花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す

花を腐らせる画家は偽りの英雄を倒す 第1話「序章」

アトリエの窓は、王都の喧騒を薄い灰色のフィルター越しにしか伝えなかった。遠くで太鼓が鳴り、歓声が走る。昼の光は既に斜めになり、建物の屋根が列をなす影を床に落としている。シオンは、そんな影の中央で筆を握っていた。彼の筆先には黒く滲んだ色が絡みついている。絵具は花弁のように粘り、キャンバスの上でゆっくりと溶けていった。

アトリエの窓は、王都の喧騒を薄い灰色のフィルター越しにしか伝えなかった。遠くで太鼓が鳴り、歓声が走る。昼の光は既に斜めになり、建物の屋根が列をなす影を床に落としている。シオンは、そんな影の中央で筆を握っていた。彼の筆先には黒く滲んだ色が絡みついている。絵具は花弁のように粘り、キャンバスの上でゆっくりと溶けていった。

「もっと……」と、アトリエの奥からユイの声。短く、しかし沈黙よりも重い。ユイは今日も遅れて来た。展示会の準備は午後に迫っている。王都は一日を祝賀の舞台に変え、護王イリオンの凱旋が街を巡る。白い花冠と金のリボンが空を埋め、人々は祭りの気配に酔っている。だがシオンの前のキャンバスには、色を吸われた花が痛々しく広がっていた。花びらの縁は黒く、濡れた絵具がそれをゆっくりと飲み込んでいる。

「最後の声が入ったら、展示場へ持っていく。今日以外にやる場所はない」とシオンは言った。声にいつもの冷たさはなく、どこか切迫が混じっていた。彼が守ろうとしているのは、名前のある一人の少女でも、失われた村の面影でもなく、"証言"そのものだった。真実を一つに束ねて見せること——それが彼の用意する武器であり、同時に呪いの匙加減でもある。

ユイは唇を噛んだ。彼女の手には一束の生花。展示場の入り口を飾るために頼まれたものだ。白と薄紅の花が、箱の中でまだ息をしているようだった。「シオン、これ……展示に使うの?」

「うん。正面だ。人々が渡す花冠の隣に置けば、視線が移るはずだ」シオンは筆を動かす。筆の腹がキャンバスに押し付けられ、絵具が花びらをなぞるたびに、そこからかすかな匂いが立ち上る。油と溶媒、そして——腐りかけの匂いだ。シオンはその匂いを嫌ったことはない。むしろ、匂いが強ければ強いほど、真実の重さが伝わると信じていた。

ユイは箱を置き、背中越しにキャンバスを覗き込む。「誰の証言が入ってるの?」

「三人。兵士の母、行商人、そして——」シオンの声が止まった。彼は掌を自らの胸に当て、遠いところを探した。いつもならその先に名を呼べる誰かがいるはずだ。守る対象の名。だが言葉は彼の喉の奥で溶け、ひんやりと消えた。記憶の端が、絵具に吸い取られていくような感覚。彼は筆を置き、キャンバスに指先を触れた。そこから小さな疼きが波のように広がる。

「大丈夫?」ユイが近づく。彼女の指先が、シオンの手首に触れた。温かさが伝わると同時に、シオンの目の前で一枚の花弁がキャンバスからふにゃりと垂れ、その縁から黒がにじみ出した。花びらは現実の花のように湿っていて、触れるとべたつく。ユイは顔をしかめる。箱の中の花のいくつかも、すでに縁が変色し始めていた。

「やめろ、引き返そう」ユイの声に焦りが混ざる。彼女は箱を抱き上げると、そのままアトリエの外へと走り出した。午後の風がドアを開け、遠くの太鼓の音と一緒に人々の笑い声を運んできた。

シオンは見送ることしかできなかった。彼ができるのは、キャンバスを塗り続けること。誰かの証言を一つ絵に刻むたびに、彼の記憶が一つ薄れる。彼はその代償を知っていた。だが代償を払ってでも、偽りの英雄が国を覆い、真偽を独占する現状を裂かなければならないと考えていた。

