海召喚 第3話「第2章 買付けの風」
朝の海は薄い鉛色で、風が潮の匂いをさらっていく。浜田蓮はいつものように船の舷に足を掛け、潮の動きを確かめるように視線を滑らせた。海面は遠くで水平線を描き、彼の目の端の安心を満たしている。今日も魚は来る。今日は来るはずだ――その気配が胸を軽く引っ張る。
朝の海は薄い鉛色で、風が潮の匂いをさらっていく。浜田蓮はいつものように船の舷に足を掛け、潮の動きを確かめるように視線を滑らせた。海面は遠くで水平線を描き、彼の目の端の安心を満たしている。今日も魚は来る。今日は来るはずだ――その気配が胸を軽く引っ張る。
「蓮、あんたの顔が海に馴染みすぎてるよ」と海乃愛那が笑いながら言った。彼女は濡れたロープをひとつまみし、肩越しに町を見渡す。船大工見習いの手は荒れているが、動きは正確で早い。昼には買付けの使者が来るらしい、と愛那が呟く。島の人手が増えれば助かるが、いい話とは限らない。
港には見慣れない黒い帆の小船が停まっていた。帆には金色の細い線が走り、町の誰もが見たことのない意匠だ。船を寄せたのは作りの良い外套を着た中年の男で、腰に小さな封筒を提げていた。彼は商団の下見役らしく、話し方はやわらかで、目は冷たかった。
「浜田家の若い方ですね。蓮様――」男は蓮を見ると、名刺のような紙片を差し出した。「こちらの商団は、漁場の管理と整備を申し出ています。資金を出します。島の皆さんに安定した収入を——」
久蔵が前に出て、腕組みをして商人を睨んだ。養父代わりの漁師長だ。声は低く、島の風に馴染んだ。
「うちは金で買われるような漁場じゃねえ。ここで子や孫が魚を追う。それだけだ」
「ごもっともです。ですが時代は変わりました。沈みつつある——その前に手を打ちませんか? 我々は復興と開発の資金を回せます。漁場の買収価格は破格です。考えてみてください」
商人の言葉には濡れた誘惑が混じっていた。遠くで鴎が鳴き、網を繕う婆や子どもたちの声が港を満たす。蓮はその声を守りたいと思った。金は人を助けもするが、日常を壊すこともある。彼が今、何より恐れているのはその静かなすれ違いだ。
「そんな話は断る」と久蔵は言い切った。だが島の中には、生活のために思案する者もいた。買い替えで家を直し、子供を町に出すという声が小さく聞こえる。商人は笑みを崩さず、誰が売っても構わないと示唆した。群島は価値が変わる、という言葉だけが空気に落ちる。
蓮は差し出された謝礼の包みを受け取る子どもの父の手が震えるのを見た。彼は包みを強く払いのけ、声は小さかったが堅かった。
「金で守るものもあるかもしれねえが、うちの守りは買えねえ」
その夜、港の灯りが一つ、また一つ消えたころ、沖合いに一列の光が揺れた。密漁者の灯りだ。珍しい夜光魚を狙う者たちが、浅瀬の網を仕掛けている。町は怒りを押し殺し、鍵をかけて眠っている。だが蓮の目は眠らない。彼は「海を見ている」ことが多い男だった。夜の海面は、昼とは違う表情を持つ。水平線に線が入ると、彼は立ち上がった。
「蓮、行くのか?」ソロが出てきた。外地から来た船医見習いで、物言いは冷静だ。工具箱と小さな望遠鏡を肩にかけている。だが彼の指は器用にロープを解き、波の読み方も心得ている。
「見てられねえ。行こう」
作戦は簡単だった。密漁者を殺さず、網を外し、群れを散らしてしまえばいい。禁止されているのは「生き物を殺すこと」であって、水を操って人を直接傷つけることや、封じられた海域を侵すことではない。だが「他者の意志を操作して海を操らせること」も禁じられているから、身体を勝手に動かすような術は使えない。蓮はいつもの通り、慎重に条件を確認した。
