記憶を凍らせる薬師は自分の罪を数え直す

記憶を凍らせる薬師は自分の罪を数え直す 第10話「第9章」

冷気が床を這うように広がっていた。石造りの回廊は、数え切れない足音と祈りの残滓で飽和し、息をするだけで薄い白い煙が生まれる。中央に据えられた祭壇のような台座——そこから、氷の円盤が積み上げられていた。層ごとに薄い膜のような記憶が閉じ込められ、光を透かせば誰かの最後の声や、子どもの笑い声、薬の瓶が落ちる音が層間に揺れる。祭壇の周囲では白衣を纏った者たちが黙々と作業を続け、患者の頭部から伸びる冷光の糸が氷盤へと吸い込まれていく。

冷気が床を這うように広がっていた。石造りの回廊は、数え切れない足音と祈りの残滓で飽和し、息をするだけで薄い白い煙が生まれる。中央に据えられた祭壇のような台座——そこから、氷の円盤が積み上げられていた。層ごとに薄い膜のような記憶が閉じ込められ、光を透かせば誰かの最後の声や、子どもの笑い声、薬の瓶が落ちる音が層間に揺れる。祭壇の周囲では白衣を纏った者たちが黙々と作業を続け、患者の頭部から伸びる冷光の糸が氷盤へと吸い込まれていく。

「ここが……」カイが低く息を吐く。暗闇の中で、彼の声だけが乾いた紙を擦る音のように聞こえた。リラは額に汗を滲ませながら、目を細めて祭壇を見つめる。ナドは携えた帳面に触れようとして、手が震えた。ページの端に残るインクの匂いが、馴染みのある安心を呼び起こすはずなのに、その感覚が輪郭を失っていく。

ユエンは一歩前に出た。掌が冷たくなり、指先にだけ薄い白い霜が寄る。能力が起動する前の恒常的な前触れ──記憶の温度が下がる感覚だ。彼女は吐息を整え、氷盤の縁に手を触れた。氷は生きているように微かに脈打ち、触れた箇所から淡い光が指先まで逆流した。

「ナド、ここから読み取れる証言を、順に──」ユエンは言った。声にいつもある強さが滲む一方で、どこか抑えられた悲しさが混じる。彼女の力は、氷に封じられた「真実」を一つに束ねる。束ねれば束ねるほど、暴かれる真実は強力な武器になる。だがそれは同時に刃であり、切っ先は持ち主と、なぜかナドの記録に向かう。

ナドはうなずいて、帳面を前に差し出した。彼の指が震える。インクがにじんだ頁の余白に名前を書くはずの筆が、訝しげに止まる。

「ミーナ……ミーナって、なんだっけ?」ナドがぽつりと呟いた。最初は薄い笑い声だった。次の瞬間、声が詰まる。目に小さな光が宿り、すぐ消えた。

リラが振り向く。「何を言ってる。ナド、聞こえるか?」

「覚えているはずの音、名前——忘れた。あの、子の名前だ。手が、説明できない」ナドの声が細くなった。彼はポケットから小さな布を取り出した。そこには色あせた刺繍が施してあり、ユエンとナド、リラ、カイのそれぞれが以前見たことのある紋章が縫い留められていた。ナドはその模様に指を滑らせるが、どんな意味があったのか思い出せない。指先が迷子になるように布地を撫でる。

ユエンは咳払いをして、もう一度氷盤へ手を伸ばした。彼女が念を込めると、氷の層のひとつが薄く振動し、中の映像が活性化した。祭壇の上空に、淡い映像が浮かぶ。赤ん坊の手、母親の歌声、無数の薬瓶が棚に並ぶ光景。誰かが笑い、誰かが泣き、ナドが今失っているはずの「ミーナ」という名が、小さく、しかし確かに囁かれた。

映像が終わると同時に、場内の空気が変わった。祭壇の職員が一斉に手を止め、顔を上げる。光がきつくなり、氷盤の一段が吸い込むように厚みを増した。ユエンの胸の奥に、重い鉛が落ちるような感覚が走った——彼女の能力が「救済」を強制したとき、呪いは応酬する。氷盤が応える。

「ユエン、やめて!」リラが叫んだ。彼女はユエンの腕を掴んで引き離す。二人の間で、力と信念の押し合いが起きる。ユエンの瞳は怒りと決意に光っていたが、その瞬間、彼女の脳裏に浮かぶはずのある記憶が曖昧に霞んだ。夜の市場、薄茶色の髪の子どもの笑い。目の前が一瞬、白く霧がかかったようになり、彼女は言葉を失った。

