眠りを失う王子は神を告発する 第8話「第7章」
城の東櫓の石段は冷たく、夜風が鳩の羽のように薄く首筋を撫でた。セルジュはそこに座り込み、長い指で古い鐘の紐を撫でていた。紐は擦れた麻の匂いを残し、彼の手の感覚はどこか遠い。睡魔は来ない。代わりに、記憶の粒が一つ、また一つと指の間からこぼれ落ちていく感覚だけが残る。
城の東櫓の石段は冷たく、夜風が鳩の羽のように薄く首筋を撫でた。セルジュはそこに座り込み、長い指で古い鐘の紐を撫でていた。紐は擦れた麻の匂いを残し、彼の手の感覚はどこか遠い。睡魔は来ない。代わりに、記憶の粒が一つ、また一つと指の間からこぼれ落ちていく感覚だけが残る。
「またここにいるのか」
声は小さく、しかし夜の静寂を破るには十分だった。マルは黒いマントを翻しながら現れ、手に紙片の束を抱えていた。紙は夜の灯りに照らされて微かに白く震える。
「配ったのか?」
セルジュは問いではなく、確かめるように言った。マルは首を振らない。彼女の瞳は明るく、怒りと希望が混ざっていた。
「配った。匿名で、十軒の宿屋と市場の二つの路地と、聖堂の裏にある小さな紙吹雪の中に。お前がやらないなら、私たちがやると決めたのよ。人々に知らせるときは、怖がらないでやらないと駄目だって分かったから」
紙片の端がかすかに震え、インクの匂いが夜に混じった。セルジュはそれを受け取ろうとしたが、指先が曖昧になり、紙の一角を滑らせてしまった。そこに印刷された小さな文字が、彼の視界で揺れた。
「どうして黙ってた? 計画は私が決めるべきだと…」
マルは息を吐いた。細い息の中に街路の埃と、どこかに立ち上る油の臭いが混じる。
「あなたは眠りを失っている。意思が揺らぐ。だけど人々は今、知る権利を持っている。私はあなたの道具じゃない、セルジュ。あんたのために動くのでもない。あんたが守ろうとしている人々のためよ」
言葉は鋭くない。だがそこには揺るがぬ決意が宿っていた。セルジュは喉の奥で何かを噛み潰すようにして、笑ったように見えたが、笑いは乾いた。
「それで、リー南区の件は…?」
マルは顔色を変えた。リー南区。教区が密かに拘束し、〈眠りの誓い〉を強制していた場所だ。そこから囚われていた者たちがこっそりと解放されたという噂が、今夜、街中に走っている。
「リアナとケインが行った。夜明け前に裏口を抜けて、鉄門を破った。三十九人。傷ついていたけど、声はあった。彼らは自分の言葉を持っている。だから、紙にして配った」
セルジュの胸に、冷たいものが落ちた。どこかの部屋で、あの日の光景が瞬間的に蘇る。牢の壁、窓から差し込む白い細い光、ある女が両手を握りしめて、恥ずかしそうに笑った顔。だがその顔は次の瞬間、波のように消えた。セルジュは目の奥で何かが欠けているのを感じた。名前が、思い出せない。母の名前、師の名、最も古い昼の香りさえ。彼は手を胸に当て、息を整えようとしたが空気が薄い。
「使ったのか?」セルジュは問うた。
マルは目を逸らす。露骨な答えはしないが、彼女の肩が小さく震えた。
「彼女らに、証を束ねるよう頼んだ。あなたのやり方で。あなたが一緒にいるべきだと私も思う。だけど、あなたは…」
「私が何だって?」
セルジュは低く言った。言葉の端に、乾いた苔の味がした。二人の間に沈黙が落ち、遠くで鐘が一度鳴った。眠らない街の合図だ。
「あなたは自制していた。能力を使うたび、記憶が落ちるのを恐れていた。でも、独りで抱えることはできない。だから私たちが動いた」マルは紙の束をセルジュの手のひらに押し付ける。「でも、聞いて。彼らは抵抗した。意図せずに、強制された者がいた。リアナは、それを避けようとしたけれど…」