彼は岸に座り、両手で夜風を掬うように小さな海水を掬った。指の間に収まる程度の量だ。身につけた小瓶にはいつも海水を少しだけ入れてあるが、儀式では「自身で一掴み」が肝心だ。彼は水平線を見た。視界にしっかりと海面が入っている。三つの条件が満たされた瞬間、彼は低く呟いた。
「潮、来たれ」
声は祈りのように短く、だが確かな振動を帯びていた。海面は反応した。水が一度、息をするように沈み、次の瞬間、静かな流れが彼の方向へと伸びる。水の輪郭は黒いリボンのように波間を滑り、月光を薄く反射した。蓮の手の掌の海水は冷たく指に纏わりつき、彼はそのひんやりとした重さを感じながら、持って行った海の一掬いを通して大きな海とつながる――という感覚をいつも味わった。
だが今回は、銀の貝がポーチの底で震えた。小さな振動が蓮の掌に伝わる。彼は無意識にそれを握りしめると、貝の表面が薄く光った。愛那の祖母が言っていた「潮の歌の欠片」という言葉が、ほんの掠める。
水の流れは丁寧に、網を包むように動いた。網を張っていた棒杭の周りに渦が生じ、網そのものをゆっくりと締め上げる。漁具は壊れず、網は人の手元から外れていく。密漁者たちは驚き、叫び、海面に向かって手を伸ばす。だが彼らを押し流すことはしなかった。蓮は網だけを拾い上げ、魚の群れに道を開いた。夜光魚は光の帯を残して水中へと逃げ、灯りは無益に揺らめいた。
「うまくやったな」ソロが言う。言葉の裏に安堵が滲む。いつも科学的に舌鋒を振るう彼が、魔術的な行為の手助けをすることは少ないが、今は違った。二人は船で網を回収し、密漁者の小船を無力化するように浅瀬の砂地に引き寄せた。人間を傷つけるつもりはない。網を盗ませないようにし、取った魚を外へ放つ。密漁者たちは怒りを吐くが、そこには死の恐怖はない。
儀式の代償はすぐに来た。蓮の体は砂の上に座った瞬間、猛烈に喉が渇いた。頭がふらつき、汗が背中を伝う。海水の一掬いを経由して引き出した力は、彼の体内の水分を容赦なく奪った。唇は乾き、舌がもつれる。腕の筋肉が重く、足元が頼りなくなる。
「蓮、しっかりしろ。水を飲め」とソロが真剣な声で言い、携帯用の水筒を差し出す。蓮はそれを受け、少しずつ飲んだ。水は骨に染み渡るように冷たく、体の奥の乾きを溶かす。だがソロの顔に浮かぶ数秒の計算の跡は消えない。彼はデータを取ったかのように、蓮の脈拍と息づかいを測る。
「この使い方だと、半日は使い物にならないな」とソロは淡々と言った。「拡張的な召喚でなくても、こんなに消耗するとは」
「でも、人は助かった」と蓮は低く返す。疲労が口にへばりつき、言葉を絞り出すのが精一杯だった。
港へ戻る途中、愛那が待っていて、手元の帆布を撫でた。「あの帆、見覚えあるよ。島から三つ向こうの港で見たことがある。あれの連中、外の商団とつながってるかもしれない」
「商団か」と蓮は答え、手を胸に当てた。胸の下で潮柄が微かに疼くのを感じる。初めて浮かび上がった細い模様は、まだ色も薄く、寿命に関わるほどではなかった。だが確かな印としてそこにある。
久蔵が港の端で二人を待っていた。彼の顔には疲労と決意が交じる。商団の話は簡単には終わらない。夜の出来事が公になれば、島はもう一歩外の目に晒される。蓮は黙って久蔵の肩をたたいた。手は塩で少しざらついていた。
「報酬は受け取れ」と小さな男が駆け寄ってきて、先ほどの子どもの父親が土下座のように礼をした。「これ、みんなからの感謝です。家族を守ってくれて――でも、蓮、受け取ってくれ」
蓮は首を振った。紙包みの重さが、今この手にとっては違和感に思えた。
「金で測れるようなことじゃねえ。俺にできるのは、海を呼ぶことだけだ。日常が続くなら、それでいい」
彼の言葉は小さく、港の喧騒の中で一つの真実を