海召喚 第7話「第6章」
風が海を引っぱる。早朝の港はまだ眠りを振り切れず、潮の匂いだけが針のように冷たかった。蓮は岸壁に立ち、濡れたロープを握りしめたまま、海面をじっと見つめる。空は鉛色の雲で覆われ、雲の底がゆっくりと海に触れに行くように見える。漁仲間たちの足音や板と板がぶつかる音が、彼の耳には遠く届いた。
風が海を引っぱる。早朝の港はまだ眠りを振り切れず、潮の匂いだけが針のように冷たかった。蓮は岸壁に立ち、濡れたロープを握りしめたまま、海面をじっと見つめる。空は鉛色の雲で覆われ、雲の底がゆっくりと海に触れに行くように見える。漁仲間たちの足音や板と板がぶつかる音が、彼の耳には遠く届いた。
「大風が来るぞ。今日は大掃除だ、早く動け」
久蔵の声はいつもより低く、怒鳴るでもなく命令でもない。港のリーダーの口調だ。愛那はその命令を受け、若者たちを仕切りながらも時折蓮の方を見た。彼女の瞳は硬く、唇にはいつもの軽口の影はない。
蓮は水桶に顔を寄せ、海水を一掬いすくい上げた。掌を満たす冷たさが、骨まで浸みてくる。条件は単純だ。視界に海を、手に海水を、声に言葉を。だがその単純さが、幾重もの代償の扉でもあった。
「蓮、無理するなよ」
ソロが言った。外地から来た男の声は理屈の硬さだけでなく、少しだけ優しさを含んでいた。彼は蓮の脈を手早く確かめ、首を振る。機械仕掛けのように冷静なソロが、ここまで感情を見せるのは珍しい。
「この港を守る。避難の指示だけじゃ、間に合わない場所がある」
蓮は答えた。声は震えていなかった。彼の中には、前世の漁師としての身体の記憶と、ここで生きる者たちを守るという新しい責任が同居している。守るべきものがはっきりしているから、やるべきこともはっきりしている。
準備は簡単に見えた。港の出入り口に沿って古い漁網を張り、割れやすい波止場の板を支える。だが蓮のやることは、それだけでは終わらない。彼の役目は潮流を読んで海自体を一時的に和らげることだ。今日のような巨大な嵐には、普通の防波堤や人の手だけでは太刀打ちできない。
「銀の貝、出すか」
愛那が小さな布袋を差し出し、蓮は中の貝殻を取り出した。それはいつも彼の釣り道具と一緒にあった、銀色に光る小さな貝。普段は何の変哲もない。だが今朝、貝殻の縁に微かな細工が見える。指先に触れると、ほんの一瞬、暖かさが走った。
「やるなら、手順は厳守だ。海を見る、海水を掬う、声を出す。俺たちは人を傷つけない。分かったな」
久蔵が念を押す。彼は頬にしわを寄せて蓮を見た。憂いがある。若い命を危険に晒すことを本意にしない老人だが、今日は別だ。ここを守らねば、多くの家が流される。
蓮は深く息を吸い、海を見た。水平線のわずかな曲線、波の黒い稜線、そして風に引かれて白くなる波頭。視界に海がある。桶には先ほどすくった一掬いの海水が光っている。蓮はそれを手の平に留めたまま、口を開く。
「潮、来たれ」
その声は低く、だが港の中では驚くほどはっきりと響いた。三つの条件を満たしたとき、海は答える。
最初は小さな振動だった。掌の海水が軽く震え、銀の貝がかすかに鳴った。音とも言えない音が、貝殻の内部から漏れる。愛那が手を置いたとき、貝はさらに応え、縁に浮かんだ細い紋が淡く光る。ソロは手早く持参した器具で海面の流速を測った。器械は通常の値を示さず、むしろ数字が揺れていた。
蓮は腕を伸ばし、思考を手先に集中した。海を「呼ぶ」とは、ただ水を動かすことではない。彼は流れの意志を導く。魚の群れの移ろいを読むときと同じ感覚で、潮のうねりに呼びかける。言葉を添えて、彼は水を導き、波を丸め、港に向かってくる刃のような波の角を折り畳んでいった。