リラは息を荒げ、足元の氷に気づく。祭壇から伸びる霜の糸が床を伝い、彼女たちの方へ這ってくる。ある若い女性の髪飾りが氷に触れた瞬間、その女性は驚愕の表情を浮かべ、手で頭を押さえた。目からは白い蒼い光が溢れ、氷の粒子が彼女の記憶をまるで蝋を剥がすように削り取って、空中の薄い球体として飛ばしていく。球体は祭壇の中央へ吸い込まれ、層として積まれていった。

「治癒は救いだと、あれほど言っていたのに……」カイが低く言った。彼は施設の内情をある程度掴んでいたが、実際に目の当たりにするのは別の衝撃だ。氷盤が積み上がる音は、低い鐘のように回廊に鳴り続ける。機械的な作業音、祈りの節回し、そして氷が重なる音が複雑に混じり合った合唱は、この場所の正体を露わにしていた。

ユエンは動かないでいた。能力を使えば使うほど、証言は集まる。だが同時に、誰かが奪われる。今日の現場が見せているのは、それが偶然でなく制度的な仕組みであるということだ。彼女が氷盤に触れれば触れるほど、ナドの顔から記憶の輪郭が消えていく。彼の帳面に書く文字は線を失い、彼自身が何を書こうとしていたのか忘れる。ナドはふ、と息を吐き、瞼を押さえた。

「これが、奴らの——」ナドの声が途切れる。リラが苛立ちで歯噛みする。

「ユエン、証言を集めるのはわかる。だが人の記憶を奪ってでも? それはここのやり方と変わらない」リラは食い下がる。周囲の白衣たちが注意を払う。祭壇の監視者の一人が、疑い深そうに三人を見下ろした。

ユエンの口元が震える。「私がやらなければ、あの声は──隠蔽される。証言が散ってしまえば、誰も信じない。私は、罪を数える。私の罪を、正しく数え直したいだけだ」

「でも、ナドは?」リラが指を突きつける。指先がナドの胸の方へ向かうと、彼は慌てて筆記具を取り出したが、文字が踊る。ナドの瞳が濁り、小さな溜息が彼の唇から漏れた。そこにいる全員の心臓が、同じ音で一拍増える。

祭壇の監視者が下へ向けて咳払いした。静かな声で命令する。「ここは公共の治癒の場だ。静粛に。貴様らは何者だ。規定に従わぬ行為は規制対象となる」だが彼らの声はどこか震えていた。氷盤は新しい層を得るたびに輝きを増し、冷光が顔の皺を浮かび上がらせる。

ユエンは小さく唇を噛んだ。彼女はナドの方に目を向ける。ナドの顔が、少し色を失っている。記録係として選んだナドは、最初から代償を受けやすい体質なのかもしれない。だがユエンには、選択肢がないようにも思えた。彼女は祈るように手を合わせ、最後の力を振り絞って氷盤へ疑問の糸を差し込んだ。

「出てこい。誰が、誰を、何のために──」ユエンの言葉が何重にも重なり、氷の層を震わせる。氷内部の記憶が解け、声が一つずつ実体化して部屋を満たした。ある少女は、自分の子を救うために治癒を受けたと話す。ある老人は、治癒の恩恵を受けたと信じていたが、実際は思考の一部を切り取られていた。語りの連鎖は止まらない。証言は強く、暴力的に現実を裂いていった。

その瞬間、祭壇の中央にある一段が異様に膨らんだ。氷盤から放たれる光が、より鋭く、より近づいてくる。冷気が突風となって回廊を吹き抜け、白衣の者たちの目が一斉に見開かれた。周囲のモニターがざわつき、警報が低い音で唸る。氷盤は、ユエンの強制が「救済の保証」を脅かすトリガーとして作用したのだ。

「やめろ、ユエン!」リラの叫びが空気を裂く。だが遅かった。氷盤の一層が、床を伝って彼らの足下へと伸びてくる。若い看護師が悲鳴を上げ、彼女の目が徐々に白濁する。氷の粒子が宙を舞い、その中に浮かぶ数枚の薄い頁が、まるで本当に紙が凍るようにバラバラと舞う。

カイが決断した。彼はリラの言葉を無視して、一気に祭壇へと走った。ユエンは驚いて彼を制止しようとしたが、カイは後ろ