眠りを失う王子は神を告発する 第28話「終章」
石畳の広場は朝の光に裂かれていた。灰色の空を裂くように差し込む一条の光が、神殿の大扉とその前に据えられた眠りの像の金属面を白く叩く。人々の息が波になって寄せ、押し返される。匂いは――焚かれた香と汗と、まだ乾かない血。王子オーリンの手は震えていた。彼の掌にはいつの間にか、薄い布の束が握られている。人々の証言を繋ぐための、僕らはそう呼んだ。言の紐。
石畳の広場は朝の光に裂かれていた。灰色の空を裂くように差し込む一条の光が、神殿の大扉とその前に据えられた眠りの像の金属面を白く叩く。人々の息が波になって寄せ、押し返される。匂いは――焚かれた香と汗と、まだ乾かない血。王子オーリンの手は震えていた。彼の掌にはいつの間にか、薄い布の束が握られている。人々の証言を繋ぐための、僕らはそう呼んだ。言の紐。
「命じます――聞け。誰にも否定させない。」
声はいつもの低さを越え、広場を割った。オーリンは前へ踏み出し、言の紐を一人の女の腕に触れさせた。女の瞳から糸のような光が生まれ、ゆっくりと空へ伸びる。光の中に、女の子の寝顔、引き裂かれた布、鉄の鍵で閉じられた部屋の匂いが重なった。誰かの真実が、透明なリボンとなって現れた。
「これが、嘘でないと示すんだ」エナが囁く。彼女の手は冷たかったけれど、決意が固い。近くにいるマーラは銃床に手を掛けたまま、目を逸らさない。
高位の司祭グレイヴンは大声で罵った。「異端者の術だ。王子よ、君は自らの魂を売るのか!」
だがリボンは止まない。農夫の泣き声、奴隷の爪痕、軍歌に塗り込められた命令、それらが一つになって張り詰める。群衆の中である兵士が顔を覆って嗚咽した。オーリンは次々に人々の触れる掌に言の紐を回していく。証言は束ねられ、空気は真実の重さを帯びていく。
最初の代償は静かに訪れた。オーリンは光を引き出すたびに、胸の奥にあった小さな欠片を失った。最初に消えたのは、母の口癖だった。いつか母が自分にかけてくれた言葉――それがふっと引っ込むように、温もりだけが残って形を保たなかった。「母さんの…」と口が言いかけたが、名前が出ない。彼は咳をし、掌を確かめた。言の紐の感触は冷たく、何よりも生々しかった。
「やめろ、王子!」ヴァルク将軍が前に出る。軍の刃先が光る。だが群集は後ろに押しとどめられ、武器は群衆を割ることを躊躇する。軍と民衆のあいだで何かが揺れている。オーリンの目に、聞かれたくない記憶が霞んでいくたびに、その代償は形をとった。彼が力を振るえば振るうほど、紙の上の呪いは現実の病となって跳ね返った。
言の紐がたどりついたとき、オーリンは全てを一つにまとめるつもりでいた。神が与える休息、それを租借として統治に使った制度の細部。彼はそれを「露呈」させ、神を法廷に引きずり出すつもりだった。証言が一つの声になり、像の下で低いうねりを成したとき、オーリンは合図した。
「救済――今、強制的に解く!」
言の紐の末端から飛んだ光が眠りの像に触れた。像の金属は震え、そこから緩やかな蒼い霧が吐き出された。空気が甘くなる。人々は安心の気配に身を委ねる。だがそれは錯覚だった。強制された救済は規模の反動を連れてくる。蒼い霧が広がるほど、呪いは弾けて新たな焦点を求めた。触れた者が眠らない苦しみに苛まれ、眼の縁が赤く充血していく。
「止めろ!」エナが叫ぶ。エナは言の紐を奪おうとしたが、オーリンは振りほどいた。彼の脳裏からはまた一つの光景が失われる。小さな庭の匂い、父と見た星の場所。彼は指先でそれを探すが、空っぽになった引き出しのように戻らない。
救済を強制した瞬間、群衆の一角で新たな症状が叫ばれた。幼子の手がぶるぶる震え、母が泣き崩れる。呪いは増幅し、近くの者へと跳び、いくつもの睡眠を奪った。群衆は一斉に空気を吸い、恐怖が波紋を描いた。グレイヴンは勝ち誇ったように笑い、ヴァルクは銃を下ろしかけた指を硬く戻した。
