光を偽る占い師は夜明けを疑う 第26話「第24章」
鐘が鳴った。低く、湿った響きが広場を震わせると、群衆のざわめきが一瞬静まり、朝の空気が重くなる。偽光塔の影が露に濡れた石畳に長く伸び、塔の縁には投票箱の並んだ台が並んでいた。紙片をつかむ指先が震え、足元で子供が泣き声をあげる。レイナはそのすべてを見ていた。視界の端に浮かぶ一つ一つの顔を、目だけで確かめるように。
鐘が鳴った。低く、湿った響きが広場を震わせると、群衆のざわめきが一瞬静まり、朝の空気が重くなる。偽光塔の影が露に濡れた石畳に長く伸び、塔の縁には投票箱の並んだ台が並んでいた。紙片をつかむ指先が震え、足元で子供が泣き声をあげる。レイナはそのすべてを見ていた。視界の端に浮かぶ一つ一つの顔を、目だけで確かめるように。
「レイナ、落ち着いて」隣でアイリが囁く。アイリの声はいつも静かだが、今日は指先に泥がにじみ、瞳に光が宿っていない。ボランティア証票を受け取る際の切り傷だ。
レイナはうなずくだけで、言葉は出なかった。手のひらに冷えた紙が一枚ある。訴えの文言がぎっしり詰まった投票用紙。住民投票の結果が公表されるこの朝、彼らは「偽光」を共同体のどのような在り方として扱うかを選べるようになった。だが、法的効力を持つにはただの集計では足りない。レイナが束ねる──当事者の証言を「真実」として綴じ、ひとつの公的記録に変える必要がある。彼女の術はそれを可能にする。代価はいつも胸の奥に重くのしかかる。
「準備はいい?」ライムが背後から訊く。長いマントの裾を踏んで、彼は塔の基台をじっと見つめている。その顔つきはだんだんと硬くなって、コンクリートの灰色が似合うほどに落ち着いていた。
レイナは手を伸ばし、投票箱の中から一枚ずつ紙を引き上げた。市井の書き込み、震える走り書き、親の署名、子どもの落書き。紙の繊維のざらつきが指先に伝わる。彼女はそれらを胸元の小さな符札に触れさせ、息を吐いた。
術が立ち上がるときの匂いがした。古い燻し銀の匂い――夜核に通じる金属と樹脂が混じったような、記憶を擦るような臭い。空気が微かに振動し、紙片から声が漏れ出す。小さな光の糸が紙の端からふわりと伸び、レイナの手の甲に絡みついていく。声は決して大きくない。言葉にならない呻きや、夕べに交わした約束、泣き崩れた瞬間の鼻をすする音。彼女はそれらを一つずつ拾い上げ、内面の器にそっと癒着させていく。
「一緒に唱えるよ」レイナは小声で言い、アイリとライム、そしてソウタが囁きを重ね合わせる。三人の声が重なったところで、光の糸は太くなり、やがて一本の紐のように固まった。陽の光に似て非なる微かな輝きがそれを包む。集められた当事者の証言は、ここで「公的な真実」へと変換されるはずだった。
だが、レイナの手先に違和感が走る。最初は指先が冷えていくような、次に唇の端から感覚が遠ざかるような奇妙な沈黙。符札の光がきしむと同時に、記憶の縁がほころびた。彼女は誰かの声を結びつけながら、自分の幼い頃の夕暮れの匂いを思い出そうとしたが、思い出は綿雲のように薄れていき、指の間から零れ落ちる。
「どうした?」ソウタがカードを差し出しながら訊く。彼の顔は真剣そのものだが、それを見てもレイナはすぐには反応できなかった。目の奥の一部が、景色を引き伸ばし、輪郭をぼかす。
「――大丈夫」言葉は出た。だがそれは自分への呪文のように空しく響いた。代償が動いている。彼女の術は、不完全であるがゆえに真実を武器へと変える。武器の刃を研ぐたびに、過去の記憶が薄れてゆく仕組みだ。レイナはそれを知っていた。だが、今は選択する時間がなかった。群衆の前にあるのは、封じられた記憶よりももっと差し迫った事態だった。
