迷宮番 第24話「第22章 カウントダウンの巡回」
管理室の窓越しに、迷宮の奥から薄い振動が伝わっていた。壁に貼られた階層プレートが、いつもとわずかに違う角度で鈍く光る。時計の短針は深夜を指し、外部に設置された換源院の黒いタイマーは残りを四十七分と示していた。
管理室の窓越しに、迷宮の奥から薄い振動が伝わっていた。壁に貼られた階層プレートが、いつもとわずかに違う角度で鈍く光る。時計の短針は深夜を指し、外部に設置された換源院の黒いタイマーは残りを四十七分と示していた。
斎藤誠は手首の登録印を軽く撫でた。冷たい金属の感触が、管理者としての義務を確かに思い出させる。管理室の中はざわついている。ミカは店主仲間の名簿を手に、外部から集めた巡回要員の割り振りを静かに叫ぶ。リナは防具の胸当てを押さえ、出撃の直前に誓いを繰り返すように息を吐いた。クルムはその巨体を管理室の一角に寄せ、古い石像のように動かずに周囲を見守っている。エールはいつものように浮遊し、青白い光を揺らしながらたまに小さな音を立てていた。
「誠、換源院の人間が現場にいる。起動ノードに接続された装置が三基。今夜が一番危ないっていうのは本当だった」とミカが言う。声に震えはないが、目は潤んでいた。彼の祖先の印章を巡る話が、この夜の重みを一層深くしている。
誠は管理盤を開いた。薄暗い部屋の一角に設えられた、古い机と重厚な盤面だ。盤はいつもより厳然とした輝きを放っていた。操作はいつもと同じ手順だが、今夜は違う。外部の敵が既に起動プロトコルを走らせている。彼らに対抗するには、管理盤の能力を短時間に集中運用し、迷宮の位相をずらして遠隔起動の影響を散らすか封じるしかない。だが、管理盤を動かすには条件がある。
「管理室にいること。登録印を自分で押してあること。巡回ログを一件以上記録していること――これが前提だ」
誠は声に出さずに三つを確認した。管理室にいる。登録印は彼の手にある。最後の巡回ログを確認するため、盤面のログセクションを引き出す。そこには今日の昼から夕方にかけて、冒険者たちや町の見回りが提出した短い報告が並ぶ。だがここで足りないのは「量」だった。起動中の装置を相手に、彼は何度も通路再配列と封鎖を行う必要がある。操作一回につき、最低一件の巡回ログが必要だとすれば、二十回の操作を想定するだけでも二十の現地確認がいる。
「人手を一箇所に集中させるしかない」と誠は言った。彼の声は低く、でも揺るがない。外に立っている者たちは互いに目を合わせ、各々が自分の役割を知っている。
ミカは名簿を叩いて掛け声を出す。「商店街、冒険者組合、志願者、記録係を割り振る! エール、外の巡回者を順に管理室に送るんだ。現場確認は写真でも目撃証言でもいい、ただし本人の署名が必要だ!」
エールはくるりと飛んで窓の外へ消え、管理盤のログ受付に直結された小さな転送器を使って巡回者を呼び戻し始めた。パタパタと石畳を踏む音、冒険者たちの重い息づかい、夜の迷宮に慣れた者の短い合図が、管理室のドアの下に集まってくる。ひとり、またひとりと、手書きの短い報告書を提出し、誠はそれを管理盤にスキャンした。スキャンされた文字列がログとして盤上に吸い込まれると、青いインクのような断片が光って「記録完了」の印がつく。
「ここまでで五件。いいぞ、続けろ!」
その作業を続けながら、誠は判断を選んだ。まずは深部三地点の制御ノードに対して同時に防護の位相ずらしを行う。位置をずらせば、換源院が送ってきた起動信号は、ある種の位相不一致を起こして同期できなくなるはずだ。だがそのためには同時に三箇所に反応する複合的な通路再配列と封鎖を行う必要がある。管理盤にとっては筋力のいる最長時間稼働だ。
