黒潮砲の潜水士と錆びた王国

黒潮砲の潜水士と錆びた王国 第8話「第7章」

夜の風が潮の匂いを運んできた。だが海緒はそれを嗅ぎ取れない。鼻腔の奥がぽっかりと空いて、塩の粒子が届かない。舌先にはいつもあった金属の後味もない──あの日、黒潮砲を発動したときに失った感覚だ。冷えた鋼の柵にもたれ、海面に揺れる街灯の反射をぼんやり見つめながら、彼女はそれを確かめるように指先を鼻の下に置いた。何も戻らない。

夜の風が潮の匂いを運んできた。だが海緒はそれを嗅ぎ取れない。鼻腔の奥がぽっかりと空いて、塩の粒子が届かない。舌先にはいつもあった金属の後味もない──あの日、黒潮砲を発動したときに失った感覚だ。冷えた鋼の柵にもたれ、海面に揺れる街灯の反射をぼんやり見つめながら、彼女はそれを確かめるように指先を鼻の下に置いた。何も戻らない。

「ここにいるのか、海緒」

声は潮見(しおみ)だった。暗がりの向こう、ショルダーバッグを抱えた彼が懐中電灯の細い光を投げる。濡れた髪に海風が絡む。潮見は潜航作業の名残りで、濡れたゴム手袋の跡が腕に残っていた。彼の顔には疲労と焦りが交差している。

「外はどうだ?」

「相変わらず混乱。上からの通達もこない。灯は集会場で声を拾ってる。住民の半分が海緒さんを待ってるってさ――英雄扱いして、感謝の言葉を並べてる。もう半分は、あんたが勝手に決めたって怒ってる」

潮見の目が針のように鋭くなった。海緒はうなずいた。言葉はいらなかった。彼女の胸にはまだ、発動した瞬間の振動が残っている。黒潮砲の低いうなり、海水が切り裂かれたときの圧力、そして誰かの顔が歪んだ──自分の手がその顔に触れた記憶。代償はあった。代価はいつも、現場が決める。

「灯はどうするつもりだ?」

「会合を続けるって。医療班と学校の先生たちが、住民から直接『選択肢』を拾う会を開いてる。暖かい光がある。あんたも行けばいいのに。だが――」潮見は言葉を切った。「仲間は、まだ怒ってる。合意のことだ。あんたは、あんたのやり方を変えないと、自分の代わりに皆の意思を奪うって言う」

海緒は静かに笑ったような息を吐いた。鼻に何も来ない呼吸の音だけが、夜に溶ける。

「俺は別の突破口を探す。海の側面からじゃなく、溶接された船渠の下を通れるかもしれない。灯にはあの会合を頼む。俺は行く。戻れなかったら……ごめん」

潮見は黙って背を向けた。潮の匂いが遠ざかっていく。海緒は鋼の台座に手を伸ばした。黒潮砲の外装は冷たく、海水のしぶきが乾いた塩の粒を残している。指先がその凹凸をなぞると、機械の低い脈動が伝わってきた。発動のあと、心臓みたいにゆっくりと脈を打っている。

あの日の光景が、刃のように戻る。彼女は黒潮砲を通じて、仲間に作戦を伝え、皆で同時に動いた。作戦は成功した。だが代償は海緒の身体から、ある「感覚」を持ち去った。仲間の合意を重ねることで、黒潮砲は味方のための奇跡を一度だけ生む──それは規則でもあり、呪いでもある。だが、合意を無視して使えば、その作用は敵にも向かう。そう教えられていた。合意は力を限定する鎖であり、同時に守りでもあった。

声が近づいてきた。海緒は振り返ると、数人の避難民が懐中電灯を掲げて歩いてくるのが見えた。子どもが小さな紙の花を差し出す。大柄な男が先に出てきて、照らされた顔を見せた。

「海緒さん、夜風でも大丈夫ですか? 軍はまた来るって噂なんです。あたしたち、ここにいるのが怖いんです」

「あなたたちの場所は危ないのか?」海緒は詰まった声で聞いた。鼻が利かないせいか、声はどこか遠い。

「北岸が狙われるらしい。錆びた王国は、夜を狩るのが上手い。逃げ道になる路地が封鎖されてるって聞いた」男は目を伏せる。「でも……海緒さん、あなたがやってくれるなら、なんでも……」

