眠りを失う王子は神を告発する 第11話「第10章」
石造りの地下室は、柔らかな灯芯の光に沈んでいた。空気は埃と古い蝋の匂いを帯び、壁の裂け目から冷たい湿気が指先を凍らせる。カイリスは膝を折り、添えられた古書の頁を指でなぞった。孔のように開いた活字の隙間から、かすかな赤い跡が浮かんでいる。血だと直感した瞬間、ミラの手が肩に触れた。
石造りの地下室は、柔らかな灯芯の光に沈んでいた。空気は埃と古い蝋の匂いを帯び、壁の裂け目から冷たい湿気が指先を凍らせる。カイリスは膝を折り、添えられた古書の頁を指でなぞった。孔のように開いた活字の隙間から、かすかな赤い跡が浮かんでいる。血だと直感した瞬間、ミラの手が肩に触れた。
「これは……挿絵だわ。儀式の図案と、傍注に何人かの名前がある」ミラは囁いた。彼女の声は震えをまとっていたが、指先は確かな手つきで紙屑を払った。紙面の縁に、幾重にも重ねられた筆跡。言葉ではなく、痕跡が誰かの声を引いてくるようだった。
「王宮の禁書の断片だ。ここに来るには――」シュウが低く呟き、石の床に置いた松明の影が揺れる。彼の表情は硬く、胸元の革鎧が呼吸で微かにきしんだ。「ここから外へ持ち出すには、証が必要だ。王子殿下の……あの力で束ねるしかない」
カイリスは頁を見つめたまま息を吸った。冷たい洞穴の空気が喉を擦る。証束の力はいつもそうやって、光の糸を掬い取るように来る。だが今回は違う。紙の墨が、痛みに近い温度で彼の手の平に吸い付いた。
「誰の証だ?」カイリスは問う。答えは頁が語った――工場に集められた女たち、夜ごと監視の下で眠りを削られた子供たち、奉納の名目で身体を差し出された老人。挿絵は施錠された部屋、針のような器具、光を吸うような布。ミラが小さな声で読む。
「『贈り主は祝福を与える。眠りはもう許されない。眠ってしまう者は汚れを落とす』。『代わりに記憶を差し出せ』。こんなことが――」
カイリスの指先から、冷たい震えが差した。証束は事実を紡ぐ。誰かが見たもの、感じたものを、当事者そのものの声で一つにして見せる。その代わりに彼は自分の記憶を渡す。小さな欠片が抜け、続けていくと大きな穴になってしまうことを、彼は知っている。だが、この断片を公の場で示せれば、宗と王権が組んだ呪いの仕組みを初めて崩せるかもしれない。
「準備はできているか?」シュウが聞く。ミラは眉を寄せ、扉の方を見た。薄暗い通路の向こうに、金属が擦れるような物音がわずかに響く。守備の巡回だ。時間はない。
カイリスはゆっくりと立ち上がり、両手を広げた。掌に汗が滲み、蝋の匂いが鼻腔を刺す。内部で小さな痛みがはじけるのを感じた。証束を引くには、当事者の残響を呼ぶこと――紙に残された指紋、肉の記憶、詩にならない呻き声。それらを糸に編むようにして彼の中で結ぶとき、彼自身の記憶の繋ぎ目が解かれる。
「一人ずつだ。必ず、順序を守る」ミラが厳しく言う。「強引に救済を押し付けるようなことは――それは呪いを増幅する。もし誰かに救いを強いるなら、眠りを奪う波が広がるだけよ」
カイリスはそれを聞いて、わずかに笑った。笑いには疲労が滲む。「わかっている。だから、見せるだけにする。ここで押さえつける。証が公に出れば、選ぶ余地が生まれるんだ」
しかし彼の言葉は、彼自身を慰める薄い氷に過ぎなかった。彼は覚悟を決め、頁に手を触れた。石の冷たさが、掌から骨へと伝わる。体内で光の筋が弾け、耳鳴りのように細い声が立ち上がる。最初は一つ、ふたつの呻き。やがてそれらは重なり、層になって空気を震わせた。
「――こわい、こわいよ……」「母さん、止めて、止めて、やめてくれ」「目が覚めない、目が覚めないのに、時間だけが過ぎていく」
