眠りを失う王子は神を告発する 第19話「第17章」
粉煤(ふんまい)が舞う古い水車小屋の奥で、声が混ざり合った。ろうそくの炎は低く、ひとつの風で揺れ、壁にぶつかってすすの影を落とす。群衆の鼻の奥には、焼けた皮革と湿った木の匂い。王子カイランは壇の端に立ち、いつものようにまぶたを閉じられなかった。まぶたの裏が熱を帯びているようで、まぶたを閉じれば頭の中に見えない針が刺さる。睡眠はもう芽生えず、目は夜の水面のように光を残していた。
粉煤(ふんまい)が舞う古い水車小屋の奥で、声が混ざり合った。ろうそくの炎は低く、ひとつの風で揺れ、壁にぶつかってすすの影を落とす。群衆の鼻の奥には、焼けた皮革と湿った木の匂い。王子カイランは壇の端に立ち、いつものようにまぶたを閉じられなかった。まぶたの裏が熱を帯びているようで、まぶたを閉じれば頭の中に見えない針が刺さる。睡眠はもう芽生えず、目は夜の水面のように光を残していた。
「次はナヘラだ」シエラが短く告げる。肩に乗った革の袋から、ナヘラが手に握る小さな木片を取り上げる。木片には子どもの菩提の名が削られていて、塗料がところどころ剥げている。ナヘラの指先は震えていた。年齢は三十を少し超え、顔には長い夜を越えたような線が刻まれている。
「私は夜勤に行かせました」とナヘラは言った。声は乾いて、息継ぎのたびに喉がこすれる。会場は静まる。彼女の言葉は祭壇の祈りのようには磨かれておらず、ぶつ切りの痛みだった。「幼いときから、神殿は子どもを夜間に働かせるって言うの。眠らせる代わりに祈りを寄こし、税を軽くしてくれるって。息子の手を押さえて、暗い倉庫に入れた。朝、彼の布は冷たかった。誰も私に説明してくれなかった。神さまに捧げたはずの夜が、ただの労働に変わっていた――」
カイランは近づいた。彼の手のひらは冷たいが、指先は生暖かく感じる。能力はいつも皮膚の感覚から動き出す。人の真実を「束ねる」ためには、その者の恐れに触れ、事実を集めるために言葉の糸を取っていく。だが糸を集めるたび、カイラン自身の記憶の糸が一本抜ける。代償はいつも即座に訪れる。何が消えるのかは予測できない。失うのは他人のことではなく、彼自身の何か――小さな笑い声、子供時代の匂い、誰かの手の感触。敵意や利得は与えられない。代わりに、彼は自分の過去を削られていく。
「触れて」シエラが低く言った。彼女の指先には怒りと恐れが交互に波打っている。ドミンは眉間にしわを寄せ、拳を握りしめていた。元軍人の彼は、やはりこの場で武器を持っているわけではなかったが、その立ち居振る舞いには戦場の癖が残っている。
カイランはナヘラの手に触れた。皮膚の温度が伝わり、そこから言葉の切れ端が吸い上げられる――暗い倉庫の木の匂い、息子の小さな靴、冷たくなった掌、そして子を抱くために足を踏み外した夜。糸は透明な光の束となって、彼の胸へと流れ込んだ。眩暈がした。光は彼の心房を撫で、そこにあったものを選んで抜き取っていく。
――母の編んだ毛布の匂い。
香りは瞬間に消え、彼の胸にぽっかり空洞が開いた。カイランは指先で鼻の下を擦ったが、どんな匂いを探しているのか思い出せない。幼いころ、母が膝にかけてくれた厚い毛布の匂い。そこに結びついていた時計台の音、母の唇の感触、そうした些細なものが綺麗に抜け落ちていた。刺激は小さく、しかし確かな喪失感が彼を掴む。
「カイラン!」ドミンの声が鋭く割り込む。「やめろ、使いすぎるな!」
「まだ必要だ」とシエラが返した。「彼らの声を束ねれば、軍にも届く。真実は力になる」
だがナヘラは目を閉じ、背中を小さく丸めた。彼女の目の奥には、いまだに夜の倉庫の暗さがひかっている。
「あなた、分かるか?」ナヘラが震える声で尋ねる。「私の息子のこと、忘れないでほしい。忘れてしまうと、もう誰も覚えてくれない」
