王女騎士

王女騎士 第5話「第4章」

朝の風は、まだ冷たさを残していた。城塞の石壁に差し込む弱い陽光は、昨夜の煙と泥の匂いを、どうにも消しきれないままにしている。兵たちが組んだ簡易の防壁に沿って行き交う人々の顔には、安堵と不安が混じっていた。ミアはその列を見渡しながら、細い息を吐いた。彼女が今欲しいのは、剣の一振りでもなく、立て直すための時間と医薬品、それから誰かに「もうやめろ」と言って欲しい気までもあった。

朝の風は、まだ冷たさを残していた。城塞の石壁に差し込む弱い陽光は、昨夜の煙と泥の匂いを、どうにも消しきれないままにしている。兵たちが組んだ簡易の防壁に沿って行き交う人々の顔には、安堵と不安が混じっていた。ミアはその列を見渡しながら、細い息を吐いた。彼女が今欲しいのは、剣の一振りでもなく、立て直すための時間と医薬品、それから誰かに「もうやめろ」と言って欲しい気までもあった。

「治療班、ここに集まってくれ。負傷者の右腕を優先で回す。感染が疑われる者は隔離する。手袋と煮沸器を忘れるな」

エリナの声は、まだ震えているが命令は確かだった。彼女は昨夜、広場で最初に民衆をなだめ、古い守衛家系の代表と対話を結び、夜明けに向けてこの場を治めた。ミアはその横顔を見て、守るべきものの重みを改めて感じる。

「薬はもうほとんどない。リサ、お願いできることは?」

若い薬師――リサは目を輝かせて近づいた。彼女は簡素な棚の前で、瓶や布切れ、木の臼を並べている。片手には虫食った狐の毛のような小さな筆を持ち、顕微鏡代わりに使っている拡大レンズを覗き込む癖があった。

「消毒液は蒸留し直しています。絆創膏は布で代用。後は野草の煎じ薬がいくつか。あ、それと――これ、昨日地下で見つけた金属片、少し拝借していいですか?」

リサが差し出したのは、小さな欠片だった。欠けた徽章の破片だ。金属の表面に微かな刻みと、歯車のような微細な溝が見える。ミアはそれを受け取り、しばらく指先で回した。手の中で冷たく、そして妙に馴染む。徽章はひんやりと、しかしどこか温度を帯びているようにも感じられた。

「指紋がついてるな。洗ってもいいか?」

リサの瞳が真剣だった。ミアは頷いて、簡易の水壺で徽章を洗わせた。リサはルーペで縁を丹念に調べる。薬師としての彼女の手つきは、治療だけでなく、物を分解して意味を探る行為に落ち着きを見せた。

「金属自体は非凡な合金だわ。温度応答が普通の鉄や銅と違う。微細な共鳴がある。……『位』に反応する、とまでは言えないけれど、確実に何かの機構だった痕跡がある」

「機構?」

「小さな歯と暗号みたいな刻み。単なる装飾ではない。古い守衛の印として使われた、と聞いていたけど、もしかすると機械の一部なのかもしれない」

ミアは徽章を握りしめた。まさかこんなものが、ただの象徴ではないとは思わなかった。だが今は象徴よりも目の前にある傷の方が優先だ。広場の反対側から、負傷者を運ぶ声がする。昨夜の戦いで打たれた者、押しつぶされた者、火傷した者たちが列をなし、治療を待っている。

「ミア、お願い」

エリナが近づく。彼女の白い手は、昨夜の砂と血で薄く赤く染まっている。それでもその目は真っ直ぐだった。ミアは一瞬、胸の中で何かが固まるのを感じた。守るという言葉が、重く、温かく降りてくる。

彼女は自分が持つ力のことを、言葉で理解している。盟誓の盾は誓いを交わした相手の傷と痛みを受け取り、一定時間その体力と感覚を共有する。発動には声に出すこと、相手の名を宣言すること、そして近接――三十歩以内であること。認証は手の接触か誓印で行う。万能ではない。死を救えず、他者の意志は操れない。代償は毎回、肉体年齢が一つ進み、記憶の一片が失われ、印が刻む弱点を残す。

