花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第6話「第5章」
広場の石畳は、薄い光に濡れていた。塗井景は膝を折り、手のひらで薄く伸ばした絵具を指先に乗せる。青と黒の混じった色が、まるで澱のように重たい匂いを放った。周囲には簡素な屏風が幾枚か並べられ、そこに貼られた紙片には、昨日集めた証言の几帳面な文字が並んでいる。集まったのは町の者、疲れた顔の農夫、夜に働く女、兵隊の妻、そして子供たちだ。誰もが息を詰めて景の手元を見つめている。
広場の石畳は、薄い光に濡れていた。塗井景は膝を折り、手のひらで薄く伸ばした絵具を指先に乗せる。青と黒の混じった色が、まるで澱のように重たい匂いを放った。周囲には簡素な屏風が幾枚か並べられ、そこに貼られた紙片には、昨日集めた証言の几帳面な文字が並んでいる。集まったのは町の者、疲れた顔の農夫、夜に働く女、兵隊の妻、そして子供たちだ。誰もが息を詰めて景の手元を見つめている。
「光を当てるぞ」平野透が低く言う。彼はペン先を持ったまま、展覧を司る役目をしている。小さなランタンが一つ、屏風に向けて据えられる。ランタンの光は一瞬だけ集まった顔を照らし、次いで絵に触れるように伸びた。景は穏やかに呼吸を整え、筆を紙に下ろす。
筆先が走ると、書かれた言葉が音を伴って動き出すように思えた。景の能力は、証言を「束ねる」ことだった。人々が見聞きしたもの――触れ合った温度、匂い、声の震え、衣摺れの音。彼はそれらを絵具に変え、画布に重ねる。何層にも塗られた色は、ただの再現ではない。見る者の視線と触覚を引き寄せ、証言の共鳴を作る。誰かの「私が見たもの」が他の誰かの「私が感じたもの」と重なった瞬間、嘘はひび割れ、真実の輪郭が浮かび上がる。
最初の画面には、聖将カインの栄誉を示す大旗が描かれた。だがそこに重ねられるのは、夜の匂い、切羽詰まった足音、焼けた皮の味といった――複数の証言が交わる生々しい断片だ。旗の金糸は、血のように黒ずんでいく。観衆の顔が、ランタンの光で一瞬赤く浮かび、そして花びらが風に吹かれたようにぽろりと落ちる。落ちた花弁はみるみるうちにしおれ、黒い粉になって崩れた。誰かが小声で息を呑んだ。
「これが……本当に、あの人のやったことなのか」農夫の声は震えていた。だが多くの人間にとって、栄誉は生存の糧でもある。真実が見えても、心の安寧を失いたくない者はいる。そこへ、あの夜、カインの名の下に救済が与えられたという記憶を求める声が混ざってきた。
「救ってくれ」と、薄汚れた服の婦人が両手を差し出した。足を失った少年の母だった。真っ直ぐな目が、景の胸を締め付ける。彼女は叫ぶ。声は嗚咽と紙一重だった。「あの人に、もう一度。あの人の手で、私の子を——」
隣りに立っていた星野赫斗が、歯を食いしばった。元治安官のその男は、軍服だった頃の癖を抜け切れていない。星野は粗い声で言う。「強制してでも救えばいい。救済は結果だ。被害者を助けるのが先だろう。真実は後からでもいい」
「強制は呪いを肥やす」景は低く返した。筆を止めたまま、顔を上げる。絵具の匂いが、広場の夜気と混ざって鼻腔を刺す。景の声は、まるで何かを噛みしめるような濁りがあった。「僕の術は、真実を見せるものだ。だが救済を『強制』することに、呪いは反応する。拒否された救済の名で被強制の意思が折られるとき、呪いは倍増する。単に病や傷を消すより、同意を奪うことが、呪いの養分になるんだ」
星野の顔が怒りで紅潮する。周囲のざわめきが少し大きくなる。平野が割って入った。「でも、見てくださいよ。少年の膝はもう骨が見えている。誰かが手を打たなきゃ——」
