死者を数える密偵は破滅の儀式を止める 第19話「第17章」
地下の通路は低く、空気が鉄と油と古い消毒薬の混ざった匂いで満ちていた。蛍光灯の細い光が天井のパイプを白く撫で、足音がひんやりと反響する。朔夜は前方の影に溶けるようにして歩いた。右手にあるのは布に包まれた小さな数珠──触れるだけで、記憶の端をひんやりと撫でるものだ。彼はそれに触れなかった。今は何より、シオンを助けることだけを考えなければならない。
地下の通路は低く、空気が鉄と油と古い消毒薬の混ざった匂いで満ちていた。蛍光灯の細い光が天井のパイプを白く撫で、足音がひんやりと反響する。朔夜は前方の影に溶けるようにして歩いた。右手にあるのは布に包まれた小さな数珠──触れるだけで、記憶の端をひんやりと撫でるものだ。彼はそれに触れなかった。今は何より、シオンを助けることだけを考えなければならない。
「三十メートル先に監視室の扉。音声は二重らせん。ハル、こっちのパネルを抑えてくれ。ミコト、麻酔薬を準備して」
ハルが素早く指差し、ミコトは小瓶を確かめる。二人の呼吸に緊張が混ざる。朔夜は動きながら周囲を数える――だが今回はただの数ではなかった。彼の能力は、罠にもなる。真実を引き出し「当事者の証言」として束ねるたび、朔夜の内側から一つの記憶が消える。命を救うほど呪いは増幅し、彼が守ろうとしたものの色が薄れていく。だから彼は声を抑え、発動を最小限にする術を選んでいた。
監視室の扉の隙間から、遠くで断続的な呻吟が漏れた。朔夜の指先がほんのわずかに震える。あれはシオンだ。彼女の声は、記憶の深いところでまだ輝いている。朔夜はその名を心の中で確かめると、小さく息を吐いた。
「合図入れる。三カウントで行くぞ」ハルが囁く。
二人がドアを押した瞬間、室内の椅子がきしむ音と、脂の乗った笑い声がばらついた。監視員は一人、目を血走らせてモニターを睨んでいる。もう一人は背を向けて足を組み、耳にイヤホンを突っ込んでいた。朔夜は体を低くして滑り込み、手刀で耳もとを撫でるようにして監視員の頚動脈を封じた。反射的に彼は監視員の口を塞ぎながら、最低限の言葉を吐いた。
「名字を言え。監視記録のキーだ。」
本来ならば十分な物理的制圧で済むはずだ。だが記録へのアクセスは電脳認証。どうしても記録を作動させる「言葉」が必要だった。朔夜は能力を使わずに済ませようとしたが、監視員はもう意識を失いかけている。そこで朔夜は、最小限の形で能力を作動させた――囁くように、ただ一つの事実を引き出す。
「ここにいる全員の名前を。真実として言うんだ」
言葉は刃のように震えた。監視員の目が一瞬、恐怖ではなく受容に変わる。朔夜の耳に、むき出しの声が滑り込んだ。名簿の断片、鍵のある引き出しの所在、地下二層の処置室の位置。情報は一気に朔夜の内へ流れ込み、束ねられて証言となって出てきた。監視室の端末はその証言を鵜呑みにし、認証を解除する。
しかし同時に、朔夜の中で何かがぽろりと落ちた。小さな穴が胸の奥に開いた。彼はふと、幼い頃に聞いた母の歌詞の一節が思い出せないことに気づく。曲の始まりの一言、震える声で必死に引っ張り出そうとしても、もう糸口が見つからない。代償だ。すぐに朔夜はその喪失を押し込み、表情に出さないようにした。
モニターに映る監禁室の映像が歪み、シオンの肩に手錠が見えた。彼女の身体には細い縫い跡があり、目は虚ろだ。朔夜の胸が引き絞られる。
「見つけた。地下二層、区画C。だが保安は厳しい。薬物浸透追跡が入っている」
ミコトが低く呟く。自分の役割を分かっている。ここで乱暴に救えば、シオンはさらにダメージを受ける。だが抑えすぎれば時間が足りない。仲間は選択をする必要があった。
「どうする?」ハルが畳みかける。彼の瞳には怒りと焦りが混ざるが、決定を委ねる余地はない。
