黒潮砲の潜水士と錆びた王国 第1話「序章」
夕暮れは海を錆色に染めていた。朽ちた防波堤の先に立つ鉄塔は、どの面を見ても錆が浮き、風に擦れるたびに鳴るのは金属同士の低いいななきだけだ。海面には黒い筋が揺れていた。波というより、油の薄膜が風に引きずられたような、光を吸い込む黒。港町の空気は塩と腐食の匂いで満たされている。
夕暮れは海を錆色に染めていた。朽ちた防波堤の先に立つ鉄塔は、どの面を見ても錆が浮き、風に擦れるたびに鳴るのは金属同士の低いいななきだけだ。海面には黒い筋が揺れていた。波というより、油の薄膜が風に引きずられたような、光を吸い込む黒。港町の空気は塩と腐食の匂いで満たされている。
海緒は膝の上に、破れた潜水服の胸当てを抱えていた。布はかつての圧迫防止帯の跡で固く、内側の銅製ファスナーはまるで牙を剥いたように光る。指先に残るのは、前世の感覚だ。深海の圧力、切迫した現場でゆらめくライトの輪郭、仲間の呼吸を数える癖。ここで、その感覚が冗談めかして彼女を試しているかのように、薄い震えとなって戻ってくる。
「海緒、本当にやるのか?」
稜が背後で声を落とした。稜の右腕には腕章の代わりに補助工具が巻かれている。皮膚には潮焼け、顔には弱い怒りと恐れが混じっている。隣では葉月が医療バッグのファスナーをいじりながら、じっと海緒を見ていた。彼ら三人に、避難民が小さな砂地の広場で列を作しているのが見える。子どもたちの肩に掛けられた毛布が夕陽に透けていた。
海緒は黒潮砲の稼働台座を見た。台座は半ば砂に埋まり、周縁には古い操作盤と腐食した配線の断片が残っている。説明書めいたものは無い。彼女の前世の記憶が、壊れかけの図を繋ぎ合わせる。黒潮砲。かつては港の最後の防衛だった。だが海緒が覚えているのは物理的な砲撃ではない。黒潮砲は「流れ」を編む装置で、誰かと同じ作戦を真空のように掴み取って現実に落とす──合意があってこそ、その形を取る。
「作戦を共有する。合図は三つ。稜、葉月、燐、君たちの確認がいる。いいね?」
海緒が低く言うと、燐が先にうなずいた。燐は小柄で、機械いじりが得意だ。今は濡れた布で手を拭きながら、黒潮砲の操作スイッチの一つに触れている。「二回目はないって言ってたよな、海緒。これ、全部を一度で揃えるやつだろ」
「一度だけだ」と海緒は肯いた。「でも、ここで止めれば、錆びた王国の巡回隊が着くまでにあの狭い出口から避難できない。あの人たちを──」
彼女が指差した先で、老女が杖をつき、後ろに子どもを連れた若い母親が怯えている。二艘の漁船が大きな波に挟まれ、波止場の間で動けずにいる。錆びた王国のパトロールはまだ視界には入っていない。だが彼らの監視網は海に浮かぶ黒い浮標のように確実に広がっている。
葉月が息を吐いた。医師としての本能が勝ち、彼女の目に決断の影が差す。「海緒、合意が揃ってない。燐が同意するなら、私は賛成。ただし稜、あなたが──」
稜が口を固く結ぶ。彼は道具の振動を確かめるように台座の縁を叩いた。「俺は無理だ。前にここでやった奴らの痕跡を見た。無差別に流れが躍り出して、建物も船も、人も、ぐちゃぐちゃになってた。合意、ってのは単に精神の同調だけじゃない。タイミングと位置、重心が合わなきゃ、結果がねじれる」
海緒はわかっていた。だからこそ彼女は考えた。だが見えるのは老女の手の震えだった。時間はない。
「稜、君を置いていけない」と海緒は言った。声に一瞬震えが入る。「でもここで止めれば、あの船の人たちが死ぬ。葉月、燐、同意だけでいい。稜、君は指示だけで動いて」
稜の目が一瞬きらりと光った。拒絶と理解が交差する。彼の手が硬くなり、ゆっくりとうなずく。「分かった。でも海緒、一度だけだっていうのを忘れるな。やるなら、合図は必ず三段。俺が『潜る』って言ったら、そこで動かせ。ずれるなよ」
