声を奪う魔導士は明日を選び直す 第14話「第一部幕間」
夕暮れの石畳に、まだ声が残っている者とすでに負けた者の境界が薄く浮かんでいた。喉元を押さえるように咳をする者の口は動き、息遣いだけが宙に溶けていく。街灯の下、唇の縁が蛍のように光るが、音は零れてこない――そんな光景を見渡しながら、セイは静かに両手をすり合わせた。
夕暮れの石畳に、まだ声が残っている者とすでに負けた者の境界が薄く浮かんでいた。喉元を押さえるように咳をする者の口は動き、息遣いだけが宙に溶けていく。街灯の下、唇の縁が蛍のように光るが、音は零れてこない――そんな光景を見渡しながら、セイは静かに両手をすり合わせた。
昨日、広場で起こした「声の束」――あれは成功だった。人々の自発した証言を一本に編んで、真実を露わにした。兵士の暴行は、兵の言い分と符号しない「視覚」となって群衆に見えた。だが、その代償は確かに払われていた。胸の奥にあったはずの、温かい台所の記憶が、じわりと薄れている。セイは掌のひらを胸に当てて、そこから抜けてゆく匂いを探したが、そこには塩けた金属の味だけが残った。
「セイ、来い。話がある」ガロウが背後から声をかける。元巡査の肩には夕日の赤が落ち、顔には疲れが刻まれていた。彼はいつもより乱暴に歩幅を合わせ、石の縁に腰を下ろす。
「分かってる。来てるよ」セイは短く答え、握った手を少し緩める。掌の感触が薄く、指先に残るはずの指輪の凹みすら、記憶の縁から滑り落ちかけているのを感じた。
ガロウはリナの方を向いた。保存職人のリナは、肩から箱を抱えて来ていた。箱の蓋は布で覆われ、その端からこぼれる紙の匂いが風に混じる。彼女の手は震えていなかったが、その瞳には確固たる焦りがある。
「見つけたわ。沈黙登録の原綴――」リナの声は小さいが確かな。彼女は箱を開け、薄れた紙束を丁寧に取り出した。そこには細かな筆致で、名と号、刻印の列――声を国家が扱うために編まれた台帳が並んでいる。インクの匂いが擦れた頁の間から立ち上る。
セイは息を呑んだ。台帳は存在すると、彼らは確信を得ていた。だが、その証明に手を伸ばす方法が問題だ。台帳の情報を公にするには、そこに記された当事者の同意が必要だというのが、エリカの研究で示された制約だった。だが「同意」は硬直した行政の仕組みの中で形式化され、押されて行使されない。
「どうやってこれを……」ガロウが言いかけて、言葉を切った。指先で一枚の頁をなぞると、インクの線が浮かぶように見えた。それはまるで声の痕跡が紙面で震えるかのようだった。
「破るなら、形式的にでも当事者を立てる必要がある」エリカは、日没の残光を受けて本を抱えながら淡々と言った。教義研究者の彼女はいつもと変わらぬ冷静だが、その瞳は深く暗い泉のように底を覗かせている。「無理に声を奪うことは、セイの力の禁止事項だ。死者を呼び戻すことも、記憶を改変することもできない。ましてや、同意のない人々の声を引き出せば、呪いは必ず跳ね返る」
「跳ね返るって、どう跳ね返るんだ?」リナの指が頁を押さえた。腕に入った力は、箱ごと震えるほどだった。「前回だって――セイが一気に束ねたとき、近くにいた人の声が消えた。ユウナの声が……。あれは――」
セイの胸に痛みが寄せる。その名前を呼んだとき、もう一つの何かが消えかけた。ユウナの顔が――幼い、あの笑みが、彼の頭の中でぼやけていく。台所の鍋の柄、木の匙のひび、母の肘の角度。消えたものを掴もうとすると、指先から紙のように滑り落ちた。記憶が薄れるたび、身体の奥に冷たい水が注がれ、そこが痺れる。
「ユウナのことは悪かった」セイは低く言った。「でも、俺はあの時やるしかなかった。奴らの監視兵を前に、あのまま黙っていてはもっと多くの声が失われる」
