海召喚

海召喚 第4話「第3章 潮の代償」

磯の風が港町の屋根を撫でる朝だった。空は低く、灰色の雲が水平線を押しつぶすように横たわっている。どこかで波が高まる音が、いつもより鋭く岸に届いていた。

磯の風が港町の屋根を撫でる朝だった。空は低く、灰色の雲が水平線を押しつぶすように横たわっている。どこかで波が高まる音が、いつもより鋭く岸に届いていた。

浜田蓮は堤防の先端に立ち、視界に広がる海をじっと見つめていた。目の前に広がるのが条件だ。水平線と波面。岸辺ぎりぎりにいる波を、そのままの状態で視界に保つこと。手のひらにはコップのように掬った海水がある。冷たく、少し磯の匂いが混じった塩の苦さ。三回目の使用を想定して、ポケットの布で小さな容れ物を作り、それに海を入れていた。短い儀式の言葉が舌先に張りついている──「潮、来たれ」。その言葉ひとつが、何かを動かす鍵になる。

「測ってみたか、ソロ?」

後ろから声がして、蓮は振り向いた。ソロが手に小型の携帯装置を持っている。外地から来た青年はいつも白衣の端を袖に押し込み、合理的な視線で海と装置を交互に見る。

「潮位の上昇は確実です。半日で三十センチ近く。風向きも悪い。避難指示は出るだろうが、舟は動かせるうちに動かしたい。防波堤の痛みもある」とソロは言った。声には冷静さがあったが、目は隠せない不安を映している。

愛那は瓦屋根の上から降りてきて、蓮のそばに立った。彼女は船大工見習いらしく、腕に薄い切り傷がある。笑みを浮かべながらも、今日は笑っていられない顔だった。

「港の舟は全部避難させる時間がない。漁具を置いていく家もある。蓮、どうするつもり?」

蓮は海を見たまま、手の小さな器をぎゅっと握りしめる。指先に伝わる冷たさが、心を落ち着ける合図でもある。彼の内側は前世からの感覚で満ちている。潮の息遣い、魚の群れの動き、濁りの先にある岩の位置。ここでできることとできないことが、肌感覚で分かる。

「小刻みに……水をずらして、波の角を変えてやる。防波堤と港口の波をずらせば、舟は外に出やすくなるはずだ。大きなことはできないけど、数回に分けてやれば時間は稼げる」

愛那が目を細める。ソロは装置の数値をまた見た。

「分散召喚に近いね。でも注意しろ。データが示しているのは、局所的な水位の変化は遠隔で補填を起こす、ってことだ。君のやり方なら効くかもしれないが、補填がどこへ行くかまでは予測できない。短時間で何度もやると、その補填の影響が大きくなる」

蓮はうなずいた。覚悟はあった。守るべきは目の前の暮らしだ。自分の力の代償は知っている。使うたびに体が水を失うように熱を帯び、後に強い脱水と疲労が来る。重いものほど返りは大きい。だが、眼の前の家族や幼馴染の笑顔が風に揺れているのを見れば、手を下ろすわけにはいかない。

「なら、分けよう。俺が中心を操作して、君たちは運び出しを手伝ってくれ。網を持って、子どもたちを避難させる。時間を稼げれば、被害は減る」

愛那の手が、蓮の肩にすっと触れた。短い、その温度は、決意の確認だった。

最初の海召喚は儀式としては最も短いものにした。蓮は海を直視し、器に掬った海水を片手に持ち上げる。呼吸を整え、声を出す。声は小さく、だが確かな音だった。

「潮、来たれ」

水面が答えた。ほんの一瞬、海が沈黙したように静止し、次の瞬間に波が滑るように内側へと折れた。波頭は鱗のように整い、防波堤に当たる角度が変わる。港口が短く、深く、静かになった。その間に漁師たちはロープを取り、舟を押し出す。手際よく、慌てずに。蓮はほんの小さな動きで、数隻の舟の航路を作った。