歓声のような、期待と畏怖が混ざった目線が一斉に向けられる。海緒はその重さを肌で感じた。だが同時に、角の陰から別の声がした。

「待て。あんたに決められる筋合いはない。私たちの命をかけるのに、勝手に仕組みを動かすのはやめて」

女性が腕組みをして立っていた。年かさの母親らしく、目に怒りと疲労が滲む。小さな手が彼女のスカーフの裾を握っていた。場はふっと割れ、二つの波がぶつかったような緊張が生まれた。海緒の胸に、かつての現場で何度も見た光景が蘇る。選択させられなかった者たちの怒り。守られたはずの人間が、守る側の決定に傷つく。

「私は……」海緒は口を開いたが、言葉がどこかぎこちない。言葉の先端が空気に溶けていく。

そのとき、遠くから金属が擦れるような低い音がした。住民たちが一斉に顔を上げる。海面を滑る何かがある。視界の端で、薄い炎のような光が波に散っている。錆の色を帯びた斑点が水面を這う。王国の監視艇だ。遠距離砲の影が沿岸に落ち、街灯の輪郭を切り裂いた。

「砲撃が来る、可能性が高い」潮見の声が風に乗って届いた。彼は戻ってきたのか、砂で足元が汚れている。背後にもう一人、灯が立っていた。灯の目は赤らみ、キャンドルのように揺れている。会合から抜けてきたのだろう。彼女の手には紙束があり、住民の記名が書かれていた。

「会合でね、みんなが言ったの。『選ぶ権利』が欲しいって。強制的に守られるのは嫌だって。だけど……」灯は紙を握りしめ、言葉を探すように口元を噛んだ。「でも、いま目の前で砲が向いてる。選ぶ時間が足りない人がいる」

海緒は呼吸を止めた。胸の奥が波打つ。黒潮砲はこの角度から見れば、希望にも見えるし脅威にも見えた。砲身は長く、夜の中で闇を切り裂く刃のように見えた。使えば敵の動きを抑え、避難を作り出せるだろう。だが条件がある。仲間と共有した作戦だけを一度だけ実現するという条件。合意のない発動は、作用が敵側にも及ぶという規則。単独で使えば体に反動が来て、感覚の一部を失うという代償。

「どうするんだ」潮見が呟いた。

誰かが即決を求めている。誰かが選べないことを責めている。海緒は拳を握った。指の中で乾いた塩が砕ける感触がある。考えが過去へと飛ぶ。作戦会議の長い夜。みんなで声を合わせて合意したあの日。あのときの合意が、いまこの場所の命を守ったのだ。だが今、合意を取る時間はない。灯は会合の途中で抜けたが、会場にはまだ多くの人が残っている。潮見は別のルートを探しに出るといった。彼らに連絡を取る時間も、彼らの了承を得る時間もない。

「俺は賛成しない」背後の影が低く震えた。仲間の一人、古参の運搬班リーダー、三河(みかわ)だ。顔に古いやけど跡があり、そのせいで微妙に口が歪んでいる。彼の瞳は乾いていた。「お前は勝手にやった。人の意志を越えるな」

「三河、考えてくれ」海緒の声が震えた。「今は被害を最小にしないと。私がやれば、あそこにいる人たちは逃げられる」

「お前は自分の代償だけ見ている」三河は短く言い放つ。「俺たちは代償を支える側だ。お前のやり方でまた誰かが犠牲になったら、俺たちは受け入れられない」

議論は火花のように散る。住民の何人かは海緒に向かって「お願いだ」と唇を震わせる。一方で、別の者は「自分たちで決めさせろ」と叫ぶ。会場からは灯の低い声が届く。「まず、情報を出してください。被害を想定して、選択肢を並べましょう。誰かを強制してはいけない」

海緒は銃身の冷たさを掌に感じた。鉄の輪郭は喉を締めるような存在感がある。もし自分が単独で起動スイッチに触れれば、黒潮砲は一度だけ、望んだ現実を生むだろう。だが代償が増える。失った感覚がさらに広がるかもしれない。それだけではない。合意を得ないまま使えば、作用は敵にも及び、どんな変化が起きるか分からない。時にそれは敵にとって有利