星を落とす傭兵は王国の嘘を暴く 第1話「序章」
赤い雨が降っていた。
赤い雨が降っていた。
空から落ちるそれは、雨粒ではなかった。燃えるように赤く、光る欠片が断続的に降り注ぎ、瓦礫の山に当たるたびに小さく弾けて灰と匂いに変わる。辺境の村、ロウネの夜はその光で断続的に昼へ引き戻されるように明滅していた。木造の家屋が軋み、屋根の一部が崩れる。遠くで誰かが断末魔を上げ、犬が鳴き続けている。星が落ちる。――そう呼ばれてきた現象が、この村を裁定していた。
「――ここにおるのか、クソッ」
カイは、黒いマントを振り払って瓦礫の隙間に体を滑り込ませた。傭兵の体は火と灰で熱せられ、鎧の縁が頬に食い込む。彼の右手は血で滑り、左手で細い体を抱き上げる。小さな女性だ。顔面に土と炭の混じった血が固まり、唇は紫色に震えていた。彼女は呼吸が浅く、眼の焦点は遠い。
「――証を、持って――」
その言葉は掠れた呪文のように聞こえた。彼女の手に何か棒状のものが握られているのが見えた。焦げた木片に鉄の輪が打ち込まれ、輪には細かな刻印がある。カイはそれを取り上げると、女の指先が彼の手を掴んだまま離れた。彼女の掌は冷たく、爪の間に土が詰まっている。
「名前を……。言うて……」
「大丈夫だ、ここから出る。しっかりしてくれ」
言葉は空虚だった。周囲には赤い光の粒が降り続け、瓦礫の隙間から黒い煙が立ちのぼる。カイが女の額に手を当てると、硬い衝撃が胸を貫くように――視界が裂けた。音が消え、代わりに複数の断片が一斉に差し込んできた。
声が一つになる。
「裁定だ。裁定だ。王の裁定に従え――」
「わたしの子を……奪われた」
「彼らは来た。夜の祭礼で星を落とすと言っていた」
「印を打ち、火を落とし、取り出す。裁定を示すために」
「――母さん、ここは痛いよ」
「助けてくれ、助けてくれ、助けてくれ」
それは女の口から出た声ではない。瓦礫の中、遠い軒先、空の上。何人もの断片化された記憶が、渾然一体となってカイの内側で結びついていく。映像が目の裏で動き、ばらばらの時間が一度に押し寄せる。黒い布に覆われた者たちが儀礼的な動きをし、鉄の小片が何かの台座に叩き付けられ、子供の泣き声が消える。焼け焦げた紙切れに、王家の紋章のような紋様が赤く滲んでいる。複数の声、複数の視線、複数の時が「証綴り(あかしつづり)」のように縫い合わされ、ひとつの"証言"へと戻っていった。
カイは息が詰まるのを感じた。胸の内が冷たく包まれ、手に握る木片の輪が熱を帯びる。女は静かに笑ったような顔で彼を見て、そのまま目を閉じた。呼吸が止まるのを彼は手で確かめた。瓦礫の間にある雑草の匂い、焼けた薪の匂い、そして鉄の匂いが混ざる。
「証は……ここに」
彼は無意識のまま呟いた。証が何であるかは説明が要らないほど直感的に理解していた。見た断片を繋ぎ直し、当事者たちの声を取り戻す作用。だが、それは誰にでも開かれた力ではなかった。カイにはそれが起きたのが初めてだった――起こるべくして起こった、とでも言うべき必然のように。
背後でくぐもった叫びがして、瓦礫の向こうから小さな手が覗いた。煤で汚れた少女が顔を出し、眼が血走っている。カイはとっさにその手を掴み、引き出した。少女の髪には赤い粉が絡んでおり、彼女の胸は細かく震えていた。
「助けて! お母さんが――」
「今行く、今助ける!」
カイは少女を抱えて立ち上がり、瓦礫の外へと走り出した。だが地上に出た途端、空から降る赤い欠片が一層激しくなり、鋭い光の矢のように振るい始めた。少女を庇いながら、カイはとっさに地面に倒れ込み、抱えた体を自分の胸の下に隠す。粉のような星屑が彼らの周りで弾け、小さな火花が少女の肩を撫でた。
