死者を数える密偵は破滅の儀式を止める

死者を数える密偵は破滅の儀式を止める 第18話「第16章」

鉄のゲートが閉じる瞬間、空気が一度、低く沈んだ。塗料の剥げた鋲と鋼板の隙間から、湿った冬の風が滑り込み、群衆の息を震わせる。掲示板――軍が設置した大きな盤面――の数字が薄い光を吐き、黒字の縁が震えた。右端に掲げられた小さな窓枠の中で、白い数字が静かに零れる。001、002。音はしない。ただ、誰かの指先が空気をなぞるような、微かな拍子が場内を行き来した。

鉄のゲートが閉じる瞬間、空気が一度、低く沈んだ。塗料の剥げた鋲と鋼板の隙間から、湿った冬の風が滑り込み、群衆の息を震わせる。掲示板――軍が設置した大きな盤面――の数字が薄い光を吐き、黒字の縁が震えた。右端に掲げられた小さな窓枠の中で、白い数字が静かに零れる。001、002。音はしない。ただ、誰かの指先が空気をなぞるような、微かな拍子が場内を行き来した。

「漣(れん)、こっちだ」

舟井(ふない)の声が肩越しに刺さる。彼は古い革手袋をぎゅっと握りしめ、また放し、群衆の縁に身を潜めていた。楓(かえで)はすでに人波を割って前へと進んでいる。短いボブの髪が風に乱れ、頬にはつかの間の決意が張り付いていた。彼女は唇を震わせ、箱馬の上に飛び乗る。

「ここにいるわたしたちが、数をつけられるわけじゃない。あなたたちは、あなたたちの『選ぶ』を取り戻せる!」

軽いどよめきと、だれかの小さな拍手が零れた。拍手はすぐに亀裂をつくように消え入り、代わりに唇の震えが広がる。手のひらを必死に握りしめる老婦人の爪先が白くなり、若い男が目を泳がせ、子どもは母親のコートの裾にしがみついた。

軍の隊列が、静かに詰める。大佐のほうを向いた銃口が、楓の太ももを掠める高さで止まる。彼女は視線を背けなかった。眼尻に水が溜まるのを見つめたまま、低く言った。

「数えないって、声に出して言って。あなたのために私はここにいる。今ここで、声を出して」

漣は群衆の匂いを吸い込んだ。焼けた鍋の油、藁の乾いた匂い、誰かの薄めた香水。彼の掌の内側で、ひんやりとした感覚が走る。能力が騒ぎ始めている。人の「真実」を束ねるとき、彼はいつも指先に小石を持つような重さを感じた。今はそれが複数に増えて、胸の奥で爪が這うようだ。

「漣、証言を集めて。匿名でもいい。声を紡げば、あの盤面を押し戻せるかもしれない」

舟井の囁きは、実務的で冷たい。漣は頷き、前へと出た。群衆の中に手を伸ばす。人々は顔を伏せ、声を出すことを恐れている。だが楓が煽れば、ほんの僅かな勇気が伝染する。老人の喉が震え、二語三語を吐き出した。隣の若い男は付き合わされるように、「私は数えない」と繰り返す。言葉は小さく、豆のように転がった。

漣はその言葉を拾うために、手を伸ばさず、そっと耳を寄せた。彼の能力は触覚ではなく記憶の接合に近い。声の断片を、合法的な情実へと綴じ合わせる。白い糸のようなものが見えるわけではない。ただ、彼の頭の中で、異なる声が滑り込み、互いの輪郭をなぞり合う。証言が集まるほどに、彼の胸が締め付けられた。

「漣、急いで。盤面を――」

だが口に出す前に、彼は違和感に襲われる。束ねようとする一つの声が、引き出すたびに別の刃を胸に振り下ろす。記憶の欠片が、一つ落ちる。最初は小さなことだった。舟井の笑い声の裏にあった、古い池の匂い。次いで、漣は子どもの頃に言われた言葉の音色を、急に思い出せなくなる。言葉はそこにあったはずなのに、指先で掬えない砂のように零れた。

漣は息を呑む。手を伸ばしていた母親の形が、ふっと遠のいた。名前が、先端で震えながら消えかける。痛みが走る。彼は能力の代償を数えずに済ませたことを、今しがた後悔した。

