凪と透がその周りに立ち、誰もがその瞬間を見守った。赤いカウントダウンは00:00:33。

理沙は杭の柄を指で押した。柄は冷たかったが、その冷たさはもはや恐れではなく約束の感触になっていた。彼女の指先が赤いボタン状の小さな蓋に触れる。天音は肩越しに見守りながら、胸の奥が高鳴るのを感じた。雨の音が、彼女の鼓動を追い越す。

そのとき、塔のスピーカーが割れたように思えた。だが声はいつもより近く、断片的に聞こえた。「投票検証──不正疑義検出。隔離手順に移行──」

床の振動が微かに伝わる。赤い数字は00:00:12。理沙の人差し指が赤いパネルに触れようとした瞬間、彼女の瞳の内側で何かが動いた。周囲の誰もが、その微かな動きを見逃さなか