最初の一撃――海面がぐっと抑えられ、恐ろしいほど高い波が港の外で砕け散る。その瞬間、港では誰もが一呼吸を飲んだ。残ったのは、柔らかい波紋。堤防の縁で子供たちが走っていないのを見て、蓮の胸は冷えた。成功だ。だがそれは、多くの代価を伴う成功でもあった。
使用後、全身の水分が抜けるような感覚が襲った。口の中が紙のように乾き、足元がふらつく。手から掌の潮柄が、うっすらと浮かび上がる。最初は蚯蚓腫れのような細い線だったが、すぐにそれは暗い青の紋となって、蓮の腕を這い上がり始めた。彼は力を振り絞って立ち続けたが、体は怒鳴り声を上げるように疲労を訴えた。
「蓮っ!」愛那が駆け寄る。彼女の手は迷わず彼の肩を取った。顔は真っ青だ。普段の軽やかさは消え、守り手の血筋に残る何かが硬く顔を引き締めている。
「休め。今すぐ、ここから離れろ」
久蔵の声がさらに冷たくなった。だが蓮は首を振る。彼の意志は鋼のように固かった。守るべきはまだ残っている。港にはまだ屋根が飛ばされかけた家屋があり、老人が砂で水路を塞ごうとしている。彼の手が震えているのを見て、蓮は再び立ち上がった。だがその一歩ごとに、胸の奥に重苦しい痛みが刺さる。
ソロが近づき、低い声で分析を告げる。「脱水反応。心拍は上がっている。応急処置が必要だ。彼を無理に動かすな。外科的に補給しないと、数日は戦力外だ」
蓮は薄く笑った。笑いはすぐに消え、口から苦みだけが溢れた。手に残る潮柄が痛む。彼はそれを見つめながら、心のどこかで恐怖が芽生える。代償の一つは、確かに寿命を削るということだった。まだ若いのに、肌に刻まれる模様は年輪のように彼を老いへと押しやるのかもしれない。だが今は迷っていられない。
「とにかく、港は持った。だが……」ソロは紙片を差し出し、港の外の海図を指した。「補填の影響が出ている。ここからここまでの海面が下がる予測が出ている」
愛那の顔が蒼白になる。誰かが叫び、遠くの見張りが通信をもたらした。揺れる声で伝えられたのは、別の小さな島の名前だった。その島は、数日後に戻るはずの漁場であり、親戚の家のある場所でもあった。
「沈んだって……?」
誰の問いかけかもわからなかった。だが声は確かに届いた。補填による水の移動が遠方で極端な干上がりと、連鎖的な地盤の崩落を招いていた。蓮の胸に重い石が落ちる。自分の行為が、誰かの家を失わせる可能性がある。
「蓮のせいだ、かもしれない」
久蔵が言った。声は震えている。責める言葉ではない。むしろ、老いた男の悲しみが混じった告白だ。彼は違う選択肢があったのではないかと、自問したに違いない。
蓮は黙ってうつむく。言い訳はできない。能力の説明書のように、補填は必ずどこかで穴を開ける。小さな勝利は、どこかの喪失を伴う。だがその重みをどう引き受けるかは、使う者の責任だ。蓮はその責任を背負うと決めた。その夜、彼はその責任を最初に味わった。
その夜、更に別の嵐が駆けて来るように、島ではうごめきが起きていた。港の端で、若い男が荷物をまとめていたのを愛那が見つける。月は雲に隠れ、暗い岸に人影が凝縮している。タケルだ。彼は昨夜からふらつきがちで、何か隠し事をしているように見えた。愛那は気配を消して近づき、彼の背中を見た。
タケルの手は震えている。彼の袋には紙切れが押し込まれていて、そこには見覚えのある社章が印刷されていた――商団の紋章だ。
愛那の胸に冷たいものが降りた。タケルは商団と接触があったと、以前に噂された。だがそれは、借金の取り立てや小賄賂に絡む程度だとばかり思っていた。彼が荷物をまとめ、島を離れようとしているのを見て、愛那は言葉を詰まらせる。
「タケル!」
呼びかけた。タケルは振り返る。顔には涙が滲んでいた。
「ごめん、愛那。俺は……」
断片的な言