海召喚 第6話「第5章 潮の代償」
潮の匂いがいつもより重く島の朝を満たしていた。犬の遠吠え、浜に打ち寄せる小石の乾いた音、そして港の方角から聞こえる人々の声。蓮は甲板に立ち、両目を水平線に据えた。視界には低く横たわる海面。条件は満たされている──海がある、海を見ている。
潮の匂いがいつもより重く島の朝を満たしていた。犬の遠吠え、浜に打ち寄せる小石の乾いた音、そして港の方角から聞こえる人々の声。蓮は甲板に立ち、両目を水平線に据えた。視界には低く横たわる海面。条件は満たされている──海がある、海を見ている。
「被害が出てる島は五つだ。報告が重なってる」
ソロが地図を片手に告げる。波の揺れに合わせて紙が細かく震えた。ソロの顔はいつもより厳しく、計器の数値を指でなぞるたびに眉が寄る。
「南の三つは浅瀬が割れて、漁場ごと落ちている。北の二つは地盤ごと沈下の兆候。いずれも同時刻に始まっている。確率的に偶然とは思えないよ」
「それが複数同時って……どれも人家がある。漁民が避難してるって連絡はあるけど、漁場が消えたら暮らしが終わるんだ」
愛那は港の岸壁にもたれて、古い潮流図を指でなぞっていた。彼女の声は冷静だが、目にはいつもより光が宿っている。古い地図の折り目に、誰も指さないような記号が眠っているのを蓮は見逃さなかった。
蓮は深く息を吐いた。何をしたいのかははっきりしていた。島々の漁場を守ることだ。守るためなら、できる限りのことをする──ただし規則は守る。海召喚には三つの条件がある。海を見ていること。自分で一掬いの海水を持っていること。短い掛け声を声に出すこと。加えて、禁止事項だ。生き物を直接殺めてはいけない。封じられた海域を無理に侵してはならない。人の意志を操って海を使わせてはならない。それを破れば、守るという目的自体が歪む。
蓮は波打ち際にしゃがみ、両手で小さく海水を掬った。コップ一杯にも満たない量。冷たさが手のひらにしみ込む。銀の貝はいつものポーチの中で、かすかに暖かく振動していた。蓮はそれを取り出して、指先で撫でるように握った。貝は銀色の光を弱く放ち、表面にうっすらと紋様が浮かんだ。
「潮、来たれ」
短い掛け声。言葉が海の耳に届くように、蓮は低く、しかし鮮明に念じた。視界に海面を捉え、手に海水を持ち、言葉を紡ぐ。これが海召喚の儀式だ。最初の一呼吸で、近傍の海水が答えた。水面が音もなく吸い寄せられ、港の周辺の水位がほんのわずかに上がる。小舟の舷側がふっと浮き、網の絡みがほどけた。
それは小さな勝利だった。漁場を守るための応急処置だ。だが蓮はすぐに体中に波のような倦怠を感じた。のどが渇き、瞼が重くなる。使用後の脱水は常にやってくる。今日はその第一波が早く訪れた。
「無理するなよ、レン」
久蔵が席を外してきて、蓮の肩を掴む。その強さは父親のようであり、言葉は少なくとも重い。蓮は咳をして笑った。「大丈夫、昼寝すれば治る」。だが久蔵の目は揺れていた。あの目は、彼がいかに蓮のことを怖れているかを映していた。力の重さを知る者の、諦めにも似た恐れだ。
港だけでは足りないと判断し、蓮たちは小型船団を出した。被害の深い島々へと向かう。航路は途切れ、海面は所々で波を喰われたように凹んでいた。そこにいる人々を助けつつ、漁場の水位を安定させるために、分散して小さな召喚を繰り返す──ソロの提案した分散召喚だ。個人の負担を減らすため、頻度を上げて小さく、しかし複数箇所に施す。理屈は単純だが、実行は骨が折れた。
「ここが一番深刻だ。網が底に張り付いてる」
タケルが指差した浅瀬では、縄や網が岩に絡まり、漁具が沈みそうになっていた。略奪者の話も出ていた。昨夜、救援物資を狙う影が見られたという。
