黒潮砲の潜水士と錆びた王国 第9話「第8章」
潮風が裂けるように音を立て、桟橋の鉄骨は潮に舐められてきしんだ。赤錆の斑点が夜光塗料を侵食して、灯火は鈍い黄に沈んでいる。潮見はその錆びた光の下で、グローブ越しに小型のワイヤーを弄りながら、息を詰めて海面を覗いた。波面を伝う薄い白い筋。敵の哨戒ドローンだ。音は機械の切替え音、羽の震え。空気は塩と古い油と、戦いのあとに残る鉄の匂いで満ちていた。
潮風が裂けるように音を立て、桟橋の鉄骨は潮に舐められてきしんだ。赤錆の斑点が夜光塗料を侵食して、灯火は鈍い黄に沈んでいる。潮見はその錆びた光の下で、グローブ越しに小型のワイヤーを弄りながら、息を詰めて海面を覗いた。波面を伝う薄い白い筋。敵の哨戒ドローンだ。音は機械の切替え音、羽の震え。空気は塩と古い油と、戦いのあとに残る鉄の匂いで満ちていた。
「静かに。焦るな、あかり」。潮見が囁いた。声は潮の音にかき消されそうだが、あかりは首を振って耳に入れた。彼女の手には、漁網のように折り畳んだ薄い金属片が収まっている。市販の装備ではない、避難民のために改造した小型の妨害器だ。
「三分で通路を開ける。向こうの哨戒は三台、交代で巡回している。潮目の流れを読めば、二度目の振り返りが来る前に抜けられる」あかりが言うと、潮見の顔に薄い笑みが戻った。二人は海緒がいない夜に、決断をしていた。海緒は今、左耳の奥に鈍い空虚を抱えて宿にいる。黒潮砲を単独で起動した代償がまだ彼女を蝕んでいるということを、あかりと潮見は知っているが、口にはしなかった。彼女たちの勝利は、海緒の不在でも可能であるという事実を、証明したかったのだ。
艀を押し、潮見が網の端を引く。金属片が空気を噛み、短く高い金属音が波面に散る。哨戒ドローンのカメラが痙攣したようにブリンクし、翼の回転が一瞬乱れる。あかりが手首をひねり、小さな発火装置を差し入れる。「行くよ」。二人は同時に走った。波しぶきが膝を打ち、鉄の匂いが鼻腔を刺す。桟橋の影を利用して、影のように敵の死角に滑り込んだ。
哨戒ドローンは復帰したが、遅かった。潮見が取り付けた小型のフェイク信号が、敵の通信網を一瞬だけ混乱させた。あかりは集合住宅の一階に設置されたパイプラインの弁を捩じり、そこから外へと流れる海水が古い錆の蓋を突き破った。哨戒の視界に、避難民の列の影が自然のように溶け込んだ。逃げ道ができた。子どもたちのすすり泣きは、はじめ遠くで鳴った風鈴のように聞こえ、次第に消えていった。
成功の余韻は短かった。午前一時を回るころ、彼らの無線に断続的な警告が入った。敵は配置を変え、パターンを読み直している。潮見は無線に耳を寄せ、細い吐息を漏らす。「あいつら、学習速い…だが、今日のは区切りだ。救援が届くまで時間を稼げる」
あかりが肩を震わせて笑った。「Mioがいなくても、何とかなるって証明できたね」その言葉は励ましでもあり、無言の反論でもあった。潮見は黙って遠くを見た。月明かりが波を叩く。彼女の瞳にはためらいと確固たる決意が混じっていた。仲間が動けるという自覚は、同時に自分の責任を分散させる危険を孕んでいる。誰もが動いた結果、誰が最終判断を下すのか。それはこれから避難民が必ず直面する問いだった。
一方、海緒は古い潜水服の裾を抱きしめ、古い潜航艦の小さな窓を見つめていた。昼の光は薄く、海の色は灰色に沈んでいる。彼女の世界は音が遠くなっていた。左耳からは潮のさざめきが抜け落ち、右耳だけが世界を把握している。舌に残る塩のざらつきはいつものものだが、潮の深さや敵の呼吸のリズムが、手繰れない糸のように切れてしまった感じがする。
