眠りを失う王子は神を告発する 第27話「第二部幕間」
窓から差し込む朝の光は薄く、城外の空気がまだ冷たかった。リオは布団の中で目を閉じてはいない。その代わりに、まぶたを固く閉じるふりをして空間を透かし見る。目の下の紫が、鏡の中の自分に語りかけるように深くなっていた。指先にはまだ、昨夜触れた者の冷たさが残っている。皮膚の感覚が、記憶を持ち去っていく瞬間の余韻を指先に刻みつけている。
窓から差し込む朝の光は薄く、城外の空気がまだ冷たかった。リオは布団の中で目を閉じてはいない。その代わりに、まぶたを固く閉じるふりをして空間を透かし見る。目の下の紫が、鏡の中の自分に語りかけるように深くなっていた。指先にはまだ、昨夜触れた者の冷たさが残っている。皮膚の感覚が、記憶を持ち去っていく瞬間の余韻を指先に刻みつけている。
部屋の隅、木の机に向かってマルが座っていた。インクの匂い、古い羊皮紙のざらつき、羽ペンの先が紙面を引く擦れる音が小さく鳴る。彼女は報告を書き留めるのではなく、リオの表情を見つめていた。長い黒髪が懐からはみ出した暖かい布の縁に触れて、微かに震えた。
「眠れなかったか」マルが静かに言った。声はいつもより低い。
「眠ると死ぬ気がする」とリオは答えた。言葉がひどく薄くて、自分でも驚いた。言葉には力があったはずだ。だがその力がどこからだったのか、すぐに見つけられない。彼は掌をこすり合わせ、紫の影を鏡に映した。眠痕は片目の縁から頬にかけて蝕むように広がっている。
戸が静かに絞られて開いた。押し入ってきたのはベンと、昨夜救出した女工のカダだった。カダの服には火の粉の黒い斑点が残り、額には汗と煤が混ざった筋がある。彼女の目は明らかに疲れていて、夜の工房の光景をまだ引きずっているようだった。
「報告をするためじゃない。休めるなら休め」とベンはリオに促したが、リオは首を振った。報告はマルが写し取るだろう。証束は使えばよい、と彼らは昨夜決めた。だが昨夜の代償が今朝の空気に貼りついている。
「あなた、触れてもらえますか?」カダがかすれた声で言った。手を差し出すわけでもなく、ただ問うた。彼女の瞳が揺れて、光を捕まえる瞬間があった。その揺らぎに、リオは自分の役割を思い出す。触れて、束ねる。見た者の真実を、自分の前に編み出すこと。だがそれは、いつも何かを奪う。
マルは立ち上がり、カダの前に一歩出た。羽ペンを机に置き、インク壺の縁に指先をぶつけて小さな音を立てた。「リオ、今回はやり方を変えましょう」彼女の声ははっきりしていた。手帳をめくる指が震えているが、抑えられている。記録を書き残すために、彼女は決意を持った動作をしていた。
「触れるのは君一人でいい。話すのは私たちが代わる。あなたが奪われる記憶は、ここに残す」マルの目がリオに落ちる。その瞳は訴えかけていた。リオは手を伸ばした。カダの手は荒れていて、煤と脂で指先が黒い。触れ合った瞬間、周囲の空気が引き裂かれるように静まった。
証束が動くとき、世界はまず色を失う。部屋の暖炉の赤、マルの赤い髪の端、カダの着物に染みた煤の黒、すべてが吸い出されて、モノクロームの糸が現れる。糸は指先から引かれ、はじめは細い煙のようにリオの視野に沿って流れる。次第にそれは確かな形を取り、火花が散る工房の輪郭、回転する鋳型、耐火服の背中に刻まれた暗い文字、そして小さな手帳に走る数字列が立ち上がった。
視界のすみで、リオの胸の奥にあった何かが崩れた音がした。小さな部屋、砂糖の匂い、父が教えてくれた小さな舟の名前──それまで彼の中で鮮明だった記憶が、ガラスに息を吹きかけたように曇り、指先で擦ると消えていく。彼はその感触を認識する。奪われるのだ。これはいつものことだと。だが今回、奪われるのはただの景色ではなかった。彼は母の笑い方を思い出そうとして、胸の中に穴が開いたように忘却だけが残った。