ミコトは襟元を震わせながらも冷静に数秒考えた。彼女の指先が小瓶の蓋を回す。ハルは拳を固める。二人の顔に、揺れる信頼の線が見えた。朔夜はその目を見て、自分の過去が暴かれる可能性を悟った。潜入の過程で彼が「数」の運用に関わっていた痕跡が露見するかもしれない。だが今は曖昧にしておけない。
「聞いてほしい」朔夜は声を落とし、振り向いて二人と距離を詰めた。「俺は以前、ここに――制度側の一部門で働いていた。『数を取る者』の記録と照合する仕事だ。あの場所の運用には、俺の名義が残っている。隠しておくべきではない。信じてほしい。俺はあの頃に見たものを悔いて、ここへ来た」
空気が一瞬止まった。ハルの指が銃の柄に触れる。ミコトの瞳が細まる。仲間たちは自律的に反応した――咎める者、疑う者、そして考える者。誰も彼を即座に断罪しなかったのが、朔夜には救いだった。
「証拠はあるのか?」ハルが尋ねる。
朔夜は膝元の小さな信号端末を取り出した。そこにはかすれたログと、かつて彼が使っていた符号が残っている。ログの一項目が赤く点滅していた。そこには朔夜の旧名が記され、処理した「数」の概要が記録されていた。ミコトの手が震えつつもログを覗く。
「これが君の書類なら、君は……」彼女は言葉を失った。
「説明はできる。だが今は先を急がなければ。シオンを助ける。俺が出した証言で場所を割り出せた。手短に――救出して、この場を離れる」
仲間の選択が下されたのは、思いのほか速かった。ハルは朔夜を睨みつけたが、口を閉ざした。ミコトは小瓶を持って前へ出る。「私は彼を信じる。だって、今彼は私たちを導いている。昔のことは――あとで聞けばいい」
そう言ってミコトはハンドルを回し、階段を降りる。朔夜は胸の奥に残る穴を押し潰そうとしながら、一歩一歩を刻んだ。
地下二層の処置室は薄暗く、殺菌灯の光が白い床に斑点を作っていた。そこには収容台と鉄製の器具、そして数十枚の写真が壁に釘で打ち付けられていた。写真は顔の一部が切り取られ、番号が貼られている。朔夜の目にその一枚が止まった。そこに、かつて自分が確認した「数」の一つと同じ手のひらが写っている。
「なぜこんなことを」シオンの声が弱く漏れる。彼女は目をぎょろりと開け、朔夜の顔を探した。彼女の視線が朔夜に触れた瞬間、朔夜の中でひりつくような感覚が走った。彼女の痛みが、彼の能力を呼び覚まそうとする。それは救いへの最短路だが、同時に過去を押し流す波でもある。
シオンを抱きかかえようとした手が震えた。朔夜は一瞬だけためらった。もし彼がここで全ての真実を引き出してしまえば、シオンは確実に救えるだろう。だがその代償は、もう一つの記憶、もっと大切な何かを永久に失うことを意味する。
彼が選んだのは、中間の道だった。朔夜は声を限りなく低くし、独り言のように数を唱えた――しかし完全体ではなく、断片のみを取り出すための「欠片の数」。それは証言を弱め、出力を抑える方法だ。監視の機構を欺き、薬剤の追跡マーカーを一時的に乱し、シオンの拘束を外すのに十分な情報だけを抽出する。
証言はゆっくりと、囁きのように空気を満たした。シオンの手錠のカギが落ち、彼女の体が朔夜の腕の中で崩れそうになった。ミコトが素早く麻酔薬を注入し、シオンの体を安定させる。だが、朔夜はまた一つ記憶を失った。今度は、幼い頃に父が作ってくれた小さな舟の形が、ふいに消えた。指先に残る淡い感触までもが消えかけ、彼はその喪失を呑み込む。
その瞬間、電子音が断続的に鳴った。誰かが気づいたのだ。ログの赤い点滅が点滅から連続に変わり、アクセス異常を示すアラームが室内に広がった。閉ざされた扉に向かって無情な轟音が迫る。
「侵入発覚! 全区画封鎖――」遠くで自動音声が叫ぶ。鉄の扉が徐々に降りてくる。朔