花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第5話「第4章」
油と溶き媒の匂いが夜の窓から逆流してくる。ルカは指先をキャンバスの上で休め、息を吐いた。窓の外は軍用灯が灰色の雨を引き裂くように点滅している。床には、彼が集めた証言の紙片、布片、血でしぶいた名刺の破れ端が扇状に散らばっていた。そこに書かれた断片的な言葉は、いまや彼の手の動きによってひとつの像へと結ばれようとしている。
油と溶き媒の匂いが夜の窓から逆流してくる。ルカは指先をキャンバスの上で休め、息を吐いた。窓の外は軍用灯が灰色の雨を引き裂くように点滅している。床には、彼が集めた証言の紙片、布片、血でしぶいた名刺の破れ端が扇状に散らばっていた。そこに書かれた断片的な言葉は、いまや彼の手の動きによってひとつの像へと結ばれようとしている。
「最後の一筆だよ、ルカ。完璧に繋げてしまえば……」ミオの声が低く震えた。彼女は窓際で腰を下ろし、冷えたコーヒーの缶を握り締めている。長い黒髪がランプの光を少しずつ吸って、影の縁取りになった。
キャンバスの中心には大きな花が描かれていた。白い花弁は濡れた蝋のように光り、他の部分の色はあらゆる光を吸い取られてゆっくりと褪せている。花だけが鮮やかなまま残り、その周囲から世界の色が引かれていくような錯覚を与える——それはルカがいつも表現したがる違和感だった。彼はその花を、語ることを許されなかった人々の顔と重ね合わせていた。
「ルカ、本当に行くの?」カナメがコートの襟を正しながら訊いた。彼は左手首に古い包帯を巻き、無言の誓いのようにそれを撫でている。
「あと一息だ。声が──みんなの声がここで合わさるんだ」ルカは低く言い、パレットに残った暗い緑をひねり出した。彼の能力は単に見せることではない。声を引き寄せ、断片を重なり合わせることで、誰かが隠した「真実の瞬間」をキャンバス上に固定する。だがそのたびに、彼は自分の一部を犠牲にしなければならなかった。忘却という代金を。
ルカは白い布で筆先を拭い、短い線を引く。すると、キャンバスの内側でさざめきが起こる。紙片に書かれた音がうねりとなって音量を増し、空気がざわめいた。声が合わさり、場面が差し込まれる。幼い子の嘶き、女のすすり泣き、男の咳き込み。ルカはそれらを受け止めて、色で整えてゆく。だが仕上げにかけて、胸の中の輪郭がぼやけ始めた。名前が、消えようとしている。
「ルカ?」ミオの声が急に鋭くなる。ルカは自分の口を開けて、自分の名を呼ぼうとした。したがって出てきたのは、知らない人のような、かすれた声だ。「……僕は、画家さんだっけ?」
その瞬間、暖かい記憶の皺がぱりりと剥がれる。ルカは子どもの頃に抱いた手の温もりを探したが、指の先には空白がある。記憶が音を立てて流れ落ちていく感触。彼は驚きのあまりキャンバスから手を離すと、花の輪郭に小さな亀裂が走った。キャンバス上の色合いがさらに歪み、花の白が深く濃く異質に震える。
「触るな」低い声。部屋の扉がひどく浅い振動とともに叩かれた。鉄靴の音が階段を上がる。外の軍用灯が斜めに光を投げ込み、扉の影に鋭い縁を刻む。重い金属音、鍵が回る。ローレン監査官の名札を持った男と四人の官憲が、装甲のような外套を翻して入ってきた。彼らの顔は無表情だが、胸に光るバッジには、王権の紋章と、古い英雄の勲章がかすかに刻まれていた。
「押収を命ずる。公の秩序を乱す物件は即時回収する」監査官は声を張った。彼はゆっくりと布の包みを抱えたように手を伸ばす。部屋の温度が一度、下がる。
ミオが前に出て、短く歯を食いしばる。「それは私たちの証言だ。誰にも渡せない」
「証言? いや、反逆の扇動具だ。真実だとやらが騒乱を呼ぶ——民を惑わす」監査官の声は冷たい。
