眠りを失う王子は神を告発する 第25話「第23章」
祭壇広場を満たす風は、いつもの午後と違って匂いを含んでいた。潮と煤(すす)と、洗いざらした布を焦がすような香りが混じる。ルカは石の台座に片膝をつき、掌で冷たい金属の箱を抑えていた。箱の蓋は開いていない。そこにあるのは、彼の能力――証束を繋ぐために仲間たちが持ち寄った小さな受け皿のような器具群だ。だが今日は器具を介さず、彼自身の声と他者の声をその場で束ねるつもりだった。
祭壇広場を満たす風は、いつもの午後と違って匂いを含んでいた。潮と煤(すす)と、洗いざらした布を焦がすような香りが混じる。ルカは石の台座に片膝をつき、掌で冷たい金属の箱を抑えていた。箱の蓋は開いていない。そこにあるのは、彼の能力――証束を繋ぐために仲間たちが持ち寄った小さな受け皿のような器具群だ。だが今日は器具を介さず、彼自身の声と他者の声をその場で束ねるつもりだった。
「王子様、まだいけますか?」と、ミラが小声で囁く。琴の糸を弾くように震える彼女の指先には、書き取るための冊子がぎゅっと握られていた。周囲には被害者たちが列を作り、目は乾いて赤く、重いまぶたが震えている。子どものように小さな手を何度も組み直す者、指先に黒い瘢(はん)が走る者、肩を震わせながら息を止める者。彼らの首の後ろには、王権と神殿が人々に押し付けた「眠印」の痕跡があった。印は皮膚から冷たい光を放ち、見るだけで胸の奥を引き締める。
ルカは頷いた。眠気は彼からすでに逃げ去っている。代わりにいつもと違う喪失感が漂っていた。瞳の奥を覗くと、夜の谷間で削られたような空白があった。母の笑い声を思い出そうとしても、そこには砂のような粒子が立ち込め、音が砕けて消える。彼はそれを認めないように深く息を吸った。今日を逃せば、彼らの声はまた押し潰される。記憶の一欠片を差し出す代償も、誰かの痛みで償えるならば、とルカは自分に言い聞かせた。
「まずは、あなたからお願いします」ルカは一人の年老いた女にマイクを差し出した。女は手を震わせながらマイクを取る。ルカが能力を触れると、空気が針のように静まり返る。彼の中で、声の糸が目に見えるように伸びた。銀色の細い糸が、女の喉元から立ち上り、彼の胸の奥で絡まり、次いで列の他者へと伸びていく。その糸は記憶を結びつけ、散在する断片を一つの流れに編み上げる。証束は、当事者の痛みと記憶を「共有」させるための器だ。だが同時に、彼の自我の棚から何かを抜き取り、養分のように消費した。
女が話し始めると、周囲の者たちの顔が変わった。怒りと安堵が混ざったような、破裂寸前の蒼白。ルカは彼女の言葉を堰き止めずにそのまま繋いでいった。言葉は広場に流れ、聞く者たちの胸を切り裂いた。だが一語一語が放たれるたびに、ルカの胸の奥で冷たい穴が少しずつ広がるのが分かった。最初は子どものころの故郷の匂い、次に最初に剣を握った日の痺れる感触、そして最後には妹の名前――その響きが霧の中に溶けていた。
「ルカ?」ミラの驚きに満ちた声が耳に届いた。彼は驚いた自分の表情を鏡のように眺めた。言葉の糸を整えるたびに、思い出が白く退色していく。彼はやめようと考えた。声を繋ぐのを止めれば、自分の記憶は守れる。それでも女の語る息子の名が、今この場でしか答えを得られないことも、彼は知っていた。
次の人物は若い兵士だった。軍帽を脱ぎ捨て、顎に血の跡を残している。彼の目は虚ろに震えていた。兵士は震える声で言った。「司令は…あの夜、教えられました。眠印を刻めば、反逆は眠る。神の名の下に、家々は安らぎを得る――」声がつんのめり、次の言葉が出ない。周囲が息を呑む。兵士の体に薄く光る眠印が反射し、皮膚の下で黒い花が開くように見えた。