広場の外れから突然、金属が引き裂かれるような音がした。誰かが叫び、足音が一斉に走り出す。混乱の匂いが広がる。塔の向こうで、小柄な女性が押し倒され、群衆に押し潰されそうになっていた。子どもの手が柵に引っかかり、顔をゆがめる。突如起きた混乱は計算されたものだ、とライムは目で告げた。敵が投票の結果を混乱させるために仕掛けたのだろう。
「あの子たちを!」アイリが飛び出そうとする。レイナの胸が裂ける。人を救いたいという本能が先に立った。力を使って、救援の命令を無理に通し――それは術のもう一つの在り方だ。人々の選択を捻じ曲げることで、ただちに危機を除くことができる。しかし、そうすれば呪いは増幅する。救済を強制するという行為が夜核の反応を刺激し、代価を重くする。
レイナの手の甲に、光の紐が絡まり、震えた。彼女は瞳を閉じ、声を出した。詠唱ではない。単純な命令のような言葉が四方に波打った。「動いて。避けて」。群衆の中の声が彼女の声と共鳴し、押し合う人々が一瞬遅れて静止する。混乱の波が緩み、倒れかけていた女性は救われた。子どもは母親に抱かれ、辛うじて空気が取り戻された。
その瞬間、レイナの耳に刺すような痛みが走った。胸の奥に小さな黒い花弁が咲いたような違和感――夜核の反応を身体が検知したのだ。嗚咽にも似た震えが走り、彼女は口を開けるが言葉が出ない。アイリの手が彼女の腕を掴む。指先が汗ばんでいて、塩の味がした。
「違う、レイナ、今は──」アイリは無言のまま、彼女の腕を強く握った。だがレイナはその指の形を認識することができなかった。長年の友の手が、ただの温度としてしか届かない。胸を抉られるような感覚。彼女はその場に崩れ込むように膝をつき、手元の光の紐が震えた。
「記憶が薄れていく……」レイナの声は低く、震えが混じっていた。符札に縫い付けられた言葉が揺れると、集められた証言の一部がふっと消えた。白駒のように、幾つかの紙が彼女の掌から離れて、空気の中で散った。その一枚には、小さな子の握った爪痕が乾いた血とともに残っている。レイナは必死でそれを掴もうとしたが、指はすり抜ける。
「これ以上はだめだ」ライムが低く言った。彼の声には決断の冷たさがあった。集められた真実を公的に認めるには、十分ではない。しかしこれ以上レイナに術を続けさせるのは、彼女自身を蝕むことになる。ライムの視線は偽光塔の頂へと向けられた。塔の側面には、夜核の遺物を封じてきた古い鉄箱が置かれている。――そこに刻まれた銘文を、昨夜彼が調べていたのだ。
「銘文が……あの符と同じだ」ライムはつぶやいた。指先で空中に文字をなぞるように言う。夜核の文様と、レイナが術に使う符の一部が一致している。制度としての夜核と、レイナの占術は同じ根を持っているのかもしれない。ライムの言葉は、冷たい風に乗って広場の空気を固くした。
アイリがレイナの顔を覗き込み、言った。「あなたの術は、法の道具として使える。でも、同じ根からでは、法があなたを食べてしまう。あなた自身が消えるまで、使わないと約束してくれる?」
レイナは答えに詰まった。記憶が飛ぶたびに、彼女自身の守るべき対象――小さな村で彼女を待つ一人の少年の名や、母の手料理の味、幼いころの星空の約束が薄れていく。だが目の前には、今日を生きる人々がいる。救った人の手の温度。泣き止んだ子の息づかい。それでも、術を止めれば投票の法的効力は失われる。作られた「真実」は公的な判断を左右する。選択を奪わずに救う方法を、今は誰も示せない。
「行こう」ライムが言った。彼は塔の鉄箱へと歩み寄る。静かな決意が背中を押した。彼は箱の蓋を開け、内部に収められた夜核の断片を見下ろした。それは黒光りする小さな塊で、表面には回転する符文が刻まれている。触れると冷たいような、温かいような両義の感触が指先を掠めた。ライムは、それを慎重に引き出し、