群青鋏の格納庫長と潮汐王

群青鋏の格納庫長と潮汐王 第24話「第22章」

海の匂いが、湿った布のように鼻の奥にべったりと残っていた。泥と潮の混ざった香りの向こうで、遠くのスピーカーがかすれた音量で地名を読み上げる。車体のライトが堤防の切れ目を越え、ガタガタと車輪が泥を噛む音が近づく。エトはそうした音を、たしかに聞いていた。だが世界の半分が、薄い布に覆われてしまったように見えた。左の視界が塗りつぶされたように、光はあるのにそこにあるはずのものが欠けている。

海の匂いが、湿った布のように鼻の奥にべったりと残っていた。泥と潮の混ざった香りの向こうで、遠くのスピーカーがかすれた音量で地名を読み上げる。車体のライトが堤防の切れ目を越え、ガタガタと車輪が泥を噛む音が近づく。エトはそうした音を、たしかに聞いていた。だが世界の半分が、薄い布に覆われてしまったように見えた。左の視界が塗りつぶされたように、光はあるのにそこにあるはずのものが欠けている。

「エト、聞こえるか?」ルカの声がすぐ横で震えている。ルカは濡れた短髪に泥をはねさせ、左手でエトの肩を支え、右手で群青色の鋏を包んでいた布を握っていた。布越しにも、鋏の冷たさが伝わる。刃先にはまだ、波の色を含んだような光が宿っている。

エトは力を込めて首を振った。言葉にするのが難しい。視界の欠けた部分に、誰がいるのか、何があるのか。音だけが頼りだった。遠く、堤防の向こうから複数の人間の声。年寄りの咳き込み、子どものすすり泣き、そして救援の隊長らしき低い声が混ざる。

「役所の車だ」ハヤトが低く呟く。彼は背負っていた工具箱を地面に叩きつけ、泥を払いながら車列を見つめる。「でも……止まったな。あの班長、何か変だ」

群衆からざわめきが上がる。車の中からスピーカーが再び声を張った。「こちら潮流局・救援第七班。申請済みの避難者のみ受け入れます。群青鋏の確認と、自治体への一時帰属承認が必要です。速やかにお答えください」

群青鋏。空気の中でその名が、絹の糸のように切れにくく引き伸ばされた。エトの胸の中で何かがきしむ。救援の灯が目の前まできているのに、手を伸ばせば届くのに、そこには新しい条件がぶら下がっている。

「登録と一時帰属か……」柏木という名札を付けた中年の男が、傘もささずに堤防の端に立っていた。潮流局の監査官らしく、濡れた背広は無表情だ。「群青鋏は安全管理資産です。こちらに預けていただければ、今ここにいる全員を指定収容所へと輸送いたします」

収容所。言葉はその場に冷たい影を落とす。住民の何人かが顔をしかめ、口をつぐむ。老人のミナトが体を起こし、しわだらけの手で杖を叩いた。「あんたらの『安心』ってのは、いつも交換条件がついてくるんだな」

「俺は預けない」若い母親が声を上げる。背負っている子の髪は塩の結晶で固まっていた。「私の子どもを、見知らぬ場所に連れていかれたくない!」

「でも救いが来てるんだ」別の男が叫ぶ。「俺の弟も瓦礫に埋まってるかもしれないんだ。今すぐ出てってくれ」

議論が渦巻く。エトは、その中心に立てば事態を一瞬で変えられる力を持っている。その力は群青鋏を媒介に、仲間と共有した作戦のみを一度だけ文字通り「実現」する。しかし代償は明白だった。エトは数分前にその代償を払ったばかりで、視界の一部を失っている。ルカはそれを知っていたから、懸命にエトを支えている。

「エト、覚えてるか?」ルカは低い声で、まるで二人だけの秘密を繰り返すように言った。「この鋏は、仲間と共有した計画だけを通す。エトが単独で引けば、視覚の一部を失う。合意を無視すると、その作用は敵にも炸裂する。……そしてもう一つ、重要なこと。俺たちは、力で解決する代わりに、選べる場を作らなきゃならない」