「やめろ! やめろ!」
彼の叫びは空に吸い込まれ、代わりに辺りの炎が一つ、また一つと燃え上がっていった。見上げると、赤い光が渦を巻くように落ち、地面のあちこちで新たに火柱を作る。救おうとした者がいる場所ほど、光は執拗に降り注いでいるように見えた。瓦礫から救い出した者たちの上に、星は集中する。救済を強行した結果、呪いは応報のように増幅された。
「あ……!」
少女が泣き声を上げ、カイは顔を伏せた。腕の内側で何かが熱を帯び、痛みが走る。助けるための行為が、別の誰かの命取りになっているのがわかる。隣りの家が音を立てて崩れ、そこから消えた幼児の小さな形が、もはや戻らないことを彼の目は確かめた。自分の手で救ったひとつの命の代償に、別の命が刈り取られる。救済が呪いを刺激する仕組みが、現実の痛みとして提示される。
「クソ……どういうことだ」
誰に向けるでもない呟き。彼の胸の奥で、別の感覚がまた薄れていく。幼い日の光景の端っこにあった、暖かな台所の景色。母の指先がパンの縁を裂く感触。――それが、すっと冷たく引っ込んでいくのを感じた。名前が出てこない。子守唄の一節が舌先まで届きかけて、消える。その喪失は砂のように音もなく、しかし確実に彼の内側から消えていった。
「しまった……」
カイは手のひらに残る木片を見た。木片には小さな刻印があった。王家を模したような紋章だ。円の中に、三つの星を連ねた意匠がある。王都の印だと、あるいは王権に繋がる何かのしるしだと、心のどこかが言う。だがほんの少し前まで確かに存在していたはずの温かな記憶の一部を、手放してしまったことの痛みが先に立つ。証を受けるたびに、彼は何かを失う。
「証は代価を払わせる」
女の声が、記憶の断片の隙間から囁いた気がした。それは亡くなった女の言葉か、あるいは結び合わされた誰かの合いの手かもしれない。真実を武器にするならば、それに見合うものを差し出せと。だが何を差し出すのかは、使う者の選択次第だという冷たい現実も、同時に伝わってきた。
村の中央にある井戸のほうで、鉄の蹄の音が近づく。黒い革靴が土を踏みしめ、押し寄せる足並みの中から制服の布擦れが聞こえる。王国の徴兵か、祭祀の一団か——それが何であれ、彼らはもうすぐ来るだろう。瓦礫をかき分け、倒れた門の先に立つ旗の上で、赤い光がさらに燃え上がる。
カイは、娘の小さな手を強く握りしめた。少女は震えている。彼の口元には、かつて誰かに教えられた優しい言葉が浮かんでいたはずだ。だがその言葉は風に消えた。記憶のひとかけらを失った代償と、目の前の事実――王家の紋章が刻まれた証が示す意味。どちらを選ぶのか、彼は決めねばならない。
「行くぞ」
カイは少女を背に負わせ、瓦礫の間を匍匐して逃げる道を見つける。鉄の蹄は近づき、声が次第に明瞭になる。誰かが号令をかけ、誰かが受け答えする。彼らは「裁定の記録」を回収に来たのかもしれない。あるいは、証を奪い、口封じに来るのかもしれない。
手の中の木片を見た。そこにはまだ、燃えるような赤の粉末が薄く付着している。証を握ると、真実の断片は彼の内で音を立てて動く。失うものの輪郭が、冷たく確かに浮かび上がる。
彼は選ぶ。記憶を代償にして真実を持ち帰るのか。あるいは真実を捨て、残された大切なもの――ぼんやりとした温もりを守るのか。選択の瞬間、空が一層赤く光った。星の雨は止まらない。彼が向かう先にも、また誰かの選択が待っている。
「王都へ行く。真実を、――暴く」