花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第2話「第1章」
鈍い午後の光が、村の広場を薄く包んでいた。市場の屋根から垂れる布が風に揺れ、遠くの教会の鐘楼が一度だけ鳴る。村人たちは列を作っていた。先頭に立つのは白いマントに銀の飾りを掲げた男──彼らが「英雄」と呼ぶ者だった。勲章のように光る胸当て。口元に浮かぶ微笑みは、新聞の祭礼写真よりずっと生々しく、周囲の人々はその顔に膝を折すように手を合わせていた。
鈍い午後の光が、村の広場を薄く包んでいた。市場の屋根から垂れる布が風に揺れ、遠くの教会の鐘楼が一度だけ鳴る。村人たちは列を作っていた。先頭に立つのは白いマントに銀の飾りを掲げた男──彼らが「英雄」と呼ぶ者だった。勲章のように光る胸当て。口元に浮かぶ微笑みは、新聞の祭礼写真よりずっと生々しく、周囲の人々はその顔に膝を折すように手を合わせていた。
村上透は、広場のはずれでイーゼルを立て、古い麻布を張ったキャンバスを前に座っていた。筆は指の間で温かさを失いかけている。彼の視線は英雄へではなく、その後ろにあった花壇に留まっていた。花壇には五色の小さな花が植えられ、村の寄付で大切にされているはずだった。しかし一週間前、その隣の村では朝になったら花が黒く萎れていたと、年寄りが噂していた。彼はその噂を、耳の片隅で拾っていた。
英雄の列の脇から、薄い身体の少女がゆっくり現れた。綾乃という名だと、誰かが囁く。彼女は目に影を抱え、肩にかかる布をぎゅっと握っていた。周囲の歓声は、彼女を祝福するように波打つ。だがその目は、誰かに見せるためではないものを映していた──見開かれ、震える。
透は筆を握り直した。絵描きとしての習慣ではなく、彼には別の理由があった。彼の能力は証言を束ねること。言葉をキャンバスに縫い留めれば、被った者の視界が絵の中に立ち上がる。だがそれは完全ではなく、代償を伴う。繰り返すたびに、自分の記憶の一部が薄れていく。さらに、救済を強制的に押し付けるような使い方をすれば、呪いは増幅する──つまり、助ければ助けるほど呪いの根は深く太くなる。彼はそれを知ったとき、どうするか選んだばかりだった。
綾乃が近づいてくると、彼女の足元に植えられた花が、かすかにざわめいたように見えた。透は息を吐き、キャンバスに少しの水を垂らした。水は麻布に広がり、白がわずかに滲む。筆を立てると、最初の線が生まれた。線は彼女の視界の端を切り取るように走り、次の瞬間には鮮やかな匂いが鼻腔を満たした。
「言ってくれ、綾乃。」透は声を低くした。彼の筆先が震えるのは恐怖からではない。記憶を縫う行為はいつだって密のように重い。綾乃は唇を震わせ、古い夕暮れの記憶を吐き出すように言葉を並べた。
「夜が来たの。大きな車が一台、二台。『救済です』って、村長さんが…声が低くて。私たち、連れてかれた。荷物は一つだけ。名前を聞かれて、答えたら、次の朝には……昨日のことが全部、『ない』みたいに――」
彼女の言葉を透は受け取り、わずかな色でキャンバスに塗り固めていく。筆は彼女の視界をなぞり、頭の中で再生された場面を一枚の絵にしていった。荷馬車の車輪、夜露の匂い、手のひらに残る木の冷たさ。キャンバス上に広がる筆致が、そのまま彼女の見ていた世界になった。
描き進めるうちに、広場の空気が変わった。遠くで子供が叫ぶ声。だんだんと、綾乃の足元の花壇の花が、窓ガラスのように弾ける音もなく黒ずんでいくのが目に入った。最初は一輪、次にまた一輪。花びらの縁から腐れの匂いがふわりと立ち上り、村人たちが顔を背ける。誰かが小さな呻きを漏らした。透は筆を止めた。だが綾乃の話は続き、彼の手は止められない。