だが声を出すたびに胸が熱くなり、喉が渇く。手の中の海水は変わらず冷たいが、体内の水分が空気のように抜けていく。蓮はそれを知覚した──頭の奥が軽く波打ち、立ちくらみがする。顔の内側が熱く、唇がひび割れそうに乾いていく。

「大丈夫か、蓮?」

愛那が声を張る。蓮は笑って見せた。笑いは薄かった。

「平気。二回目をやる」

二回、三回とやると、海の返答も微かに変わる。魚群が潮の流れに合わせて踊り、きらきらと銀色の尾が水上に散る。海中は一瞬、楽器のように振動し、音が消えるようだ。だがソロの装置は数字を上げている。補填のサイン。遠隔地で水位の低下を示す赤い点が地図上に現れ、消えるとまた別の点が現れる。蓮はそれを見て胸が痛んだ。

「戻っている。補填の位置がずれている。君がやった地点の向こう側で、低下が始まった」

ソロの声がささやきのように聞こえた。蓮は肩を震わせながら三回目を唱えた。空気が引き締まる。海が口を開けるように動き、風の向きも変わった。港口の波は整い、舟は嵐の前の静けさの中を抜けて行った。

だがそのとき、港のはしにいた老人が遠くを指差した。「向こうの浜が干上がるぞ!」

誰かが叫び、視線が一斉にそちらへ向いた。蓮は見た。遠い岬の先、普段は海面で隠れている岩礁が、その日の光の中で鋭く浮かび上がっている。細かな波のしぶきすら見えない。子どもが泣き出す音。空気に走るひしゃくのような悲鳴。

その知らせは、町の人たちの顔を暗くした。儀式のたびにどこかへ何かが与えられ、どこかが奪われる──それが現実になった。蓮の手の中に残る海水が、いつのまにか熱を帯びていた。喉がひりつく。体が砂の中の貝殻みたいに乾く。

「ごめん……」

蓮の言葉は風にかき消された。謝罪は意味を持たない。だが彼の胸には強い責任があった。守るために動いた結果、別の誰かが痛みを受ける。そう思うと手が震えた。

「お前は気負いすぎる」と久蔵の声が背後から来た。漁師長の久蔵は蓮の背に手を置き、ぐっと押した。「できることはした。だがお前一人で全部背負うな。海は──人のものだが、海自体は人の思い通りにはならねえ」

愛那が蓮を見返した。目に涙が溜まっているのが見える。彼女はそっと蓮の手から海水の器を取り、小さな貝殻──銀の貝を差し出した。それは普段は釣りの飾りや潮の合図に使うだけの小物だった。だが今日の彼には、それが小さな救いに見えた。

「これで休め。少しは楽になるかもしれない」

貝を握ると、蓮の体に走る熱が少しだけ和らいだ。まるで誰かが肩を撫でてくれたような感覚。ソロは装置を蓮に向けて数値を取る。

「生体反応が急に安定した。貝に何らかの共鳴がある。回復を早める可能性……厳密には因果が示せないが、体感的な改善は確かだ」

科学者の言葉に、周りの者たちが少しだけ安堵した。だが安堵は長くは続かない。夜が深くなると、港の外側で誰かが金属片を見つけたという噂が走った。浜に打ち上げられたその文字なき破片は、普通の船の金属ではない。黒く、縁に奇妙な紋様が刻まれているという。

「見せろ」と蓮は言ったが、立ちくらみが強くなり、指先が冷たくなっていた。銀の貝をぎゅっと握り直す。自分が頼るべきものは島の人の手の中にあるのだと、いつもより強く感じた。

夜の集会場で、商団の使者が町を見下ろすように立っていた。金をちらつかせ、漁場の買収と復興支援を浅い声で持ちかける。だが言葉の端々に投機的な匂いが混ざっているのは、誰の耳にも明らかだった。老人たちの眉が深く寄り、若い者たちの中には怒りが湧いた。

「潮の乱れを利用するのが賢い術だ」と、使者はにやりと笑った。町の空気が冷たくなる。蓮は立ち上がろうとしたが、体が言うことをきかない。喉が乾き、平衡感覚が薄