星獣牙の救助士と忘却艦隊 第13話「第12章」
風が広場を走った。布をはためかせるテント、子どもの叫び、風鈴のようにぶつかり合う意見──そのすべてが、忘却艦隊の遠い金属の唸りにかき消されそうになっている。リオは両手で「星獣牙」を握りしめた。牙は冷たく、表面に細く浅い縞模様が走っている。白い光がゼリーのように歯肉の奥から滲み出し、手のひらをじりじりと温める。彼女の指先に微かな振動が伝わった。牙はいつも、単独で使えば何かを奪う匂いを伴った。今日はそれがさらに重い。
風が広場を走った。布をはためかせるテント、子どもの叫び、風鈴のようにぶつかり合う意見──そのすべてが、忘却艦隊の遠い金属の唸りにかき消されそうになっている。リオは両手で「星獣牙」を握りしめた。牙は冷たく、表面に細く浅い縞模様が走っている。白い光がゼリーのように歯肉の奥から滲み出し、手のひらをじりじりと温める。彼女の指先に微かな振動が伝わった。牙はいつも、単独で使えば何かを奪う匂いを伴った。今日はそれがさらに重い。
「リオ、時間がない!」タオが腕の中で小さな箱状の装置を振った。合意形成装置は露骨に粗末だった。錆びたボルト、厚めの銅線、画面には投票候補が走る。タオの黒い瞳がきらりと光る。彼の息遣いは荒い。装置の上のスイッチを押すたびに、広場の遠くで小型ドローンが群れをなしてホログラムを投影した──説明用のインターフェイスだ。
「今、住民全員に急速投票をかける。ネットワークも独立してる。だが起動には――全員の“合意”だけじゃない。同じ作戦を“共有する”心の結びが必要だ。牙は一度だけ、それを現実に変える。だが――」タオは言葉を切った。言葉の後ろで、忘却艦隊のざわめきがひときわ大きくなった。空が鉄の雲で切れ、黒い船影が幾つも並ぶ。
広場の中央、二つの山のように人々が分かれていた。一方は「忘却艦隊を迎え入れ、犠牲を避けよう」と声を上げる派。もう一方は「忘却に委ねるわけにはいかない」と叫ぶ。間に立つ数人が互いに目を逸らす。小さな手がリオの袖を掴む。ミナだった。ミナの顔に泥がついている。救護キットのバッグがずれている。ミナは震える声で、「リオ……私たちの仲間を」と言った。
だが広場の端、黒いマントを翻した人物が歩み出る。使者――かつて見たときよりも落ち着いている。彼の口元に笑いがのぼった。彼は牙を見て、軽く舌打ちした。「そんな古い儀式で何が変わる。リオ、それは王族の道具だ。君がそれで人々を縛るつもりなら、僕は止めるよ」と言って、群衆に向かって手を広げた。数人が賛同して声を上げる。流れが悪く歪んだ。
「止めるな」リオは言った。声が意外に静かで、広場のざわめきに埋もれそうだった。「私は守る。だけど、勝手には使わない。『共有』がないまま牙を使えば、私にも、ここにいる誰にも、間違いなく代償が来る。それで得た勝利は誰のものでもない」
使者はにやりと笑った。「口だけで時間を稼ぐつもりか。船が着いたら構わず忘却を撒く。君の理屈で死ぬ人が増えても構わないのか?」
そのとき、使者は突然、前に踏み出し、リオの手首を掴んだ。指先が牙に触れた瞬間、牙が鋭く震えた。リオの視界が白くはじけ、耳元で何かが弾ける音がした。ミナが叫ぶ。群衆の一部がその場に崩れ、手で頭を押さえた。ある婆さんが自分の名前を思い出せず、眉を寄せていた。使者は牙を自分の掌に取り込み、笑みをかえした。
「なるほど。合意がないとき、牙は誰にでも――」彼は続けようとして言葉が止まり、顔をしかめた。彼の指が震え、突然目を閉じた。牙が発した波は、彼だけでなくその場にいた全員に広がった。記憶の輪郭がふわりとぼやける。リオは、胸のあたりに鋭い痛みを感じた。耳鳴りが激しく、周りの声が水に濡れた絹のように遠ざかる。誰かの泣き声が低く、原色が薄れて見えた。使者の笑いは消え、彼はその場に膝をついた。