「打つなら僕を使えとは言わない」景は筆を握る手に力を入れ、紙に黒い線を引く。「君が言う方法で救済を強制したら、呪いはその行為を証拠に記憶する。呪いは形を取って、人々の身にまとわりつく。救った者たちは自由を失い、より多くの者に呪いを注ぎ込む像が増える。僕はそれを、前に試した。結果は——」言葉が途切れた。
景が前に出たとき、一年前の夜が、彼の身体の中でざらついて爪を立てる。小さな農場の一角、傷ついた男を強引に治したとき、すぐ近くの雑草が黒い斑点を出し、翌日にはその村で子供たちが高熱を出した。景はその時、自分が救いを与えた代償に、知らぬ間に何かを共有させてしまったのだ。記録よりも深く、記憶よりも冷たい代償。彼はここでそれを繰り返すわけにはいかない。
しかし、母親の目は変わらなかった。彼女はそれでも、救いを求める。「でも……彼の手が、あの人の手でまた動けば。あの人は英雄なんでしょう? なら、お願い——」
「英雄、なあ。昔の僕なら僕もそう願った」景の笑いは苦かった。筆を再び紙に落とすと、三つめの証言が重なった。夜に看取られた者の銀の唇、兵士が嘘を重ねるときの唇の乾き、司祭の祈りの重さ。色は厚く、触ると粘土のように湿っていた。景が絵を完成させると、屏風の上でまた花びらがこぼれた。誰かが指で触ると、濡れた花びらは粘って手のひらに残る。嗅げば、土に混じった腐葉の匂いがあった。
「見ろ」平野が言った。「花が腐ってる。まるで——」
「まるで僕の能力の影響そのものだ」黒沢綾が小さな声で呟いた。彼女は町の花屋で、いつも朝早く花を市場に並べる老婆だ。綾の指先が花弁に触れると、その肉質がさらに柔らかくなり、指先に黒い粉が付く。綾は顔をしかめ、やがて無意識に手を引っ込めた。
「悪化したのは僕のせいだろうか」景は首を振る。自分の頭の中で欠けていくものを感じていた。能力を使うたびに、彼は何かを失った。はじめは他人の夢の断片だった。最近では、自分の子供時代の匂い、父の手のひらの感触、妹の笑い声。それが、また薄れていく。
「妹の名前を思い出せないことがあるんだ」景は声を抑えた。「写真の中の顔が、夜に薄れていく。何を守るために真実を武器に使うのか、僕はまだ答えを持てていない。だが強制は違う。強制は、僕の力以上の代償を世に撒き散らす」
星野は拳を固め、ぶち切れそうな表情で足を踏み鳴らした。「それでも、見捨てるのか! 救いを求めている者がここにいる。ならば行動だ。今すぐだ」
その時、群衆の端で、小さな男が杖をつきながら前に出た。老人の顔には皺が刻まれ、不器用な手に一枚の布片を持っている。布片には、見覚えのある紋章が半ば焼け焦げたように残っていた。誰もがそれを見て息を飲む。紋章は、聖将カインの軍旗のものに酷似していた。
「これを見つけたんだ」老人が言った。声はかすれているが、確固たるものがあった。「昨日、領主の家の裏に落ちていた。そこに人の足跡があってな。あの紋章を持つ者が、領地を夜に通っていた」
ざわめきが波のように広がる。聖将と領主とを結ぶ線は、既に誰もが噂にしていたが、直接の証拠はなかった。平野の目が輝く。黒沢は俯き、花束を抱きしめるように腕を組む。星野の顔には、戦利品を発見した兵のような期待が一瞬浮かんだ。
景の中で、何かが反応した。布片に残る匂いを――老人から渡されたそれを、彼は指先で触れて確かめた。匂いは焦げた油と冷たい鉄の混合、そして――微かに子供の香りが残っていた。それは、かつて彼が失った記憶の断片に繋がる匂いを呼び覚ますかもしれない。だが引き換えに何を失うかは、既に知っている。
「これを公にするべきだ」平野が言う。「本物の証拠だ。展示だけじゃ足りない。領主の屋敷から直接、問い質す。町は知るべきだ」
星野は歯を剥いて笑った。「今夜だ。今夜奪い取る。これを持って領主の屋敷に踏み込む。強制的にでも、真実を突きつける」
咲良がきつく首を振った。彼女は場を取りまとめることが多い、地元の茶屋の女将だ。「そういう無茶はやめて。もし失敗した