黒潮砲の潜水士と錆びた王国

黒潮砲の潜水士と錆びた王国 第2話「第1章」

潮の匂いが、朝を割ってキャンプに流れ込んでくる。海緒はそれを深く吸い込んだ。潮の香りに混じる油と古い鉄の匂いは、ここ数年間で自分の身体に刻まれた地図のようだった。指先に残る薄いアザは、海底で締められたロープの痕。髪は塩にざらつき、右耳の奥にはいつも小さな鳴りが残っている――切り裂く波のような、止まらない音。彼女はそれを、今日も気にしないふりでやり過ごした。

潮の匂いが、朝を割ってキャンプに流れ込んでくる。海緒はそれを深く吸い込んだ。潮の香りに混じる油と古い鉄の匂いは、ここ数年間で自分の身体に刻まれた地図のようだった。指先に残る薄いアザは、海底で締められたロープの痕。髪は塩にざらつき、右耳の奥にはいつも小さな鳴りが残っている――切り裂く波のような、止まらない音。彼女はそれを、今日も気にしないふりでやり過ごした。

キャンプの中央には、錆の格子を組んだ配給列が伸びていた。太陽は鉄の床板に斑模様の影を落とし、金属の格子が人の顔を暗く分断する。配給を管理するのは、錆びた王国の巡回車だ。外装は既に皮膚のようにひび割れ、上に立つ鉄の標牌は「配給管理省」とかすれた文字を晒している。巡回員が錆びたスタンプを押し、紙切れのような食券に番号を刻む。番号が低い列は笑い声もあるが、番号が高い列は乾いた目で前に進むだけだ。

「四十三番は石田さん、生活支援一回分のみ。他は二十四日までの配給が確定しています」巡回員の声は冷たい。彼らの背後には、格子の向こうに並ぶ金属の影があった――検査台、記録端末、そしてぐるりと回された低い柵。制度そのものの冷たさが、列に並ぶ人々の選択肢を根元から削っていた。

海緒は列の外れで潮見と灯、慧と目を合わせた。潮見は工具箱を膝に抱え、油で黒く光る指先を震わせる。灯は携帯用の包帯を整え、眉間にしわを寄せる。慧は小さな手帳に眼差しを走らせながら、カサカサと音を立てていた。海緒は自分がその場にいる理由を知っている。守る。避難民と仲間を。目の前の一枚の食券が、その全てを象徴している。

「今日は足りないってさ」灯が低く言う。「飯が減らされてる。配給スケジュールも変わった。巡回が頻繁になってるって話だ」

潮見が唇を噛んだ。「番号管理が厳しくなったら、分配の余地はほぼゼロになる。合図一つで列がバラバラに…選ぶ機会そのものを奪うんだ」

海緒の手はポケットの中で、冷たい金属に触れた。黒潮砲――彼らはそう呼んでいる古い筒が、キャンプ外れに横たわっていた。ぶ厚い黒い砲身は、かつては灯台か港の機構だったのかもしれない。海藻がはりつき、銘板は剥がれかけている。だが海緒はそこに触れるだけで、海流の断片を感じ取れる。自分の身体を介して「流れ」を押し出す力。だがその力には条件があった。

「一つだけ、言っておく」潮見の声が割り込む。「これを使うなら、ちゃんと共有した作戦でやる。海緒、一人でやるのはダメだ。あれは…一度だけ、みんなの意志を合わせた形でしか使えない」

「知ってる」海緒は短く答えた。彼女の視線は黒潮砲の方に戻る。思い出すのは、あの日のことだ。街の孤立した埠頭で、燃える船から人々を救おうとして、彼女はただ一心に押した。誰の合意も、合図もないまま。黒潮砲は答えを出し、巨大な渦が生まれた。人は救えた。だが代償として、海緒は右耳の大部分を失った。波を押し出した反動が彼女の神経を焼いたのだ。あの時の歓声と同時に、耳の奥で何かが欠けた。

「海緒、あんたがあの時…」灯の瞳が潤む。「私たち、あの結果を見てる。私たちの中で、使うかどうかは合議で決める。あんた一人の判断で戻らないものを引き起こすわけにはいかない」