ルカはキャンバスを見た。花はなおも光を放っている。だが周囲の色が吸い取られるように薄れてゆく。壁の絵の額縁、ランプの鈍い光、ミオの眼差しの温度までもが、徐々に遠くなる。
「やめろ!」ミオが飛びかかる。彼女の爪先がキャンバスの端に触れた瞬間、部屋中の生花が呻くように腐り始めた。鉢の紫陽花の葉が黒く縮み、土が湿った悪臭を吐き出す。ミオは悲鳴とともに手を引っ込め、爪の先に黒い斑点がついた。
「触れるな、と言っただろう」監査官は手袋越しにキャンバスの縁を掴む。包帯をしていたカナメが咄嗟に飛び出し、監査官の腕を掴んだ。「離せ!」
だがその力づくが、思わぬものを呼び起こす。誰かが強引に救済を試みると、その意思が呪いを増幅する。カナメの身体に流れる血の音が、キャンバスの裏側でうなりとなって響いた。花の中心が黒みを帯びて膨らみ、絵の中の花弁が液状に溶け出す。悪臭が実際に空気を満たし、監査官の鼻をつく。彼らは一歩退いたが、箱を抱えた手は離さない。
ルカは足が宙に浮いたような錯覚に襲われた。自分の名を何度も口の中で転がすが、どれも紙のように薄くなって消えてゆく。代わりに残るのは、他人の痛みの断片、誰かの最後の見た景色、密室の中で誰かが見た薄暗い天井の記憶。彼の中の「自分」は少しずつ後景へ押しやられる。能力が働けば働くほど、彼は自分の固有さを失うループに陥る。
「連れて行く。今すぐに」監査官が命じると、二人の役人がキャンバスを慎重に巻き取り始めた。巻かれた布の中で、鮮やかな花はほんの一瞬、光のように浮かび上がり、そのあとすべてを飲み込まれるように暗くなった。官憲の手袋に花弁が触れると、ほとんど液体の腐汁が指の間を伝い、官憲の腕に黒い斑点を残した。その斑点は見る間に広がり、官憲の外套の縫い目を黒く染めていく。
「戻せ!」ミオは立ち塞がり、脈打つ怒りで拳を振るった。だがカナメはルカの肩を掴み、無言で出口へと引っ張った。彼の掌は震えていた。外に出れば、監査官たちの人数と装備に勝てる見込みはない。ルカの記憶を少しでも救うために、彼はルカを今この場から遠ざけねばならなかった。
ミオの目が揺れた。彼女はキャンバスに残された数枚の紙片を見た。そこには、母の手の匂いを語る行、路地裏での叫び声、兵士の子を抱く老女の涙が記されている。すべてを取り返すことは、彼女にとってだけでなく、これらの声にとっての救済だった。もしルカの「真実の筆」が奪われれば、彼らの言葉は再び封印される。だが奪還を試みれば、呪いはまた増幅する——ミオは自分の手がその増幅に晒されることを知っていた。
「カナメ!」彼女は叫んだ。声は夜空に切り裂かれ、近くの瓦礫にこだました。「取り返す。今ここで取り返す!」
カナメの手がさらに強く、しかしやさしくルカの腕を引いた。「ルカを連れて逃げよう。お前一人で全部背負うな。ここで全滅してどうするんだ」
ミオの目に、わずかな涙が光を反射した。彼女は一歩後ずさり、肩の筋肉が引きつる。腕を伸ばして、床に散らばった紙片のひとつをかき集める。指先がその紙の端を食い破られ、薄い血がにじんだ。ミオは紙を握りしめたまま、首を振る。
「私がいる限り、あんたたちは取り返せる」ミオは低く誓うと、監査官たちへ向かって走り出した。彼女の背は悲壮で、しかし決意に満ちている。誰かが一人で盾になる――その選択が、仲間の自律性を示す瞬間だった。
カナメは一瞬躊躇すると、ルカの顔を見下ろした。ルカの瞳は薄く霞み、そこに浮かぶのは自分の顔ではなく、誰かの日の出の風景だった。カナメは言葉を失い、ルカの腕を引いて扉へと走った。外気が冷たく、鉄の匂いが鼻を刺す。後ろからミオの叫びと、家具が弾ける音、そして腐臭の混じった怒号が追ってきた。
監査官は包みを抱え、ひどく厳粛そうに去ってゆく。通りに出された外套は木の箱に詰められ、その中