黒潮砲の潜水士と錆びた王国 第14話「第一部幕間」
朝日の尖った切れ端が、錆びた塔の側面を薄くなぞった。潮の匂いの中に混じる金属の匂いがいつもより濃く、海面には昨日の痕跡らしい黒い輪が、ゆっくりと波に溶けていくのが見えた。海緒は防水ブランケットを肩に引っかけたまま、砂と破片の混じった床に坐り込んでいた。右耳が遠い。遠いというより、音が絵に描かれたように平べったくなっている。足元で誰かが瓶を蹴飛ばしてガラスが振動するのを感じるが、それは柔らかな震えとしてしか届かなかった。
朝日の尖った切れ端が、錆びた塔の側面を薄くなぞった。潮の匂いの中に混じる金属の匂いがいつもより濃く、海面には昨日の痕跡らしい黒い輪が、ゆっくりと波に溶けていくのが見えた。海緒は防水ブランケットを肩に引っかけたまま、砂と破片の混じった床に坐り込んでいた。右耳が遠い。遠いというより、音が絵に描かれたように平べったくなっている。足元で誰かが瓶を蹴飛ばしてガラスが振動するのを感じるが、それは柔らかな震えとしてしか届かなかった。
「まだ、痛むか」灯の声が、目の前で発せられた。海緒はゆっくりと顔を上げる。灯は簡素な包帯箱を抱え、目元に疲労の影がある。彼女の視線は海緒の左の視野の端、色が抜けた部分に留まった。そこだけ世界が少し灰色に沈んでいるのだ。
「うん。さっきよりは…」海緒は答えを探して口を開いたが、言葉が途中で途切れた。味覚も少し変だった。じっとしていると、遠くでカラスが啼き、そこだけ高いピッチの音が欠けているのを感じる。水の匂いは確かにあるが、塩味のはずの匂いが薄く、むしろ金属の後味が舌に残る。
灯は手にしていた小さな鏡を差し出した。海緒はそれを受け取り、自分の顔を見た。左目の外側、視界の縁に灰色の膜のようなものが漂う。まるで水中で外を見るときの歪みが、そのまま眼の中に潜り込んだみたいだ。
「黒潮砲の反動だね。あなたが使ったから…」灯は言葉を濁した。彼女は医療としてできることを全部やった。包帯を替え、水で傷口をすすぎ、冷やし薬をあて、でも感覚の欠落まではどうしようもない。海緒は拳を握った。指の感触だけは確かだった。潮の冷たさ、綱のざらつき、旧潜水服のボタンの冷たさ。それだけが、まだ現実の確かさを保っている。
遠くから足音が近づいてきて、朽ちかけた扉が軋む。潮見が片腕を滑らせながら入ってきた。彼はキャンプの機工を担う男で、いつもより髭が伸びていた。肩には小さな箱。箱には白い布が巻かれている。潮見の目が、海緒の顔と灰色の膜とを往復した。
「海緒、大丈夫か?」潮見は飾り気なく聞いた。彼の声は機械臭を含んでいた。手にした箱を床に置き、蓋を開ける。中には金具、細いコード、そして――小さな振り子のような物体。彼はそれを取り出してゆっくりと見せた。
「これ…?」灯が眉をひそめる。海緒も手を伸ばそうとした。だが彼女の手は自然に止まった。触るとき、なにかが思い出される。前世の深い水圧、耳抜きの感覚、暗闇の中で光を探したときの指先の確信。海緒は手を引っ込めた。
潮見は低く息をつく。「テストに出たんだ。こいつを使って、黒潮砲の残り信号を分散させる方法を試した。正式な合意は取れなかった。灯も慧も反対してたし…」潮見の声に含まれた言葉は謝罪ではなく、言い訳に近かった。箱の中の振り子を指先で揺らす。小さな影が壁に滑った。
海緒の胸がざわついた。合意。あの輪の光。仲間が手を取り、目と目を合わせる瞬間に流れたリング状の温度。彼女はそれを、一度だけ完全に成立させるために使った。だが、潮見は合意の輪を外れた。彼は単独で、ほんの少しだけ、残響をいじろうとした――それがどういう代償を呼ぶかを知らずに。
「やったのか。勝手に?」灯の声に怒りが混ざった。彼女は箱を引き寄せ、黒い布で包まれた振り子を睨みつける。慧が角の方からひょこりと顔を出した。手には薄い記録板。目に血走りはないが、その顔の薄さが緊張を語った。