カイが我慢できなくなった。カイは王子付きの兵であり、だがここ数週間で彼自身も多くを見聞きしていた。緊張で拳が白くなるのを見せずに、カイは兵士を強く掴み、マイクをその口元に押し付けた。「言え! お前の命で済むなら、我々はそれを受ける」――彼の声は低く、抑えきれない怒りを孕んでいた。ルカはカイの手を無意識に制止しようとしたが、動きが遅かった。
カイが強制すると、空気がまた変わった。兵士の言葉が押し出された刹那、広場のどこかで小さなひび割れ音がした。眠印が浮かぶ者の指先から黒い粉が舞い、地面に落ちるとそこから淡い蒼い光が噴き上がる。人々のまぶたが瞬時に伸び、目の裏の血管が浮かび上がる。強制された告白は、証束の本質に対する禁忌を犯した。救済を強制することは、呪いを「暴かせる」のではなく、呪いを刺激し、拡散させるのだ。
「カイ!」ルカは叫んだ。胸に痛みが走った。ミラがルカの袖を掴み、下から見上げる。彼女の目には恐怖と怒りが混じっていた。「王子、席を外してください。術を——それは」言葉がそこで切れる。ルカは汗が額を伝うのを感じた。眠気が来ない代償として、彼は記憶を失っていく。だが今はそれ以上に、目の前で人々が体をよじり、痙攣しているのを止めねばならない。
オルヴァが動いた。元神殿の役職にいた彼は、長年の知識と恨みを抱えている。オルヴァは兵士の腕を取って引き離し、そして静かに言った。「証束は君のものだ、ルカ。だが使い方は私たちで決める」彼は周囲の者たちを見て、次の言葉を選んだ。「今強制すれば、我々は神殿と変わらなくなる。だが待っている時間も無い。君が束ねる――だが、君は一度だけ、記憶の代償を抑える方法を選べる。声を繋ぐ代わりに、器具を使い、その代わりに一部の記憶を交換する。犠牲を分割しよう」
ミラがその提案に頷いた。器具を使えば一人の負担を全部受けることは防げる。だが器具は少数にしかない。ルカは混乱の中で、己が記憶の中の一枚の写真をもう一度呼び戻そうとした。幼い少女の笑い声。名前はまだ出てこない。指先でその形を探ると、掌の中に何も残らなかった。
「そうするか、それとも——自分の名前をこれ以上失うか」オルヴァが静かに念を押す。選択は彼個人の問題であるだけでなく、ここにいる全員の運命を左右する。ルカの視界に、被害者たちの顔が順に映る。誰もが彼の目を見ていた。哀願とも決意ともつかない、必死の光。
彼は息を整え、器具に手を伸ばした。しかし、その瞬間、広場の端で鋭い金属音が軽く鳴った。誰かが長い軍旗の竿を振りかざしたのだ。上空に広がる紅白の旗は、先端に銀の徽(しるし)を光らせ、太陽を遮るようにゆっくりと翻った。群衆の視線が一斉にそちらへ向く。高台の向こうに立つ、神殿の儀礼服をまとった大祭司セラトの影が見えた。彼の横には厳装の守兵隊が隊列を組み、剣を抜く者たちの先に中隊旗が立っている。軍旗は近づいてきていた。布の端が微かに羽の音のように擦れる。
「彼らは最後の一手を打つ」オルヴァが低く言った。声の中に怯えはなかった。ただ、静かな確信が混じっている。ルカは手の器具を離し、マイクに向き直った。群衆の中から小さな手がゆっくりと伸びてきた。年若い女――サーニャだった。彼女は息子の写真を握りしめ、目を赤くしている。彼女の指は震えているが、堅く結ばれていた。ミラはほんの少しマイクを彼女に押し当てた。
サーニャはルカを見ると、小さな声で言った。「王子様、私は…話します。でも私の話を聞いてほしい。あなたがそれをつなげるとき、私から奪われるものが…それでも、私がここで言うとき、私は自分の記憶を自分のままにしていたい」
その言葉は、静かな決断だ。王子の手元の糸は、彼女の意志で結ばれることを望んでいる。強制ではない、参加だ。ルカの心に何か熱いものが流れ込んだ。眠りを失う王子がここで下すべき選択は、彼が記憶を失ってでも真実をひとつに編むことか、あるいは声の主に選択の余