蓮は岸に腰をかけ、また海を見据えた。目の前に水平線があり、手には一掬いの海水。銀の貝はポーチに触れると瞬間的に光った。使うべきか、悩む余地はなかった。彼が声を上げると、合図のように愛那が古歌の一節を低く口ずさむ。彼女の声が潮との位相を整える。複数の者が作用を合わせれば、効果は増幅される。だが増幅には代償も等比例して付いてくる。
「潮、来たれ」
蓮はまた短く唱え、海水を引き寄せた。今回の召喚は三点同時の小規模安定化だ。浅瀬の網が浮き、漁具は救われた。船団の誰もが歓声を上げたが、蓮の胸は重かった。額に汗が浮かび、頭がふらつく。脱水は確実に蓮を蝕んでいく。彼は膝を抱えて地面に転がるように座り、口を湿らすために紙パックの飲み物を手にした。
「回数が増えると、補填の位置も増える。これが問題なんだ」
ソロがタブレットの画面を指で押して示した。海面の変化を示す衛星画像のコマは、蓮たちの操作した海域と遠く離れた別地点の潮位低下が同期していることを示していた。色が変わる点線が、補填穴のパターンを描いていた。
「補填……穴、だって?」
愛那が俯いて言った。潮を呼ぶたびに「どこか」で穴が空き、別の海域で水位が下がる。小さな代償のはずが、複数回に渡ると遠隔地に実害を出す。ソロの分析は冷静だが残酷だった。
「確率的には、呼び寄せた水がどこかを薄くする。局所的には助かるけど、遠隔で別の漁村に影響が出る。今のところ、パターンは円弧状──一つの軸を中心にして補填点が線を描いている」
ソロの声が痺れるほど正確に響いた。彼は目に見えない数式を操る手つきで、海の振る舞いを紐解こうとしている。理屈は分かっても、帰結が心を締めつける。
「だからやめろって言うのか?」
蓮は口を振った。手の中の銀の貝が微かに震え、表面の紋様がほんのわずか濃くなる。たとえ代償があっても、目の前の人間の生活を守らねばならない。だが同時にそれが別の誰かを危険に晒すなら、決断は重い。
その時、遠く沖合いから携帯無線の断片が届いた。声は絞り出すように薄く、焦燥に満ちている。
「……こちら、南東の浜、干上がってます! 潮が消えた、漁場が干上がって、魚が……餓死する前に、誰か!」
無線の声はそこで途切れた。誰かが受話器を握る手を硬直させた。蓮の胸が冷たくなった。
「俺のせいかもしれない」
蓮が呟いた。口に出すと、それは鋭く現実に触れた。補填の穴は、まさに今この瞬間に遠隔地の海を奪っている可能性がある。自分の行為が別の人々を傷つけている。選択が目の前に重くのしかかる。
「わからない。だが、データの相関は強い。蓮が連続して使った海域と、干上がった浜の座標が一致する傾向がある」
ソロは言葉を濁した。科学は答えを示しても、倫理的な答えを与えはしない。それは人間の仕事だ。
「だったら……どうするんだ?」
タケルの声が震えた。彼の表情には怒りの影が差す。被害地の人々の顔が浮かぶ。彼らを救うために蓮は動いた。だがその行為がどこか別の場所を傷つけるなら、行為は正しいと胸を張れるだろうか。蓮は自分に問うた。
「まずは現地の救援を続ける。俺たちがここで止めれば、今目の前にいる人たちが困る。だけど、同時に補填のパターンを追う。原因を突き止めるまでやめない──とは言えない。やめどきは必ず必要だ」
蓮の言葉はひどく弱々しかった。だが仲間たちは彼の決意を汲んだ。愛那は顔を上げ、見つめる目に決意が宿る。
「古い書物にあったマークが、こういう補填パターンを示しているわ。潮がどこを取るか、遠いところまで計算されていたのかもしれない。私、調べる」
愛那は張り出した地図に手を伸ばした。彼女の指先が一つの記号を擦ると、その古い記号と現在の補填パターンが妙に一致しているのが見えた