声は生々しく、掌に痛みとして残る。カイリスは声を繋ぐ糸を一つに束ねた。糸は彼の胸に巻き付くように降り、彼の脳へと導かれる。彼はその中に、自分の幼少の記憶を差し出す。最初に消えたのは、小さな門の木地の匂いだった。次いで、母の寝息と、母が編んだ冬用のマフラーのざらつきがひけていく。指の先に残る感触がふいに薄くなり、胸の奥が空洞になる。
ミラが手を伸ばし、カイリスの腕を掴む。「王子! 止めて、無理よ! それは大事な……!」
「やめられない」カイリスは答える。声が遠い。目の前に広がる映像は、証が現出した形だ。薄暗い工場の中、監視台の光に照らされた女たちの顔。子供たちが眠らされる儀式の一場面。老人がぎこちない礼拝を強いられ、代わりに何かを差し出している。彼はその一つひとつを、確かな「当事者の証言」として束ねた。
映像は圧倒的だった。石壁に映し出される光景は、誰の目にも嘘ではなかった。だがその代償として、カイリスの中から幼い日の遊び場の匂い、父の叱責の節回し、妹の笑い声のある夜が消えた。彼はそれに気づいた瞬間、冷たい響きが胸に走った。記憶の欠如は、図面に穴が開くように次から次へと連鎖し始める。
「何を――!」シュウが叫ぶ。声は絶望と怒りに混じっている。「そんな代償で、我々は何を得るんだ! 証で人々を解放するんだとしても、王子殿下の代わりは誰が務める? その記憶が消えたら、私たちは!」
ミラはカイリスを見下ろし、顔を振った。「代わりはいない。でも、今はそれを恐れていては始まらない。あなたが見せたものが事実だと示さない限り、誰も動かない。誰も選べないのよ」
石室の外で、足音が近づいた。金属の鎧が擦れる音、鉄靴の硬い反響。巡回がいつもより頻繁だ。アドラムの手先か、あるいは何かに感づいた隠れた奉仕者か。どちらにしても時間は短い。
「逃げるべきだ」シュウは言った。「ここで証を使うのは無謀だ。宮廷の目は長い。見せるなら、外に出て、公にする術が必要だ」
「その『外』が必要なのはわかっている」カイリスは答えた。手の中の光が冷たく震えるのを感じる。「だがここでは一つ、分かったことがある」
彼は頁の一枚を引き抜いた。そこには細密な図が描かれていた。塔のように連なる輪郭、中心に据えられた円盤、円盤から伸びる赫い線。図の端には小さな文字が並ぶ。ミラがそれを読み、顔色が変わる。
「『眠りを配する装置――記憶の塔に連結し、聖者の血を媒体とす。王家の血を以て、呪いは遂行される』……これは、王家の血が装置と結ばれていることを示している。つまり――」
言葉を沈め、三人は息を呑んだ。図は公には知られていないが、もし正しければ、王家自体が呪いの中核だった。王子の眠りが、彼自身の記憶が、国全体の眠りと直接に紐付けられている。証束で真実を示す力は、単に言葉を集めるだけではなく、その血の結び目をほぐす鍵でもあった。しかし、それは同時に王家の欠片を割くということでもある。
「王宮の下に、装置があるのか」シュウは唇を嚙む。「そこへ行けば、止められるのか?」
「それを止めるためには、装置の連結を断つ必要がある。その時、王家の血が関与していれば、王子殿下が直接行動を取らねばならない可能性がある」ミラは静かに言った。「でも、もし強制的に連結を断とうとすれば、呪いは暴発する。眠りを奪われた者たちが一斉に目覚めるわけではない。むしろ、眠りを失う範囲が広がるという記録が、この断片にはある」
沈黙が落ちる。外の足音は一定のリズムで近づき、やがて扉の隙間に鉄の影が見えた。見張りがこちらに気づく前に、決断を下さなくてはならない。
カイリスは自分の胸を触った。そこにぽっかりと空いた穴がある。母の顔を思い出そうとしても、輪郭がぼやけてしまう。代わりに、紙上に映し出された女たちの恐怖と、子供たちの冷たい肌触