王女騎士 第13話「第12章 夜明けの宣言と、揺らぐ位」
「――王女陛下、こちらへ」
「――王女陛下、こちらへ」
広場の朝はまだ冷たく、撤去された武具の臭いが残っていた。木の舞台に立ったエリナ・ヴェルの顔を、民衆は期待という名のざわめきで埋め尽くしている。城塞の石壁から上がる旗は、まだ埃を含んだ色をしているが、それでも高く翻っていた。ミアは舞台脇で腕を組み、周囲の警戒を欠かさずに見渡していた。祝賀の場とはいえ、彼女の目は夜間警備員だった前世の習性を捨てていない。危険はいつも、歓声の陰に潜むものだ。
エリナがゆっくりと口を開いた。声は震えていない。そこには、ただの被保護者ではなく「治める者」の決意があった。
「私たちは今日、ここから新しい始まりを宣言します。追放され、声を奪われた者たちに、帰る場所をつくる――それが私の誓いです」
拍手が高まる。ミアはその手を見た。小さく震える指先を、彼女は見逃さなかった。守るべきものは増えた。だが同時に、守り方も変わるはずだ。
「ミア。あの子たちのところへ行って。傷の手当てを」
エリナの視線は自然で、それでいて確かな命令になっていた。ミアは息を吐き、軽くうなずく。
「わかった。すぐに。」保安の習性が体を動かす。だが心のどこかで、ミアは自分に問いかけていた。これ以上、どこまで払えるのか――。
広場の端に設けられた仮設の診療所は、今朝だけで人の波に溢れていた。負傷は戦闘だけでなく、撤収作業や転倒、古い石段の崩落によるものも多い。リサは包帯と薬液を抱えて流れるように動き、彼女の周囲に小さな秩序をつくっていた。サイムは書類の整理をしつつ、民衆の訴えをうまく切り分けている。カエルは城門の見張りを引き受け、鋼の鎧を脱ぎ捨てればただの大男だと子どもたちに笑われていた。
「ミア、こちら」リサが声をかける。「重い裂傷が二つ。縫合が必要。でも血が止まらない。人数が多すぎる」
ミアは診療台に押し寄せる人々を眺めた。負傷の等級はまちまちだが、重要なのは早急な対応だ。彼女の頭は自然と計算を始める。誰がすぐ動けるか、誰を優先するか。数が足りない。だがミアには他の選択肢がある。それは盟誓――盟誓の盾。だがそれを使えば代償が来る。ここで使えば、多くが救えるが、何かを失う。
リサの瞳が揺れる。「ミア……」
ミアは肩越しにエリナを見た。王女は広場の被災者に向けて微笑んでいる。彼女の目は真っ直ぐで、ミアの心を掴んで離さない。守るべき理由は明確だ。だがルールもはっきりしている。使い方はいつもと同じだ。
条件を、ミアは確認するようにたどる。
・己の意志で「守る」と声に出し、相手の名を宣言すること。
・相手と三十歩以内であること。
・誓いの成立に際して、手が触れるか、誓印で相互認証を行うこと。
ここでは、手を取るのが早い。ミアはエリナに背を向け、一瞬だけ心の中で計算を終えた。失うものが増えている。だが今、座る人々の多くを一度に失うわけにはいかない。
ミアは診療台の前に立つ二人の負傷者に向き直った。重傷の農夫と若い女だった。農夫の傷は深く、血が滲む。若い女は顔に顔面裂創があり、意識はあるが痛みに顔をしかめている。リサが忙しく手を動かす。だが二人には縫合の時間が必要だ。
ミアは深く息を吸った。声が静かに、だが確かに出る。
「守る。ハナ・レグナー」
彼女は若い女の手を取った。接触は短い。硬い掌に自分の掌が触れた瞬間、空気が変わった。視界に青白い光が走り、身体の感覚が張り替えられるような感覚が来た。盟誓の成立だ。