言葉はそこで止まった。セルジュは紙を開いた。三つの声が同時に、ある夜の出来事を語っていた。虐殺された市場、夜中に消えた子供、聖堂の地下で聞いた囁き。文字は統一され、文体がどこか同じ呼吸を持っている。彼が束ねたときと同じ形だ。だがその背後に、小さな不和の波紋が残る。ある行の端に、誰かの名前が取り消され黒く塗り潰されていた。その名を見た瞬間、セルジュの胸が深く突かれるような感覚に襲われた。そして、ふっと、ひとつの記憶の径が消えた。幼い頃に父と取った約束の匂い、父が差し出した古い鍵の冷たさ。鍵の形を思い出そうとしても、指の先で形は消える。
「強制があったのか?」セルジュの声は砂利のようだった。
「いや、強制されたのは一部だ。大半は自分の意志で語った。でも、檻にいた一人が、言うのを拒んだ。リアナが無理に口を開かなければならなかった。彼女はそれを後悔してる。だから、あなたが…あなたのやり方で束ねた。その瞬間、空気が変わった。彼は目を見開き、何かを失ったように震えた。夜明け前に、眠りが街に波紋のように広がった」
マルの手がかすかに震えた。セルジュは指で耳の後ろを押さえ、不快な響きが消えるのを待った。遠方で、教区の灯りがひとつ消えた。次いでまた一つ。消えるたびに、街路の影が濃くなり、歩く人々の目が赤く光った。
「強制されたら、何が起きるかは分かっているはずだ」セルジュは飲み込むように言った。「呪いは…強くなる。対象が抵抗の意志を持つほど、反発して増幅する。私はそれを何度も見た。だが…」
だが、という言葉は空転した。セルジュは立ち上がり、石垣に手をついた。夜風が彼の髪を乱し、鎧の縁が冷たく首に当たる。マルは彼に近づき、彼の手を掴んだ。冷たさが伝わる。
「私たちは選んだ。誰かが声を上げなければならない。あなたが失うものがどれほど大きくても、誰かの目の前で嘘が続くことを許すわけにはいかない。私たちはあなたの記憶の保管庫じゃない。あなたは、その重さを分ける人間だ」
マルの言葉は非難ではなく、申し立てだった。セルジュは彼女の掌を見つめ、そこに浮かぶ小さな黒い点を見た。幼い日の傷痕かもしれない。だが、その点の意味さえ彼はすぐには思い出せなかった。
「君たちは私の許可なく動いた。分かっている。だが、私が使えば…もっと多くを失う。顔も、声も、名前も。私が守るはずのものまで消えていく。君たちはそれを…」
「私たちは知っている。だから自分で動いたの」マルは首を振った。「セルジュ、あなたの代わりに行動するなんて言ってない。私たちはあなたが告発するときに、人々が立ち上がる土壌を作っただけ。あなたが選択する時間を作っただけ。だけど、教区は黙っていない。彼らは夜の間に何かを撒き続けている。眠りを与えるという名目で、人々を無力化している。リー南の解放でそれが暴かれれば、反撃は来る」
話す間にも、街からの遠い叫び声が重なった。セルジュは耳を澄ます。誰かが歌っている。抗議の歌だろうか、それともただの悲鳴か。夜の空気に溶けて、音は細かく砕ける。
「リアナたちに会わせてくれ」セルジュは言った。「私が、自分で謝りたい。彼らの目を見て、強制された者の声を聞きたい。自分で責任を取る。…しかし」
彼は言葉を切った。胸の内に、冷たい窓のような空虚がある。マルはじっと彼を見つめた。やがて、ゆっくりと頷く。
「待っていた時間は長かった。行こう、セルジュ。しかし、これ以上一人で背負わないで。私たちはあなたの背中を押す。そして…あなたが忘れるものを、私たちが覚える」
二人は城壁を下り、石畳に降り立った。夜の市場は静かだが、灯りの一つに小さな群れが集まっていた。そこにはリアナとケイン、そして数人の解放者が腰を下ろしていた。彼らの顔には眠らない目の赤みと、解放の安堵が混ざっている。