マルは震えながらも羽ペンを動かす。カダの吐息、火の音、工員の足音、署名の押印位置――すべてが言葉になっていく。マルは声に出して確認する。「『燔(はん)』小型器具、焼き切る熱源を内蔵。軍属名簿と連動、配布先に直接記載。包装には部局刻印、三桁の数字は地区コード」彼女が書き取るたび、リオの頭の中からもうひとつの記憶の断片が飛び去って行った。
証束の代償は静かだ。リオはただ、どこかで大事にしていた言葉を忘れていく。言語の端がほどけていくのがわかった。彼は必死に掴むように、幼い頃の歌の一節を思い出そうとしたが、最後の語が煙になって消えた。胸が締め付けられる。マルの手が止まり、インクが紙ににじむ。彼女は顔を上げると、リオの目を見る。彼の目は遠く、いま見ている光景のどこかに取り憑かれていた。
カダの記憶は細部に厳しかった。工房の棟には夜番帳があり、そこに配布先と受領者の名前が記載される。受領者の署名とともに、"奉仕"と書かれた欄がある。そこには付け替えられることのない固有の印が押され、持ち出された燔には暗号化された付票が紐づいている。リオの視野に浮かび上がった帳面の頁には、見知った地区名が横並びに列挙されていた。中には、自分が遊んだ路地の名もあった。
「それで、あなたたちは——」ベンが言葉を詰まらせた。「救ったら、どうなったんだ?」
カダは唇を震わせた。「問い合わせが来ました。――発注が不足していると、支給を拡大すると。欠員が出れば補充が必要だと。見えなくても、数は合わせるものなのです。知らせが出れば、向こうはもっと…配ります。配れば、彼らは私たちの声に答えようとする。でもそれは、ただ数を増やすだけ」
リオの胸に、氷のようなものが落ちる。救いの手を差し伸べた事実が、数を揃えるための言い訳となり、より多くの燔を流通させる圧力を生んでいた。証束が吐き出した真実は、ただの記録ではなく、力の向きと流れを示していた。誰かが在庫と配給を管理していた。誰かが意図的に需要を作っていた。
「つまり、私たちが暴いて救えば、彼らは違う地区に配るか増産する」マルが言った。「それで人手は変わらず、ただ眠りを奪う対象が移るだけなら、無意味になる」
「ただ移るんじゃない」ベンは低く返した。「もっと根が深い。工房が軍の配給と直結してる。署名、印章――役所の刻印だ。これが出回ったら、国が関与している証拠だ」
カダは掌のしわを見つめ、そこに小さな紙切れを忍ばせていた。それを震える指で差し出す。紙には滲んだ印があり、そこには確かに見覚えのある紋章と"軍務省"の文字がかすれていた。インクは走り、押印は不鮮明だが、存在感は否定しがたい。マルはそれを受け取り、光にかざすと、眉をしかめた。
「これが本物なら、徴収は国家主導だ」と彼女は囁いた。「救いが表沙汰になったとき、彼らは保証する。足りない数は別の区に要求する。政治的には何も変わらない。むしろ、弁舌を振るった私たちが目を付けられる」
リオはふらつき、椅子にもたれた。頭の中で、マルの文字が黒く震え、次の行が読み取れない。彼は記憶を奪われる痛みに耐えながらも、ひとつの問いに押し潰されそうになった。「それでも、真実を掘り下げるべきか」――それはいつも彼の仕事であり、同時に罠でもあった。
ベンが膝をついてカダと目線を合わせる。「証束は使える。だが、もう二度とリオを使い潰すようなやり方はしない。記録するのは私たちだ。語るのは私たちだ。リオは道を指すだけでいい」
マルはゆっくりと首を振った。「指すだけで、正確に指せるか。真実には力がある。公の場で暴かれたら、変化は生まれるかもしれない。だがそれはまっすぐには届かない。力を持つ者は必ず歪める。だから…私たちは次の選択