ガロウは唇を噛む。「ああ、分かる。だが……」彼は拳を握り締め、長い沈黙の後に続けた。「次は違う。俺たちは強奪しない。だが、選択を強いる方法もある。役人を説得する。台帳に記された人々の登録を自ら破棄させる。だがそれには、当事者が自分で登録を『無効にする』と宣言しなければならない。そうならない限り、文書は国家の盾になる」
「宣言させる?」リナの目が鋭く光る。「そんなの、どれだけの人ができる?脅し、懲罰、失業の恐怖。表に出るのは、壊された者の中でもほんの一握りだわ」
エリカが口を挟む。「少なくとも、台帳の構造を解読すれば、働きかける場所は見えてくる。誰が登録を更新しているのか、誰が押印をしているのか。私には一人、接触可能な内部の書記がいる。名前はセバス。彼は表立っては忠実だが、夜には別の記録を扱っているという。もし彼が心変わりすれば、形式的な同意を取ることが可能かもしれない」
セイは箱の脇に腰を下ろした。冷えた石の感触が背中を伝い、彼のなかの記憶の薄れを一層鮮明にした。彼は手のひらを見つめ、そこに刻まれつつある空白を、まるで穴のように感じた。
「だが、彼が裏切ったと分かれば、国家はすぐに罰を与える」ガロウが短く言った。「我々は証拠を持っている。だが証拠を使うタイミングを間違えば、街中がまた沈黙に飲まれる」
リナが箱から一枚の紙を取り出し、セイに差し出す。紙の片隅には小さく、滲んだ血のような染みがあった。そこには一行だけ、手書きで「選べるはずだった」と書かれている。
「これは……誰の?」セイは聞いた。
「登録者の一つ。子どもの落書きみたいだけど、署名は成人のもの。彼女は昨日、イベントで自分の体験を話した。気持ちは固かった。だが、台帳の正式な抹消を自ら行うことができるかは別問題だ」リナの声が小さく震えた。「私、彼女に会ったの。言葉の端々に遠慮がある。『これを選んだら家族が』って」
エリカは眉を寄せ、紙を受け取ると静かに続けた。「もしセバスが同意してくれたとしても、彼を説得する材料が必要だ。台帳そのものの在り方を暴くこと。だがそれには、セイの力をどう使うかだ――あなたが『束ねる』ことで、書記の内側にある矛盾を明らかにできる。しかし、前と同じやり方では、記憶がまた一つ、二つと失われる。もっと悪くなれば、救いたい人々の声が逆に消えることになるかもしれない」
セイは唇を噛んだ。能力の感触が手の中にまだ残っている。声の糸を編んだとき、彼は熱と冷気を同時に感じた。糸が光るほどに、自分の内側から記憶が吸われていった。光が強ければ強いほど、吸引は深い。彼は自分の過去を、一枚ずつ切り取られていくように感じている。
「それでも、選び直すためには動くしかない」ガロウが渋く言った。「やり方は二つ。夜に台帳を物理的に奪う――そこに記載された印影を破る。あるいは、セバスを口説いて形式的な抹消を行わせる。どちらもリスクがあるが、物理的に奪えば即効性はある。だが、その代償は我々が背負うことになる」
セイは立ち上がり、闇に伸びる自分の影を見た。影はのっぺりとしており、輪郭の一部が消えかけているのが、彼の目には映るようだった。それは気のせいではない。自分の輪郭を構成しているものが、確かに薄れていた。
「俺は……」セイは言葉を探した。「あの子たちが、夜も安心して寝られる『明日』を選べるなら、俺は何かを失ってもいいのかもしれない。でも、その『何か』が、俺の中にある『選ぶ理由』そのものを奪うなら、意味がなくなる。ユウナの笑顔を思い出せなくなるなら、俺が何のために戦っているのかも分からなくなる」
リナが箱を閉める。彼女の手は確かで、その動作に迷いはなかった。「じゃあ、選択をしよう。私たちで考えるの。力を一気に使うのはやめる