「――効果が“敵にも作用する”って、こういうことか」タオが小声で言った。装置の画面が勝手に点滅している。投票のパケットが乱れていた。牙を掴んだ使者の意思は、牙の反応で拡散してしまったらしい。合意のない強制は、作用範囲を拡げ、意図しない混乱を生む。
リオは激しい怒りと思いが胸を占めるのを感じた。だが怒りはすぐ冷えて、そこに硬い決意が座った。牙は人の意志を拡げる道具でも、奪う道具でもない。共有された選択を、一度だけ現実にするだけのものだ。彼女は深く息を吸った。息は鼻から入って喉を通り、胸を押し広げる。だが同時に、耳の奥で金属管を撫でるような不快な響きが続いた。高音が欠けた世界で、彼女は世界を測り直した。
「強制で何も変わらない」リオは低く言った。「誰かを忘れさせることで決着をつけては駄目だ。わたしたちは選ばせる。自分たちで決めるんだ」
タオは震える手で装置を操作し、落ち着いた声で提案した。「短時間の分散型投票だ。物理トークンを使う。握って押すと《合意》が出る。牙はその合意を『共有された戦術』として一度だけ実体化する。重要なのは、『同意の流れ』を可視化すること。誰かが巻き込まれることはない。強制はしない。時間は五分だ」
ミナがリオの手を強く掴む。「リオ、私は合意する。あなたと一緒にやる。仲間を守るためになら――」
賛同の輪がゆっくりと広がる。子どもたちが自分の拳をぎゅっと握り、老人が震える指でトークンを押し、青銅色のネジだらけの装置に次々と信号が入る。装置のLEDが緑に変わるたびに、群衆から小さな安堵の息が漏れた。だが広場の端、使者の支持者の一人が叫んで割り込んだ。「騙されるな! これで誰のための合意か分かるか!」
声がぶつかる。小競り合いが始まる。誰かが投石で瓦礫を投げ、瞬間、タオが叫んだ。「トークンが飛んだ! 合意が途切れかけてる!」
リオは牙を強く握りしめた。牙の冷たさが骨まで染みる。彼女は自分の内側にあるものを探した。前世の記憶、危険な現場で味わった恐怖、仲間の顔、ミナの療養室での小さな笑顔、タオの眠らない夜。共有したい作戦はただ一つ――忘却艦隊の記憶消去リンクを一時的に閉じ、避難民を分散移送する時間を作り出すこと。機械を止めるのでも、敵を消すのでもない。選択の余地と時間をつくること。
タオが最後のLEDを押した。全てのトークンが緑になる。広場の空気が一瞬、張りつめる。ミナが近くで目を潤ませながら言った。「私たち、——合意した」
リオは目を閉じ、牙を口元に近づけた。牙の表面が柔らかな振動を伝え、舌先に金属のような味が広がる。彼女は記憶の中の仲間の顔を一つひとつ確かめ、合図を送るように小さく頷いた。全員がリオの胸の鼓動と同じタイミングで息を吸った。
牙が光を取り込み、リオの体を震わせた。冷たさと熱さが同時に流れ、手のひらから指の先まで電流が走る。牙の力は、合意という“線”を、彼女の内側から外へ引き延ばした。彼女の視界の端に、時間の紐が見えるような感覚がした。歪んだ未来の切片が、線香花火のようにほのかに光る。彼女は一つの像を念じた――移送の道筋、車両の配置、ドローンの軌跡、バリケードの展開、そして住民一人ひとりが避難の選択をできる地点の確保。
光が爆ぜる。空気がバキッと音を立て、振動が地下を走った。広場全体を覆っていたざわめきが、ある法則に従って整理される。重機の歯がきしみ、古い通信塔が方向を変え、忘却艦隊の旗艦の外皮に走っていた小さなノードが、重低音とともに一斉に輝き、次の瞬間、無力化されたように暗くなった。遠くで、艦隊の一隻が進路を変えた。一つの合意が物理的な因果を紡ぎ、離れた機械を一度だけ調整したのだ。
だが牙の代償はすぐにやってきた。光が消えた瞬間、リオの頭の中から高い音がすべて抜け落ちた。鳥のさえずり、子どもの甲高い笑い、遠くのエンジン