燐が装置に最後の配線を繋ぎながら、指先で小さく拍子を取った。「三段ね。了解。俺は同意したよ。葉月?」
葉月は歯を噛み、避難民の列を見つめた。「同意する。だけど……」
呟きは切れた。稜の「潜る」という合図を待たず、遠くで金属がこすれる大きな音がした。夜の帳の向こう、錆びた塔の影から、黒い浮船が現れる。王国の目だ。巡回だ。
「早く!」海緒が叫んだ。
だが叫ぶよりも早く、彼女の手は台座に伸びていた。燐の配線が最後にカチッと嵌った。合図は揃っていない。稜がまだ口を開いていない。海緒は決断した。仲間の同意を無視して、その場の最善を──自分の意思で押し通す。
彼女の内側で何かが弾けた。冷たい圧が胸の奥から噴き出し、海面の黒が一瞬、指先に吸い付くように濃くなった。黒潮砲の台座が唸り、古い配管の亀裂が光り始める。海と鉄と記憶が混じった匂いが鼻孔を満たし、耳の奥に鈍い鼓動が落ちた。
世界が動いた。
黒い筋が波となり、まるで海自体が息を吐いたみたいに港をせり上げた。波は対象を選ばず、軽やかな指先が投げるように、船の間の水をすくいあげ、避難路に勢いよく押し付ける。避難民たちは驚き、数人が足を滑らせ、毛布が風に舞った。老女の杖が弾かれ、子どもが泣いた。稜が悲鳴を上げ、葉月が誰かの腕を掴んで引っ張る。
それは狙いの半分だけだった。海緒の意図していた「流れ」は、漁船を押し出すことに成功した。だが同時に、波は岸壁の崩れやすい箇所を突き、砂の舗道に亀裂を生じさせた。瓦礫が落ち、避難路の一部が塞がれる。燐が配電盤に駆け寄り、叫ぶ。「制御がずれてる! 君、同意は──!」
そして、もっと恐ろしいことが起こる。海緒の耳に、遠い金属音の合唱とともに、別の声が入った。黒潮砲の作動信号は、意図せず周辺に波紋のような「呼びかけ」を放った。あれは本来、合意があれば味方の思考を矩形に合わせるはずのものだった。だが合意が不完全だった今回、それは敵の輪郭にも届いた。黒い浮船の乗員たちが、動きを止めてこちらを見た。彼らの視線は鉄の窓から、まるで吸血鬼が獲物を嗅ぎ回すように冷たかった。
海緒の胸に何かが落ちた。成功の実感より先に、底なしの寒さが全身を広がった。合意なき作動は敵に「対策の種」を与える──それこそ稜が恐れていたことだった。
そして代償が訪れた。波のうねりが消えかけた瞬間、海緒の感覚のうち幾つかが突如として消えた。まず空気が遠のき、世界の音が厚い布で覆われるように消え、周囲の風の音、葉月の叫び、子どもの泣き声が三十センチ向こうで鳴っているように聞こえる。次に右側の視界がぼやけ、海の色と思っていたはずの黒が薄れていく。指先の圧力感覚が落ち、膝が震えた。前世なら分かるはずの水圧の微差が感じられない。海緒は頭を抱え、膝をついた。
「海緒ッ!」
稜が飛び付き、肩をつかむ。葉月はすぐに医療バッグを開き、海緒の反応を確かめる。燐は台座に戻ってきて、焦った顔で配線を引っ張る。「これ、装置が……何だ、使い切ったのか?」
台座のメーターは空を指していた。内部のコイルは焼け焦げ、黒い粉がまるで雪のように舞っている。燐の顔に、見覚えのある諦めが浮かんだ。「一度だけ。約束通りだ。これで戻らないかもしれない……」
海緒は耳鳴りの中で、自分の声が遠くで笑っているのを聞いた。身体を動かそうとしても、世界が一拍遅れて応える。だが視界の端に、避難民の中にいる小さな少年の顔がくっきりと見えた。唇が震え、彼は海緒を見上げていた。海緒はゆっくりとその少年に手を伸ばす。手が届いたとき、少年は何かを言った。はっきりと聞こえはしないが、稜が近づいて代わりに聞き取る。
「お姉ちゃん、あり