マーラが前に出た。彼女は銃を構えながらも、銃口を下に向けたまま言った。「これで終わらせるというのか、殿下? 君が救おうとしたそれが、新たに誰かを切り裂くなら、私たちは何を守る?」
オーリンは答えなかった。目の前の光景が彼の記憶を引き裂いていく。使う者は代償を払う。彼はそれを知っていたはずだが、知っていることと失うことは別だった。仲間たちの顔がぼやける。エナが自分の名を呼ぶと、彼は慌てて首を振った。だが名は霧の中へ溶ける。
その時、群衆の中から静かな声が上がった。イーサ、学者だった。彼はかつての器具の設計図を持っていた。彼は呪いが単なる神の恵みではなく、制度として設計されている証を示した。設計図の一部が、言の紐と同じ力を持つと彼は言った。賛否は別にして、呪いは人の選択を拒むために作られた。選択を戻すには、呪いの操作を解するための方法を公開する以外にない。
「公開すれば、広がる」マーラは低く言った。「知られれば、人は自分で選ぶだろう。だが強制された救済のように、知られることがさらなる痛みを生むかもしれない。」
エナはオーリンの袖を掴んだ。彼女の爪が肉を食い、熱が走る。オーリンの掌に残る言の紐はもうほとんど白い糸ひとすじでしかなかった。彼はぴくりと、そして静かに布を放した。震える声で、しかし確かな決意で言葉が紡がれた。
「これを終わらせる。僕は…僕は覚えているものを持っていないかもしれない。だが、皆の選択を奪うことは、もうしない。」
彼は眠りの像に槌を振り下ろした。金属が割れる音が、胸に響いた。欠片が石畳に散り、火花のように跳ねる。破片の一つ一つに、イーサが言うところの“操作の鍵”が刻まれているらしい。人々の手で分け合えば、制度は一つに戻らず、むしろ個別の選択へ溶ける。
群衆は手を伸ばした。ある者は笑い、ある者は泣いた。マーラは銃を下ろし、隣で抱き合った者たちを見つめた。エナはオーリンの肩に顔を伏せたが、彼が抱き返す力はもうなかった。彼の指先は空を探るだけで、昔の歌曲の一節も思い出せない。だが彼はなお、自分が守りたい人たちを前に立っていた。
散らばった破片は誰かの掌に収まった。イーサは一つを拾い上げ、設計図を開いた。見れば、その破片が人に示すのは「如何にして眠りを強制するか」だけでなく、「如何にして拒否するか」の回路図でもあった。仕組みを知れば、呪いを拒める手段もある。しかしそれは同時に、呪いを拡大させる知識でもある。使い方は人々の手に委ねられた。
エナが立ち上がる。群衆に向かって、声を張った。「僕たちはこれを、君たち全員の前で開く。誰もが選べるように。誰か一人が支配を決めることは、もうできない。」
彼女の手が一つの破片を高く掲げる。子供たちが目を輝かせ、年老いた女が目に涙を溜める。だが同時に、誰かの髪の端に新しい赤い点が灯る――新たに呪いの症状が出始めた者だ。救済の反動は続いている。人々の歓声はそこへ引きずられ、小さな叫びが混じる。
「公開するか、保留するかを選べ」マーラは群衆に向けて言った。「俺たちは強制しない。だが、知られなければ選べない。知ることでまた誰かが傷つくかもしれない。それでも、これは君たちのものだ。」
静寂が広場を覆った。ざわめきの波が、次第に一つの意思へと収斂する。誰かが手を挙げる。若い女の手。労働者の父の手。兵士の手。少しずつ、人数は増え、最後には半ば無言の合意が生まれた。人々は一つずつ破片を受け取り、回し読みし、意見を交わす。言の紐はもうオーリンの掌には無く、群衆のあちこちに散っていた。
オーリンはその間に座り込む。彼の目には薄い霧が宿り、思い出の断片が浮かんでは消えた。エナが耳元