「あの時、選ばなくちゃいけなかった」海緒は自分に言い聞かせるように呟いた。彼女が黒潮砲を使ったのは、仲間を即座に守るためだった。だが合意を得られないまま発動した影響は、敵にも及んでしまった。敵の陣形の一部が予期せぬ同調を見せ、最初の狙いは半分しか達せられなかった。代償は聴覚の一部。だがそれ以上に、仲間の信頼を揺るがしたことが痛かった。使わざるを得ない局面で、どう合意を取るのか。自分が「英雄」として振る舞うことで、誰かの選択を奪ってしまったのではないかという不安が、海緒の胸を締めつける。
翌朝、潮見とあかりは避難所の外縁で手分けして動き、小さな勝利を重ねた。水路を塞ぐ瓦礫を撤去し、酪農小屋に閉じ込められていた老犬を救い出し、若い母親の子どもを安全な場所へ誘導した。作業は泥と汗とよろこびでぐちゃぐちゃになった。人々の笑顔が、チームの士気を上げる。だがそのすぐ裏で、情報屋が持ってきた噂が広がった。黒潮砲の操作を巡る不祥事。海緒が一度に大きな代償を払った話が、誰かの恐れと結びついて話題を呼んだ。
「彼女、あの日一人で撃ったんだって。代償って、聴力だけじゃ済まないんだろう?」居住区の茶屋で、ある代表が声を潜めて言った。噂はしばしば真実よりも速く根を張る。潮見はそれを聞いて眉を潜めた。あかりは静かに息を吐いた。「誤解を生む言葉は止めるべきだ。説明が必要だよ。Mioが一人でやったことには理由があった。でも、私たちが説明しなきゃ、新しいルールは作れない」
避難民の代表たちが「自分たちで意思決定を学ぼう」と呼びかけたのは、そんな空気の中だった。誰かを盲目的に信じることへの不安。自分たちで選ぶことで、次の犠牲を避けたいという切実さ。模擬会議の案内は夜のホールに貼られ、人々は次第に集まってきた。木製の長テーブル、焦げた紙コップ、懐中電灯の列。会場の空気は、いくぶんか重苦しく、だが希望の余韻も持っていた。
潮見は海緒の元へ向かった。海緒は潜航艦の小さな段差に腰掛け、空を見上げていた。潮見が近づく足取りは静かだ。二人の間には言葉がたくさん隠れていたが、潮見が先に切った。
「私たち、今日の夜に模擬会議をやる。代表者たちが『黒潮砲がどんな時に使われるべきか』を話すんだ。Mio、出るべきだよ。君の声が必要だ。隠しておいたら、また誤解が生まれる」
海緒の顔に、月明かりが薄く掛かる。左耳の奥で、遠い波の音が欠け落ちるような感覚。彼女はゆっくりと立ち上がった。動作はぎこちないが確かだ。
「説明しても…また誰かの選択を奪ってしまうかもしれない」海緒の声はかすれて、しかし揺れなかった。「一人で決めると代償が出る。合意を取らなければ、敵にも作用する。だから私は……」
潮見が言葉を被せる。「だからこそ、正直に語るべきだ。私たちが代わりに決めるんじゃない。どうして代償があるのか、どの瞬間に使わざるを得なかったのか、私たちはそれを共有して、判断の基礎を作らなきゃいけないんだ」
あかりが振り返って、小さな笑みを作った。「それに、私たちがやってきた小さな勝利も、君のいないところで起きてる。孤立してほしくない。力があるってだけで、君を孤島にしちゃいけない」
海緒は吐き出すように笑った。左の耳の中で、かすれた遅延が残る。だが呼吸は穏やかだった。肩を落として、彼女は小さな紙袋から一枚の古い写真を取り出した。写真には、古い港で海緒と仲間が笑い合う姿が写っていた。岸辺で波しぶきに濡れている。若かった自分たちの顔がそこにあった。
「わかった。話すよ。でも、条件が一つある」海緒は写真を畳み、波に向けてそっと投げるように握りしめた。「全部を私の責任にしないで欲しい。合意って言葉が、誰かを守るための手段になるように。『使わせない』というために使われるんじゃない。人々が選べるための道具にしよう」
潮見は瞳を細めた。あかりの顔に、決意が固まる。彼女たちは一緒に、避難民のホールへと歩き出した。足音が木の床に柔らかく響く。外では