声を奪う魔導士は明日を選び直す

声を奪う魔導士は明日を選び直す 第18話「第16章」

夜は厚く、風もなく、火の匂いだけが街路に漂っていた。遠くの丘の向こうで 白帽(しろぼう)と呼ばれる監視隊のホイッスルが三度、冷たく鳴った。レン・アズマは石の屋根の縁に座り、手袋越しに掌(てのひら)を確かめた。そこには小さな瘢痕がいくつかあるだけで、だがそれがまた自分の身体だという実感が薄れていた。昨夕、声を紡いだあとに消えた記憶の跡が、まだ白く疼く。

夜は厚く、風もなく、火の匂いだけが街路に漂っていた。遠くの丘の向こうで 白帽(しろぼう)と呼ばれる監視隊のホイッスルが三度、冷たく鳴った。レン・アズマは石の屋根の縁に座り、手袋越しに掌(てのひら)を確かめた。そこには小さな瘢痕がいくつかあるだけで、だがそれがまた自分の身体だという実感が薄れていた。昨夕、声を紡いだあとに消えた記憶の跡が、まだ白く疼く。

「行く。狭間地区は先に潰される」セラの声が、黒い布越しでも刺さるように聞こえた。彼女は双眼鏡を肩に掛け、暗がりを覗き込んでいる。カイは刀身を濡らしただけで黙っている。ミコトだけが、手に小さな燭台を持ってぼんやりと燃え残る青い炎を見つめていた。

屋根伝いに滑り降りると、下はすでに混乱の海だった。家屋の隙間から人々が逃げ惑い、子どもの泣き声、男たちの怒号、犬の吠え声が幾重にも重なっていた。その渦の中で、ひとつの声が鋭く引き裂かれるのをレンは体感した。彼が掌を差し出した刹那、空気が洗われるように静まり、涙の音がふっと消えた。目を開けば、細い銀糸のような光が掌の上に浮かんでいた。それは掻き集められた言葉の断片で、震える子の証言、貧母の息、火を噴く樽の位置を示す座標、すべてが冷たい糸に巻かれている。

「声紡ぎ。早く」セラの呟きに促され、レンは糸を丁寧に束ねた。声音は無機質な金属音に変じ、薄い紙片のように折りたたまれていく。術式を解くたび、心の奥の棚が一枚ずつ落ちるような感覚があった。前回と同じだ。記憶を一片捨てる代わりに、誰かの真実が現れる。だが今夜は数が多い。被害者が何十人とひしめく狭間地区では、紡ぐごとにレンの世界が削られていった。

こどもの証言、一人の男の怯えた歌、床に残った血の熱さ。レンはそれを収めながら、ふと自分の姉の笑顔を思い出そうとして手が止まった。だがその像はすり抜け、代わりに小学校の校庭の滑り台の色だけが、断片として残った。「姉の名が……」口の中で言葉が途切れた。舌先にあったはずの音が欠けている。

「レン、大丈夫か?」ミコトが静かに寄り添う。彼女の瞳は祈るように穏やかだが、どこか強い。レンは首を横に振り、また紡ぎを続けた。被害者の証言は冷たい連続写真のように胸に刺さり、レンはそれを灯台のように集めていく。灯りは増えれば増えるほど、彼の記憶は霞む。それでも、ひとつでも多くの声を外に出せば、誰かの「明日」は変えられる——そう自分に言い聞かせて。

屋根の裏手で爆音があがり、監視隊の火炎放散器が路地を洗う。レンは糸の束を懐に押し込み、無言で走った。路地の片隅で、エリオという男が息を切らし、壁にもたれていた。彼の服は焦げ、片腕に切創が走っている。赤い瞳でレンを見上げたその表情は、怒りでも哀しみでもない、諦念だった。

「助けてほしいか?」レンはいつもの問いを口にした。能力を使う前に確認する。無理に救済を押し付けないための、最後の一礼。

エリオは唇を噛んで長く沈黙してから、低く言った。「いや。助けられたくない」

言葉がレンの耳に突き刺さった。辺りはまだざわめいている。救われたくない──その一言は、彼の織ってきた理屈に穴を開ける。レンは糸を掌で温めながら、目を細めて尋ねた。「なぜだ。君はここで死ぬつもりか?」