「朝、目が覚めたら、向こうの家が空っぽで。人が減っていた。大きな屋台に座ってる人が『救済された』って言ってたんだけど、笑ってたんです。目が笑ってないのに。私は言っていいのか分からなくて……でも、名前を忘れてる人がいた。自分の名前が、ふっと消えるの。ちゃんと言えたのに、翌朝には『思い出せない』って。なんでだろう……」
彼女の言葉が一節終わるたび、キャンバスに黒い影が一つずつ落ちていった。透の胸の奥に、小さな痛みが走る。それはいつもの代償の入り口だ。記憶が一枚、薄れていく感覚。最初は取るに足らない薄皮のようなものだが、確実に減り続ける。彼は自分の母の笑い声の高低を、一瞬思い出せなかった。指先が冷たくなる。
「助けてくれるのは、英雄なの?」綾乃が問いかける。広場の声は沈み、英雄の微笑みだけが遠くに残る。
透はキャンバスを見つめ、その上に別の線を置く。彼はうそをつかない。能力は「当事者の証言を束ねる」と限定されている。第三者の噂を足して何かを作ることはできない。だからこそ彼は、綾乃の言葉が必要だった。そして、彼女がほんとうに「記憶をなくしてしまった」被害者であり続けるなら、その証言は重みを持つ。
「彼らは『救済』って言う。だがそれは、誰かの選択を奪うことなんだ。」透の声は低かった。声が届く範囲の村人たちは、彼の言葉に耳を傾けた。英雄の側近のひとりが怪訝そうに顔を寄せたが、英雄自身は表情を変えない。
綾乃の手に握られた端切れが震え、何かが落ちた。透が拾うと、それは小さな木の札だった。焼け焦げた跡と、薄い金の紋章が刻まれている。紋章は見慣れたものだった──王都の軍に属する印章だ。英雄の胸にも同じ紋章がある。だがこの木札にはもう一つ、細い溝が彫られており、中に埋められた黒い粉が乾ききっていた。
「これは……」透は指先で紋章に触れようとした瞬間、自分の幼い頃の記憶が少しだけ揺らいだ。屋台の裏で母が縫ってくれた上着の縫い目、その手の内の匂い。彼はそれをつかめなかった。代償は確実に取られていく。だが綾乃の瞳には、何か助けを乞う光がある。彼女の守るものは、消えゆく名前と、強制される「救済」から奪われた選択だ。
広場の向こうで、英雄が胸を張って宣言した。「我らは救済を為す。選ばれし者には新たな生活を。村のために必要な措置を取るのだ!」拍手と歓声が湧いた。誰かが涙を流して英雄に手を伸ばす。だがその手にあるのは、感謝というより必然の色だった。選択の自由を奪われた人間の静かな服従。
「もういい、綾乃。ここでは何も変わらない。」透はキャンバスを抱くようにして、立ち上がる。手の中の筆先が、最後の一線を引いていた。キャンバスの上には、綾乃の夜の記憶と、黒ずんだ花の一群が残る。見る者にそれを突きつけるように。
綾乃は震える手で小さな札を透に差し出した。「これは……私の。持ってて。忘れたくないから。」彼女の声は、細い糸のように頼りないが、強い意志を含んでいる。透はその手を取り、木札を懐に入れた。彼はその瞬間、自分の目的をもう一度言葉にしてみた──偽りの英雄を倒す、ということ。だがその「倒す」は斬って捨てる単純な行為ではない。人々に選べる余地を取り戻させることが、彼の望みだった。
足音が近づいた。英雄の側近が、露骨に不快そうな視線を送ってきた。誰かが彼らの行動を監視している。広場の端に立つ通りすがりの男が、透をじっと見ていた。その目は、ただの好奇心ではなく計算の光を含んでいる。
「お前、何をしている?」側近のひとりが言った。だが英雄は一歩も動かない。彼の微笑みは、どう見ても慈悲深い仮面に過ぎなかった。
透は綾乃の肩を抱き、背中を向けた。広場を抜ける夕闇の先には、宿屋の灯りと、村の外へ続く道がある。彼らが行けば、また多くの問いが生まれる。綾乃を守るために、透は記憶という代価を払い続けねばならない。だが彼が払う代償が大きくなるほど、呪いは深く根を下ろす──その真実もまた透は呑み込んでいた