その言葉はカイランの胸に突き刺さった。能力は他人の痛みを法廷に持ち込むための道具だったが、その代償は、被害者の名を守るべき彼の個人的な記憶を消し去りうる。彼にとって、記憶は証拠であり、同時に守るべき対象でもあった。ナヘラの小さな声が、彼の選択を吊るす。
「私は忘れない」と彼はかすれて言った。言葉が震え、薄くなった匂いの欠片に触れられない自分を自覚しつつ。彼はさらに一握りの糸を引いた。会場の空気は一瞬凍り、目に見えない力が人々の胸を押すように感じられた。声の束は集められ、天井の梁を横断して薄い光の幕になった。誰かが嗚咽を漏らす。真実は、ここに在る。
だが代償は齎された。ナヘラの証言が「公的な真実」として束ねられ、周囲の疲れた顔に光が注がれた直後、カイランは自分の左手の甲にある小さな切り傷の記憶を思い出せなくなった。それは幼いころ、父と遊んでつけたものだった。浅い傷だったが、父の手がそれを包んだ感触、父の笑い声――それらが消えていた。胸に穴があいている。彼は握りしめた拳の中の痛みだけで、その喪失を感じた。
「それでいいのか?」ドミンは低く言った。「証拠は得た。だが、お前の中に空白が増えていく。いつか――お前は自分が何のために戦っているのか忘れる」
「忘れるなら、私は忘れてもいい」カイランは即答した。声には決意の刃があった。「真実が広まれば、忘れた記憶の代わりに誰かの命が守られる」
ナヘラの顔に涙が溜まった。周囲の者たちも息を呑んだ。だが水車小屋の外では別の動きが始まっていた。
──兵舎。鉄の香り、油声、眠りを断たれた者たちの浅い呼吸が群れる場所。曹長マルクは内扉に背を預けて、渡された紙片を握りしめていた。紙には小さな文字で「真実の束」とあり、署名はなかった。彼の手は少し震えている。兵舎の壁には「夜勤」と書かれた札が並んでいる。錆びた釘の間に差し込んだそれを、彼は一つずつ剥がしていくつもりではなかった。彼はただ、息子のように共に過ごした兵士たちをどうするかを決めなければならなかった。
マルクは、かつての上官から「秩序を守れ」と命じられていた。秩序とは、眠りを管理し、夜の勤労を割り振ることだった。眠らない兵士たちは帝国の道具であり、眠りを奪うことは国家の呼吸を制御することでもあった。だが今、兵舎に配られた真実は、その呼吸が綻ぶかもしれないと告げている。兵士たちの多くは、何年も眠りの管理を受け入れていた。中には、礼拝で安堵を見いだしていた者もいる。
マルクは廊下を進んだ。薄暗いランプの下、兵たちが横たわる寝台が整然と並んでいる。彼は一人の若者の胸に置いた手を引いた。若者の瞳は血走り、顔には深い疲労の影。手を引かれた者は目を覚ますとすぐに、じっとマルクを見た。
「曹長?」若者は息を切らして言った。「こんな時間に……」
「話を聞け」マルクは低く言った。彼の声には決断が宿っていた。「外で話がある。聞くか、それとも命令に従うか。自分で選べ」
それは小さな分岐だった――強制ではなく、選択を与える行為。しかし、地下から来た真実の映像を読み上げれば、確かに兵たちの世界は揺らぐ。マルクは、カイランたちが集めた「証言の束」を、一枚ずつ声に出して読み上げた。倉庫で働かされた子、夜の祈りに無理やり送られた女性、眠れないことによって感覚を失った男の語り。言葉は壁にこだまし、石と鉄の冷たさを引き出した。
一人、また一人と、兵士の顔に疑念が浮かぶ。そしてある者の目からは、豹変に近い光が滲んだ。眠りを奪われていた彼らは、真実を知ることで初めて「救い」を受け入れたように見えた。だがその救いは、彼らの体に少しずつ違う影響を与えた。読み上げが終わると、数名が急に体を起こし、酒のような甘い液体を吐いた。体が震え、目は白く濁りはじめた。それは単なる興奮ではなかった。触れ