慧がページをめくりながら小さな声で言った。「しかも、合意を無視して使うと、効果は敵側にも向くって話だよね? どういう仕組みかはまだ分からないけど…広がる、って」

「それがどんな『広がり』か、分からないんだ」潮見が首を振った。「敵に作用するっていうのは、場合によっては味方にも被害が及ぶということだ。ターゲットを制御できるのは同じ意思がある時だけ。単独の操作は、ランダムに波紋が広がる。どこに何が落ちるか分からない」

配給が終わり、列が解散し始める。錆びた巡回車は低く唸り、重いドアが閉まる。人々はそれぞれの袋を抱え、影の間を歩いていく。だが一人、母親が膝をつき、子供の小さな手を握りしめた。子供の頬は日の光で赤く輝き、手は空っぽのままだった。

「まだ足りない…」母親が呟くのを、海緒は聞いた。胸が締め付けられる。自分には何ができるのか。合意を得る時間はない。巡回が次に戻るまでに、子供の腹は空いたままだ。

海緒の心は揺れた。この武器を使えば――黒潮砲を引き金にして、沖の供給船を寄せることができるかもしれない。だが条件がある。仲間の合意。共有された作戦。彼女は仲間の顔を見た。潮見は工具箱をぎゅっと握り、灯は目を逸らす。慧はノートの端を噛むようにしている。誰もが怖れている。それでも、誰かが一歩を踏み出さねばならない。

海緒は指を黒潮砲の冷たい筒に添えた。塩でざらついた鉄は、彼女の掌に馴染む。鼓動が速くなる。右耳の奥の鳴りが、今日だけは自分を制することを許さないように感じられる。「一度だけ…」彼女は小さくつぶやいた。

「海緒、やめて」潮見の声が届く。だが彼女の指先は既に動き始めていた。合意のない操作は禁じられている。だがその瞬間、母親の顔が浮かび、子供の空いた手が浮かんだ。海緒は拳を握りしめ、黒潮砲の内部に触れ、海の断片を掴もうとした。

圧が入る。空気が歪むように感じられ、海辺の空間が一瞬ねじれた。足元の砂が震え、近くの波が逆流する。人々が振り向き、潮のにおいに混ざる酸っぱい金属の匂いが鼻を刺す。黒潮砲は応えた。だが合意がないため、反応は乱暴で予測不能だった。

波の壁が港の中央で跳ね返り、遠くに停泊していた流通船を押しやった。木箱と布袋がうねる水面から飛び出し、いくつかは空中で弧を描いてからキャンプの岸に落ちた。歓声が一瞬上がる。だが同時に、巡回車の無線塔が弧を描いた波の衝撃で折れ、向こうの砲門式のフェンスが揺れた。鉄板のぶつかる音、そして遠くから聞こえた警報のサイレン。敵側の車両が急に振動して、内部で何かが破裂する音がした。効果は敵にも波及したのだ。

そして海緒の右耳は、深い穴が開いたかのように、音を失った。周囲の声は水中で聞くように遠く、まるで自分だけが海の底に沈んだようだった。手のひらにも突き刺すような痺れが走り、指先の感覚が薄れる。海緒は膝から崩れ落ちる。潮見が飛び込み、両肩を支えた。

「何度言えば…!」灯が叫ぶ。目には怒りと恐怖が混ざる。「結果は得られたけど、代償が大きすぎる。海緒、あなたは…」

海緒は指先で耳を押さえた。世界は音を薄め、色だけが先に来る。遠くの流通船が沈黙し、巡回車の警報は今や耳障りな電子音に変わっている。人々の顔が、驚きと恨み、期待と恐怖が混じった泥絵のように揺れた。

慧がノートを落とし、手帳の端に触れた。ページの間に挟まっていた小さな鉄片が、硬い光を反射する。それは黒潮砲の側面に嵌っていたような、錆びたプレートの破片だった。彼がそれを拾い上げ、顔を青ざめさせて海緒に差し出す。

「これ…表面に刻印がある」慧の声は震えていた。「単なる廃材じゃない。『配給統制局』の文字が…」

潮見がその小片を覗き込んだ。彼の顔に、静かな怒りと理解が交差した。「この砲、王国の監査対象だった可能性がある。だとすると、あいつらは僕らの使った痕跡を追える。今日のことが通報されたら…」

海緒は聞こえない世界の中で、ただその言葉の意味を考える。敵の