束ねる作業を続ける。楓の呼びかけに応えた者の声が、漣の内で重なり、ある種の論理になる。軍の盤面を直接破るほどの法的効力はないが、群衆の証言をまとまった「証拠の塊」として提出できれば、公開の場での読替えを強いることができる。漣はその可能性に賭けた。

「ここにいる全員の声を——私は、数えない」

声の集合体が一つの輪になり、漣の中で固まる。金属の匂いと生肉の匂いが混ざり、頭蓋が奥からノックされるような痛みが走った。彼は舌の先に腐ったリンゴの味を感じ、視界の端が赤く滲む。記憶が引き剥がされるとき、肉体は必ず抗う。彼の手が微かに震え、掌の汗が革手袋に吸われる。

その瞬間、楓が踏みとどまった。軍の兵士が腕を伸ばし、彼女の肩を掴む。楓は振り返り、漣の方を見た。瞳に映るのは恐怖だけではない。小さな光があった。彼女は笑おうとして、それを飲み込んだ。誰かが叫び、押し合いが生まれる。楓の髪を兵士が一掴みにし、口を塞ごうとする。

「やめろ!放せ!」

漣は動いた。指先の感覚が断続的に切れる。彼は楓の腕を掴もうとしたが、手がスムーズに伸びない。脳のどこかが、重要な操作を忘れている。楓の名前が、スローモーションのように遠ざかる。彼は叫び声を出した。声帯は生きていたが、何かが言葉をつかさどる場所の回路が崩れていた。

「漣!」

舟井の声が再び割り込む。彼らの指先はつながり合い、楓を引き戻そうとする。だが兵士は冷たく、手慣れた動作で楓の手錠をはめた。群衆の叫びが一斉に上がる。板の隙間から、盤面の数字が一つ跳ね上がる。003。漣は胸を押さえ、身体が暖かくて冷たくなるのを感じた。記憶の穴が増えている。

「証言、まとまったはずだ。盤面を動かせ、漣」

舟井は言うが、その声は遠い。漣は集めた証言を盤面に向けるべく、群衆の中で声を拾い上げようとした。だが目の前にある光景が、彼の記憶の帳尻を一つ奪った。楓が連行されるとき、彼女の背中で小さく揺れたもの――それは子どもの頃に彼女がいつも持っていた布の端切れだった。その匂いと触感を、彼はどうしても思い出せない。ふっと胸に虚無が走り、彼は膝をつきそうになる。

盤面の前で大佐が読み上げる。冷たい声で、今日の「しめくくり」が宣告される。読み上げられる名前の中に、漣の胸がぎくりと締め付けられるものが一つ混じっていた。彼は、そこにあるはずの感情の位置を探ったが、手元は空白だった。誰かの名前が、紙切れのように無機質に空へ投げられる。彼はそのとき、不可視の帳がこの都市を縫っていることに気づいた。名前――声――それらがここではそろって「数」になる。声が与えられたとき、人は帳に書き込まれる。

漣が見たのは、盤面の縁に刻まれた小さな文字である。正確には文字ではなく、節目のような刻印。軍の技術者が作り込んだものではなく、もっと古い様式の象形だ。指先で触れてはいけないものに触れたときのような寒気が背筋を駆け上がる。

「数は、声で確かめられる。しかし、声だけでは終わらない」

彼の中で語りかけるものがあった。記憶の残滓が囁く。束ねた証言が、盤面のロジックに触れたとき、別の帳が開く。誰かの声を救済のために「強制」すれば、その帳は空白を埋めるために、別の帳を引き裂く。つまり、彼が今していることは、救済の列を一つ動かして、その反作用を別の場所へ押し付けることだと、薄い悟りが降りてきた。

楓が軍の車両に押し込まれる。手錠の金属音が、漣の耳の奥で長い尾を引く。彼女は振り返り、唇を動かした。言葉は聞こえない。だがその表情ははっきりしている。選んだのだ。逃げず、叫ばず、その場で誰かに拒否を促したのだ。

漣の胸に冷たさが落ちた。己の力が、仲間の選択を翻弄したのかもしれない。楓の瞳は、やがて硬く閉じられる。車両がエンジンを唸らせ、彼女を飲み込む。群衆の間に小さな拍手が零れる。手掌がぶつかる音が、途端に遠くなる。唇の震えは止まらない。

舟井が漣の肩を掴む。「今度はどうす