「違う、違うんだ。完全に作動させたわけじゃない。合意環の真似事をして、残響を拡散させるだけのつもりだった。もっと隠密に、王国のスキャンが拾わない形にして…」潮見は言葉を繋げた。だが彼の説明は、海緒にとっては既に事実を変えられない重さを持っていた。
小さな金属片が机の上で鳴り、まるでその音だけがくっきりとした輪郭を持っているのに、周囲の世界は鈍くなっていた。海緒はそのコントラストに目を見張る。音の輪郭と自分の中の欠落。潮見の行動の結果が、苦い果実のように舌の奥に残る。
「それが来週の配給の話と関係あるのか」慧が問いかける。彼は記録係で、観察することに強いが、ここでは彼自身の選択が試されている。彼の眼差しは誰も強制しない。ただ、事実を並べる。
「関係ある。よかった、というべきか…いや、よくない。あの小さな乱れで、王国の巡回センサーに黒潮砲の痕跡が少し強く残るようになった。昨日までは海面に点状だったものが、帯状に延びてる。監督官のログにはっきり映る」潮見の言葉は、床に落ちた釘の音のように重かった。
「監督官…」灯が呟く。監督官の名は、この地に冷たい影を落とす。秩序という名で選択を奪う者たち。海緒の心臓が早鐘のように打った。彼女はゆっくりと立ち上がる。視界の灰色は、逃げ出すのではなく、彼女を集中させる。
「だからどうする。逃げる? それとも――」潮見は言葉を切った。答えは簡単ではない。黒潮砲を再び使えば、合意が揃えば、仲間と避難民を一度だけ完全に守ることができるかもしれない。だが、その代償は増えている。海緒の感覚は、既に何かを差し出していた。次に求められるものは、もっと大きいかもしれない。しかも潮見の不意の操作で、王国はここをより厳重に監視するだろう。黒潮砲が示す「印」は、守るために使えば使うほど、監督官の介入を招く。
灯が硬く口を結んだ。慧は記録板に何かを書き付ける。潮見は床の振り子を見つめている。海緒は自分の手のひらを見た。指先の皺。水の冷たさ。生きている証。彼女はゆっくりと拳を開き、灯の手を取った。そして一呼吸置いて、仲間を見回した。
「合意が必要だ。いつも通りに」海緒の声はほんの少し震えたが、確かな命令だった。「でも、それだけじゃない。私だけの決断では終わらない。君たちが本当にそれを選ぶか、私はそれを確かめる。選ぶのは私たち、守る側だ。監督官に決めさせはしない」
潮見の肩が小さく動いた。灯は目を伏せ、慧はペンを止めた。誰も即答しない。海緒は、自分の左の方の視界がまた薄くなるのを感じた。まるで海が小石を吐き出すように、小さな記憶の片が消えてゆく。あの瞬間、彼女は肋骨の奥で冷たい何かが固まるのを感じた。代償は、目に見えないところへと、静かに請求されていく。
「もし、合意が得られても――」灯が言葉をつないだ。「今の状態でまた使えば、もっと失う。耳か、色か、記憶か。代償は増えるわ」
「それでも、一度なら」潮見が口を開こうとしたとき、外から遠く、低いサイレンのような音が聞こえた。音は海面を滑るように、キャンプの上空を通り過ぎる。だれもが一斉に外を見た。塔の向こうに黒い影が動く。監視の小機が、朝の巡回を始めたのだ。
慧がぱっと立ち上がり、走り出す。彼は記録係だが、足は速い。灯は包帯箱を抱え、潮見は振り子を箱に戻す。海緒は自分の足が砂を掴む感触を確かめながら、ただ一つのことを考えた。仲間の意志、それがこの場の鍵だということ。
「選ぶのは、私たちだ」海緒は小さく呟いた。遠くで、監督官の小機が旋回している。鋭い光の束が、海面の黒い輪の残骸をなぞり、そこに何かを探している。キャンプの誰もが息を呑んだ。
海緒は決意を固めると、仲間へ向かって一歩踏み出した。合意を取る方法を、今ここで作らなければならない。合