彼は登録印を指で押し上げ、古い木箱から自分の印章を取り出して盤の脇に据えた。登録印が触れた瞬間、盤が重く唸り、盤上の迷宮図が鮮明に立ち上がった。通路の光が波打ち、数字と記録が浮かぶ。誠はゆっくりと目を閉じ、手を盤に置いた。その感覚は、かつて古びたビルの配電盤に手を触れた時と同じだった。だが今はもっと大きく、もっと重い。
最初の操作を行う。必要ログは既に五件だ。この一回で消費されるのは一件だけだが、誠は複合操作のために一度に複数回分を想定していた。彼はエールの送った即席の巡回報告を素早く取り込み、盤に投入する。内部のフィードバック音が低く鳴る。盤は通路の繋がりを視覚化し、誠の意図を補助するための提案を薄く表示した。彼はそれに沿って指を滑らせ、南区から深部に抜ける三本の回廊を同時にずらした。
通路が音もなく回転し、すれ違いの奥に別の壁が立ち上がる。管理室の窓から見える迷宮の微かな振動が、瞬間的に収まった。だがそれと同時に、別の場所で鈍い落下音が響く。ミカが顔色を変える。
「北市場区で小規模な崩落が起きた。被害は出てるが、怪我人は少ないって連絡だ」
誠はそれを聞いて胸が締め付けられた。代償が現実になっていた。管理盤にはいつもそうだが、何かを安定させるためにはどこか別の場所が代わりに亀裂を負う。彼は代償の存在を頭では理解していたが、実際に聞くと心が痛んだ。記録の片隅で、彼の脳内のある温かな記憶がぼやけかける。母が駅で買ってくれた安い弁当の匂いが、いま、ふっと遠のいた。
「誠、あんた、大丈夫か?」リナの声が不安混じりに届く。彼女の手には新しい巡回報告が握られている。足元に砂埃を残している。
誠は首を横に振ったが、すぐに戻って仕事に没頭した。記憶が薄れるのを恐れていたが、今はそれを問題にしている余裕はない。盤が要求するログを供給し続けねば、換源院のカウントダウンを止められない。
次の操作。今度は封鎖の細工だ。誠はクルムに合図し、古い番人の術を一つ借りる。クルムは石を踏むような低い声で古い言葉を呟く。盤の言語は人間の言語ではないが、クルムの声がその共振点を刺激した。管理室の外で、冒険者がホイッスルを吹く。数十の署名が一斉に盤へ吸い込まれ、ログカウントが一気に増える。
「これでどうだ!」誠は盤の中央のレバーを引く。通路群が複雑に編まれ、深部に向かう主導線が分断された。換源院の遠隔起動信号が届いた瞬間、位相の同期が合わずに反射を起こす。迷宮の内部で高い金属音が一瞬鳴り、外部のタイマーの秒針が一つ遅れたように見せた。
だが代償は確実に積み重なる。誠の視界の端で、ある年の夏の記憶が、砂の城を作った子供の一瞬が、白くかすれて消えかける。彼はそれをつかもうとしたが、指先に触れたのはただの風だった。胸に小さな痛みが走る。肉体はまだ動くが、重い。手が鉛のように沈むのを感じた。
「誠、無理するなって言っただろう」クルムが低く言った。だがクルムも知っている、無理をするしかない夜だということを。
「そんな選択肢はない」と誠は答えた。言葉は疲弊していたが確かだった。「ここを守るって決めたのは俺だ。皆が動いたのはそのためだ。俺が止める」
彼の声は管理室の中に小さな静寂を作った。周囲の者たちが息を呑み、顔を見る。そこには諦観も恐怖もなく、ただ静かな決意があった。
エールが急に高く鳴る。盤には、換源院側が最後の一手を始めたというログが流れた。起動ノードの一つが物理的に強化され、遠隔信号の安定化モジュールが稼働を始めている。残り時間は三十四分。これ以上待ってはいられない。
誠は次の大掛かりな操作を決める。複数の階層表記を同時にずらし、起動ノードに付随する周波数の共鳴ポイントをずらせば、起