声を奪う魔導士は明日を選び直す

声を奪う魔導士は明日を選び直す 第13話「第12章」

塔の頂に立つ祭壇は、夜風に擦れる旗の布地のざわめきだけを受け止めていた。鉄と硝子で組まれた塔身は、下層の街灯りを断ち、上空の暗闇に溶けている。遠くからはまだ爆ぜる火と、踏み鳴らす靴音が聞こえてくる。だがそのどれよりもはっきりしていたのは、無数の口が閉ざされるときに生まれる「欠落」そのものの静寂だった。

塔の頂に立つ祭壇は、夜風に擦れる旗の布地のざわめきだけを受け止めていた。鉄と硝子で組まれた塔身は、下層の街灯りを断ち、上空の暗闇に溶けている。遠くからはまだ爆ぜる火と、踏み鳴らす靴音が聞こえてくる。だがそのどれよりもはっきりしていたのは、無数の口が閉ざされるときに生まれる「欠落」そのものの静寂だった。

「ここまで来るとは、なかなか愉快だな、魔導士レン」──宰相ベルテはゆっくりと歩を進め、手にした紋章を掲げた。紋章は暗い光を吐き、それに触れた空気が膨らむように重くなった。無声隊の甲冑が一斉に息を止め、周囲の声は薄くなった。塔の麓で広がっていた旗の波は一瞬にして色を失い、灰色の幟が一列に並ぶ。

レンは振り返らずに言った。「ここで私がするのは、奪うことではない。選ぶための場を作ることだ」

ベルテは笑った。「選択だと? お前は選択を『作る』だと? 選べるのは我らの許しだけだ。声は秩序の印だ。それを返すということは、混乱を返すことだ」

塔の周縁には、仲間たちが息を切らして集まっていた。ミオは旗を握り締め、指先に血が滲んでいる。ハルクは装甲の縫い目に手を当て、かすれた呼吸を整える。シナは懐に押し込んでいた小さな箱を開き、そこに入った銀の懐中時計を見つめた。その時計は、かつて彼女が王府と取引した証のようなものだった。彼女はそれを地に落とし、ベルテの前に蹲るようにして差し出した。

「私がしたことは消えない。だが、これ以上他人を守るために嘘を重ねたくはない」シナの声は震えていたが、そこに迷いはなかった。兵たちの目が揺れる。誰かが自然と息をついた。声の一部が戻ったように感じられた。

ベルテの顔に軽い苛立ちが走る。「好都合だ。裏切り者が一匹。これで示しがつく」

彼は紋章を振るうと、紋章の触れた空気に銀色の糸のようなものが浮かび上がった。それは音を掬う糸で、触れた者の声を吸い上げて巻き取る。レンはその糸を見て、歯を噛んだ。

「やめろ!」ミオが叫んで前に飛び出した。糸は彼女の胸元を掠め、しかしレンは咄嗟に手を伸ばした。掌から、彼女の能力の残滓が溢れ出した。呪いが見せる残酷な断片──裸足で逃げ惑う子供、縛られた喉、証言の煙のように漂う真実──が、レンの内側から外へと引き出される。銀糸がその真実を掬い上げ、糸の芯に織り込まれていく。

糸は震い、そして崩れた。ベルテの紋章が火花を散らす。無声隊の一角で、何人かが肩を震わせ、涙を流す者がいた。声の何かが戻ったのだ。しかしその直後、塔の端で、旗がひとつだけ、色を失って落ちた。風がその落下を拾うと、レンの足下になにかが滑り込むような感覚がした──ああ、と吐息が漏れた。レンは咳き込み、記憶が一片、掻き落とされていくのを感じた。

「母さんの匂い……」と言いかけて止まった。言葉が喉に残らない。彼女は指先でこめかみを押さえる。頭の中で、ほんの一秒前まで確かにあったはずの景色が、砂のようにこぼれ落ちていく。幼いころに一緒にいた家の台所、母が焼いたパンの焦げた端の味、ミオが最初にくしゃっと笑ったときの声の高さ──それらが一つずつ薄くなる。

「レン、大丈夫か?」ハルクが駆け寄り、彼女の肩を掴む。レンは目を瞬かせ、ハルクの手の温かさを感じながらも、それが誰なのか確信できなくなる瞬間に襲われる恐怖を抑えた。