だが、言葉にしているだけでは何も変わらない。ミアはエリナの手を取った。皮膚はやや冷たく、震えている。互いの距離は、誓いのための条件に十分だった。

「守る、エリナ・ヴェル」

声に出すと、言葉は空気に吸われるように沈み、彼女の胸の内でまた光を灯した。手が触れ合った瞬間、何かが波紋のように広がった。視界の端で、周囲の空気が細かく震える。エリナの肩の傷から、痛みがずるりと引き剥がされる感じがした。代わりに、ミアの脇腹に鋭い痛みが差し込み、息を奪った。

「っ……!」

ミアは瞬間、膝を折りそうになるのを堪えた。痛みは複雑だ。切り傷の焼けるような痛み、鈍い打撲の広がり、胸の奥から響くような吐き気。それはエリナが先ほどまで感じていたはずのものだった。ミアは目を閉じ、口の端で笑うしかなかった。嘘は嫌いだと言いつつ、自分のやるべきことは嘘のように容赦なく現実だった。

「大丈夫、落ち着いて。私が持つ」

エリナの声が小さく震えた。ミアは頷き、傷の手当を始めさせる。盟誓の盾は、守る対象の体力や感覚、短期的技能を共有する。エリナの手が震えないよう、ミアは彼女の薬箱を開け、指示を出す。傷を縫合する者、詰め物を替える者、止血帯を巻く者。リサは鋭い表情で応じた。治療の手は慣れていた。盟誓で入ってきた痛みを、ミアは噛みしめながら受け止める。

だが代償はすぐに現れる。盟誓を結ぶたび、肉体年齢が一つ進む。ミアは手首に視線を落とした。そこには、薄い線のような刻印が浮かび上がっていた。白い瘢痕が皮膚を横切り、冷たい光を帯びている。盟痕だ。触れると、皮膚の下で針が走るような感触がした。

「……またか」

カエルが隣で低く呟いた。重装甲の男の顔は無表情だが、その目がほんの少し冷たい。彼は昨夜の戦闘で幾つかの判断を的確に下し、隊に欠かせぬ存在となっていた。だがミアの代償のたびに、彼の顔が曇るのを見逃さない。

痛みは徐々に峠を越え、エリナの表情から苦悶が薄れていく。ミアは薬を差し出し、彼女の呼吸が落ち着くのを確認してから、ふと頭の奥で何かが抜け落ちる感覚を覚えた。思い出の断片が、まるで紙片が風に払われるように薄れていく。ミアは慌てて脳裏に過去の映像を呼び戻そうとしたが、そこにあったはずの細かい数字や、かつての夜警の仕事で使っていた倉庫の鍵の番号が、薄れていることに気づいた。

「ミア?」

エリナが心配そうに眉を寄せる。ミアは苦笑いで否定する。

「なんでもない。今日は……今日はまだやることがある」

しかし心のどこかで、消えた記憶が何であったかを探る手が虚しく空を切っているのを感じた。代償はいつも、冷たく正確に徴収される。

治療の合間に、リサは徽章の破片を検査台に並べ、蒸留器で液を加える。小さな火花が金属片の表面に走ると、ルーペの中で微かな歯車が回るように見えた。リサは眉を寄せ、細い筆で微粒子を掬いながら呟いた。

「これ、ただの機械の痕じゃない。符号のような――暗号の並び目がある。古い守衛の印だと説明されているけど、何かを『識別』するためじゃないかしら」

「識別?」

「この刻みが合わさると、ある形状の磁場が発生する。測定器はないけれど、私の手でも小さな振動が分かる。もっと精密な器具があれば、何かが分かるかもしれない」

ミアは徽章を手のひらで回し、そこに刻まれた歯を指先で撫でた。微かに温度が変わり、皮膚の感覚がざわつく。それはまるで、古い鍵穴に鍵を当てた時のような確信だった。徽章は単なる証しではなく、何かに嵌るための「合い鍵」である。ミアはそれを直感で感じた。

だが今は戦力の再編だ。外では修復工事の小さな音、子どもの泣き声、そして遠くで鍛冶の槌が打たれる音が混じる。ミアは広場を見回し、集合していた住民の顔を一人ひとり確かめた。彼らは昨日までの恐怖を胸に、しかし一歩を踏み出している。支持は少しずつだが確かに増えていた