自分の中に流れ込むのは、痛みと重さだけではない。彼女の筋肉の緊張、浅い呼吸、血液の温度。ミアはそれを飲み込むように受け止めて、行動を続ける。手技を始めると、なぜか彼女の指先が若い女の記憶に一瞬触れるような錯覚を覚えた。だがそれはすぐに遠のき、ミアは縫合を完成させた。農夫にも手を伸ばす。二つ目の誓いは同じ手続きで成り立った。声を出し、名を呼び、接触する。誓印は不要だった。
治療は、短縮され、平穏が生まれた。痛みはミアに移り、被治療者はしばらく安堵の表情を見せた。周囲は驚きの声でざわめいたが、ミアは無表情で立ち続けた。能力はこう働くのだ。守る対象の痛みを彼女が引き受ける。体力や感覚、短期的な技能さえも共有される。その一方で、何かが代わりに来る。
リサが息を呑む。「あなた、顔が……」
ミアの顔に、夕方のような線が一つ増えていた。眉間の皺が深くなる。彼女は重い感覚に襲われ、まるで何か大事な棚の引き出しが閉じたかのように思考の一部が抜け落ちた。そこが、代償のひとつだ。使用ごとに肉体年齢が一つ進む。ミアはいつか、自分が年を取ってゆくのを観察するしかない。
そして、記憶が――。
ミアは自分の指先を見つめる。そこに一瞬だけ、前世の小さな数字の列があったはずなのに、その数字の一節が消えていた。どんな数字だったのか、何のためのものだったのか、思い出そうとしても指先の痕跡しか残らない。リサの顔が不安そうに近づいた。
「どのくらい、覚えていないの?」
ミアは答えに困った。失われた記憶は、使用ごとに一つ。どれが抜けるかは無作為だと、彼女は知っている。今日、どの記憶が奪われたのかは、自分でも分からない。だが確かなのは、何かが欠けてしまったということだ。
「分からない。けど、ここは安全だ。もう一度、誰の治療が必要か指示して」
その声は明確だった。仲間に見せる弱さをミアは許さなかった。だが、仲間の表情は変わっていた。サイムが眉を寄せ、カエルが硬い口を閉ざす。エリナはそれに気づき、ミアのところに近づいた。
「ミア、あなた、無理はしないで。代償は知っているはずよ」
「それでも、ここで止められるなら止める」ミアは短く返す。嘘は嫌いだと、彼女は自分に言い聞かせる。嘘で人を安心させるようなことはしない。だが同時に、守る意志は消えない。
群衆の一部から、囁きが聞こえる。「彼女を盾に使ってるのか」「勝利のためなら何でもする」その囁きは剣のように仲間の心に突き刺さった。ミアは振り向いて、その声を上げた者を見据える。だが何も言わなかった。反論は仲間が代わりにしてくれるはずだと期待していた。
その日の昼、正式な儀式でエリナは宣言を行った。民衆を前に彼女は言った。
「この城塞は、すべての人のものです。今後ここは、徴兵ではなく徴援の場とします。皆が等しく、守り合える場所に」
言葉は明快で、重みがあった。エリナは政治の浅さを認め、学び始めている。ミアは彼女の背を見て、新たな責任の重さを理解した。王女はただ象徴ではない。人々の指導者として行動し、時には冷徹な判断を下さねばならない。ミアはそれを支持する。
だが喜びは長く続かなかった。夕暮れにかけて、城塞周辺の人々の中で異様な出来事が相次いだ。鍛冶屋の娘の手先の技術がふと鈍り、普段なら簡単に治めるはずの包帯がほどける。配達人の足が一瞬ふらつき、荷を落としそうになる。数えきれないほどの小さな不安定さが、あちこちで顔を出した。誰もがその理由を知らず、ただ不安を口にした。
「位が、揺れてるのかもしれない」ミロが言葉を漏らした。彼は祝賀の群の外れで、いつものように薄笑いを浮かべたが、その目は虚ろだった。ミロは軽口で場を和ませること