夕刻、展示場になる建物は既に準備の明かりに包まれていた。華美な旗が通りに垂れ、護王の象徴である金の獅子が玄関に据えられている。来場者はおしゃれをして列を作り、誰もが美しいものを見る目を持っていると思っている。だが美しさはしばしば目を曇らせる。シオンはその列の先で、濡れたカンバスを抱えて立っていた。

「これで最後だよ。展示が始まったら、みんなの話をひとつにする」シオンはくぐもった声で呟く。彼の指はキャンバスの縁に残る黒い跡で汚れていた。隣でユイが息を整える。彼女は戻ってきたのだ。手にはギリギリのところで残った花一輪。花は薄い青で、まだ完全には枯れていない様子だった。

だが展示場の他の準備は進んでいない。本来飾るはずだった花輪が、搬入の担当者のミスで遅れているという。間に合わないなら、主催側はシオンの展示を別の場所に回そうとした。だがシオンは決めていた、「護王の凱旋と同じ時間に見せる」と。彼は主催者と口論になり、声を荒げ、ギャラリーの責任者であるラウルの視線を釘付けにした。

「あなたのやり方は危険だ。公序良俗に触れるかもしれない」ラウルは冷たく言った。彼は市の役人と顔馴染みであり、護王のパレードを祝う側の人間だった。だがユイの顔を見て、わずかに躊躇が走る。「それでも、あなたを排除する理由にはならない」

ラウルは選択を迫られた。彼は展示を延期するか、シオンを排除するか。やがて、ラウルは深いため息をついて言った。「予定通りやろう。だが条件がある。展示は短く。写真撮影は禁止。警備を入れる」

シオンはうなずいた。条件は呪いのように彼の首に重くのしかかったが、それでも彼は譲れない。真実を見せると決めた瞬間、彼は仲間を巻き込むことを選んだのだ。ユイもまた、ラウルの決定を受け入れた。彼女は自律的な決断を下し、シオンを支えるために自分の立場を危うくした。誰かの意志が動いたことで、展示は確かに始まる方向へ進んだ。

展示が始まる直前、最後の証言者が現れた。薄暗いフードを深く被った男。マルコと名乗った。彼は震える手でシオンに紙片を差し出す。そこには、護王の軍が村で行った夜の出来事が克明に書かれていた。声は震え、字は滲んでいる。読めば読むほど、空気が重くなる。

シオンは紙を受け取り、読みながら筆を走らせる。言葉をキャンバスに変える——彼の能力はいつもそんなふうに働く。人の声を耳にした瞬間、彼はその声を画面の中へ縫い込む。だがこの夜、縫い込むたびに彼の胸の中から何かが滑り落ちた。マルコの言葉を描き上げるうちに、シオンは昔、裸足で駆け回った裏通りの匂いを忘れた。小さな温もり、窓辺のランプの消え方、守ると誓った誰かの名前——ひとつずつ、絵具の中へと押し込まれていく。

「シオン、やめて!」ユイが叫ぶ。だがもう遅い。シオンは手を止めない。彼女の叫びは太鼓の音にかき消され、展示場の外で人々が花冠を投げる拍手に紛れて行く。

展示のカーテンが開いた瞬間、最初の異変が起きた。入り口の花輪の一つが、先に届いた装飾用の花と接触した瞬間に、縁が黒く変色した。薄い青だった花が、液状の黒い染みを吸い上げ、みるみるうちに崩れていく。花弁はペースト状になってキャンバスの端へ滴り落ち、シオンの絵の色を浸した。観客席からはどよめきと拒絶のざわめきが起き、何人かが顔をしかめる。金粉にまみれた客の一人は、手の甲を白くしていた頬から色が抜けていくのに気づいて指を触れた。そこには、ほんのりとした血色が残っていない。

絵具が花びらを飲み込み、観客の表情から色を奪うと同時に、周囲の空気が重くなった。シオンは急に足元がふらつき、自分の名前を呼ばれても返せない。彼は何か重要なことを忘れたのだという確信だけが胸に残り、空白が拡がる。ユイが駆け寄り、無言で彼の腕を掴む。彼女の目は怒りと恐怖で揺れていた。

「これが……」ラウルが呟いた。その声は震えていた。「君のやり方は危険を越えた。これが、護王側の言う“呪い”