エリオの笑いは喉を掠めて、砂利のようにざらついた。「死なんて選ばんさ。けど、レン、君の“救い”がどんなもんか見ただろう? 声を取られてしまえば、その人の言葉はもう他人のものになる。君は良かれと思って巻く。だが巻かれたら、その人は救済の名の下に生き方を差し替えられる。家族の思い出さえ、君の糸の中で形を変えてしまう。俺は、それを受けたくない」

冷たい風が通り、レンの掌の糸がしなった。彼は無意識にその糸を固く握り締め、紙の束が寄り切れて小さな裂け目が走った。裂け目から漏れ出た静寂が、周囲の音をまた一瞬で奪った。エリオの声だけが、不思議とそのまま残った。

「でも真実が──」レンが言いかけた。

「真実は誰のものだ?」エリオが遮った。「君の糸の中の真実か? それとも俺の胸の中の真実か? 俺の痛みを、勝手に『救済』という形にして外へ晒すな」

レンは答えられなかった。その瞬間、遠方の広場で鐘が鳴り、街の放送塔が低く唸った。セラの声が耳元に割り込む。「レン、監視網がこっちを捕捉した。放送塔が――我々の周波数に合わせている!」

ミコトの手がレンの腕を掴む。「強制的な救済は、追跡の標になる」彼女の声は震えていない。だが目は恐れている。

「どういうことだ?」レンの頭がうまく回らない。昨夜の欠片が、いきなり抜け落ちるように思える。手帳を取り出し、赤いインクで慌ててメモした。だが行を埋めるはずの文字は、いつの間にか薄くなっている。インクが血みたいに滲み、頁に黒い輪が広がった。

「聴いて」セラが息を詰めて報告する。「君が取り込んだ声に、『印』を刻む技術があった。審声局が新たに導入した。『声標(こえしるし)』。強制的に救済を行った際に生まれるエネルギーの波形を捕捉して、逆に増幅する。取り込まれた声が公共放送に乗り、歪められて流される。被害者の証言をねじ曲げて、我々を悪者にするんだ」

放送塔から、歪んだ人声の断片が流れた。レンの手の中で、先ほどまで温めていた糸束が冷え、また一個の記憶が消える感触がした。だが声は明瞭だ。自分が収めたはずの、震える母の言葉が、敵の口を借りて悍ましく編集され流れている。

「彼らは、君の儀式そのものを利用する」ミコトが言う。「無理に救済すればするほど、我々が狙われる。君の術が逆手に取られるんだ」

レンの腹の中で何かが切れた。これまで彼が「真実」を武器にしてきたすべてが、いま敵の武器に変じている。自分の掌の中で、誰かの最期の言葉が絞られ、嘘の形で広場を満たす。それは、救いたかった人たちをさらに危険に晒すことを意味していた。

エリオがゆっくり立ち上がる。腕の切り傷を押さえながら、まっすぐにレンを見た。「だから言っただろ。救われたくない者もいる。救済を『受ける』という選択を奪うな。君はいつの間にか、救いを押し付ける方になっている」

レンは口を開いたが、言葉は出なかった。昨夜までの自分なら、何かしらの論理で反論していただろう。だが今は、記憶の棚が抜け落ち、感情だけがむき出しにうごめいている。彼は掌を見た。そこには、もう自分の姉の名を書いたはずの紙片がない。代わりに、ミコトの指の先に僅かな赤いにじみが見えた。

「選択を与えるんだ。救済じゃなくて、選ぶ機会を」ミコトが囁く。「我々は今、二つの敗北を同時に経験している。人々の声を奪い、そしてその奪った声を敵に奪い返されている。次に我々がすることは——」

背後で、広場のスピーカーがまた震えた。そこから流れ出したのは、レンが今夜収めた証言のうち幾つかを切り貼りした、敵の編集版だった。声は「救済を拒む者は匿われるべきではない」と繰り返す。文脈を切り取られ、論理をねじ曲げられた人々の言葉が、洪水のように街を満たしていく。

レンは立ち尽くした。掌の糸束はひとつ、ぽとりと崩れ落ち、薄い灰の粉のように風に散った。あの日の笑顔も、幼い頃の風鈴の音も、紙の束のどこにも残っていない。代