レンの能力は、真実を纏わせて人々の証言を確かにすることで、制度の嘘を裂く道具になる。だがそのかわりに、彼女の中の『守るべき記憶』が代価として払われる。さらに悪いことに、強制的な救済──つまり無理に声を取り戻させるような介入──は呪いの反発を招き、無差別に声を奪う波を広げる。レンは幾度かそれを経験してきた。だから彼女は叫ぶような行為を避け、選ばせる場を創ろうとしていたのだ。

ベルテが鼻で笑う。「お前一人の記憶の値段で、何ができるというのだ。政を乱す者は刃に倒れるべきだ」

塔の底から、群衆の声が沸き上がる。これまでの戦いで、各地区に立てられた色の旗が、今日のために戻ってきたのだ。赤、青、緑、黄──それぞれが異なる選び方を示す。だがその旗の鮮やかさが、ベルテの紋章の前で薄らいでいくのをレンは感じた。

レンは深く息を吸った。思い出は確かに消えていったが、手の中の感覚だけは残っている。能力を発動するたびに彼女の体は痩せ、熱を帯び、そして何よりも何かを抱えているという感覚を失っていく。だが今は、最後の一線を引くときだ。

彼女は呪いの糸を見つめ、呪いそのものに呼びかけるように呟いた。「聞け。お前が世界を縛る鎖なら、私はその鎖を解く鍵を作る。人々に返せ、選ぶ権利を」

呪いの視線が返ってきた。塔の周りを漂っていた記憶の欠片が、レンに吸い寄せられるように集まる。光のように見えた記憶は、口語の断片、匂い、触れ合った手の震え、笑いの音、すべてが細い糸になって彼女の胸を通り抜ける。彼女はそれらをつかみ、ゆっくりと紡いでいった。それは強制ではなかった。噛み砕かれた真実の断片を、当事者たちの名前と結びつけ、そこに意志を宿らせる作業だった。人々は自分たちの言葉を持ち、それを用いて選ぶことができるはずだ──レンはそう信じていた。

声の帯が空に舞い、塔の頂をぐるりと包んだ。ベルテの紋章が揺れる。無声隊の甲冑が光を反射してちらついた瞬間、多くの顔が歪んだ。ある者は涙をこぼし、ある者は笑った。誰かが自分の子供の名を叫び、すぐに笑い声に変わった。塔下の広場で、人々が旗を差す手を固くした。

だが――レンの胸から、最後の大きなものが抜け落ちた。その瞬間、隣にいたミオが叫んだ。「レン! しっかりして!」

レンは膝をついた。目の前がぼやけ、世界のエッジが鋭く切り取られる。彼女は懐にあるはずの小さな皮の印章を探した。それは、幼い頃の契りの印で、忘れてはならない人の名を書いた小片の刻印だ。指先で触れるが、そこに刻まれた名が読めない。印章の文字がぼやけ、意味を成さなくなっていた。

「記憶が……」ハルクの声が遠い。だがそのとき、塔下から歓声が上がった。旗が一斉に掲げられたのだ。色とりどりの布が風に翻り、祭壇をぐるりと囲む。人々は誰かに促されるまでもなく、自らの意志で旗を掲げた。強制ではない。自発の選択だった。

ベルテは噛みつくように叫び、手にした紋章を振った。銀糸の束が再び伸びようとしたそのとき、無声隊の一人が膝を折った。彼はもと無声の一員であり、先の戦闘で一瞬だけ声を取り戻した者だ。彼の手に、かつて彼の母が作ったという小さな布人形が握られていた。彼は口を震わせ、低い声を出した。「……選ぶ。俺は、選ぶ」

その声が合図だった。無声隊の甲冑の間で、次々と息が戻り、誰もが口を開き始めた。強制の連鎖は切れ、紋章の力は弱まった。ベルテは顔を青ざめさせ、紋章の光が鈍くなる。

塔の上で、レンは手の中の残り少ない断片を見つめた。彼女は何か重要なものを払った。守るために払ったのだが、それが何だったのかを忘れたことで、彼女自身の「守るべき対象」が曖昧になっていた。ミオの目が彼女を覗き込み、何かを言おうとする。レンは微笑んだつもりで、微かな違和感を抱えながら頷いた。誰かが彼女の手を握ると、かすかな電気のような感触が残った