その言葉は、群衆の間に染み渡る。救援の扉の光が堤防を越え、泥を飛ばして目の前に来る。車のライトに照らし出されるのは、列に並ぶ作業員たちの硬い表情と、柏木の冷たい微笑だ。彼らはプロトコルに従っているという顔をしている。それはしばしば、「安全」を与えるかわりに、選択を奪うものだった。

「群青鋏を預ければ、全員を受け入れる」柏木が傘もささずに叫ぶ。「我々は記録を残す。これが行政の手続きだ。混乱を最小限に抑えるためだ」

「手続きの名のもとに、『我々』とやらを強制するんだろう」ミナトが声を荒げる。杖を地面に叩きつける音が、薄く震えるように広がった。「いつだって外から来る奴らはそうだ。善意のふりをして、俺らの細々とした暮らしを管理しようとする」

避難するか、留まるか。すぐに決めなければならない。エトの手は震えていた。群青鋏を差し出せば、目の前の人間たちはすぐに救われるだろう。だが鋏を預けることは、単なる物の移譲ではない。鋏が象徴するのは、選択の力だ。鋏を預けた先が、どのようにその力を使うかを強制されるならば、彼らの意思は制約される。

「エト、お前が決めるんだ」ルカが静かに言った。「でも、もし渡すんだったら、俺は一緒に行かない。お前が一人で背負うのはやめてくれ」

その言葉は重かった。ルカの眼差しは、彼女に非を責めるのではなく、共有を求めている。仲間がいることの意味を、ルカは身体で示していた。エトは布の中の鋏の冷たさを感じ、指先でその輪郭を撫でる。視界の隙間を手探りのようにして、彼女は自分の周りの人々に触れた。そこにある手を、次々と握った。ぬるりと汗ばんだ幼児の掌、硬い握力の労働者の掌、しわだらけのミナトの掌。暗闇でも、触れられるものは確かだった。

「みんな」エトは声を絞り出した。言葉は薄い布を通さなければならなかった。だが集まった人々は耳を澄ます。「この場で、渡すか渡さないか、みんなで決めたい。……俺の目は、今はまともに見えてない。でも、俺は聞こえる。君たちの意思を、聞きたい」

ざわめきが一つ、また一つと静まっていく。救援車のエンジン音と水の落ちる音だけが残る。柏木が苛立ちを露わにする。「時間がかかれば、今来た車は去りますよ。決めて下さい!」

一人の若い男が、振り返って叫んだ。「俺は預けない! 俺たちで話し合う!」

「俺は預ける」別の顔があがる。若い母親が、子の頭を撫でながら、涙を拭っている。「でも、預けるなら返して。約束して」

「返すって、誰が保障する?」ミナトが笑ったように鼻で笑った。「誰が返すかなんて、役所の文言は空っぽだ。俺たちの暮らしを預けられるほど、俺はあんたらを信じちゃいない」

人々の声が一つにまとまり始める。手を繋いだ輪が小さく震え、やがて固まる。選び方をめぐる議論は続いた。だが、その時、海側の暗闇の向こうから低いうなりが聞こえた。波ではない、金属と潮が擦れる音。潮の王の兵具が、まだこの海岸を離れてはいない。柏木の表情がわずかに硬直する。救援の隊列には、あの兵具の監視を兼ねた部隊が混じっていた。彼らは、「秩序」を守るために出てきたと言えば聞こえはいい。しかし、その秩序は必ずしも住民の選択を含んでいない。

「これでもう一つ言わせてもらう」ルカが前に出る。濡れたままの靴が泥を蹴る。「もし鋏を預けるなら、俺は書類に『一時預かり』と書かせる。期限を決めさせる。行政の言葉だけでなく、俺たちの言葉で決める。あんたらも証人になるんだ。それでどうだ」

柏木は一瞬、表情を崩した。だが彼の口元は冷たかった。「潮流局の規定は、現場の判断を尊重する余地が少ない。安全確保のためには、一時帰属の条項は不可避です」

議論の熱が再び上がる。だが、その輪の中心で、エトの手はただ握りしめられているだけだった。視界の欠けた部分からは、電光がにじんで滲むように見える。でも、暗闇の中で人々の手は確かに離れずに繋がっていた。救援車両は堤防を越え、泥煙を上げ