迷宮番 第23話「第21章 同時起動の夜」
「ここを守るんだ。ここだけは、絶対に」
「ここを守るんだ。ここだけは、絶対に」
斎藤誠は狭い管理室の窓から、迷宮の夜景を見下ろした。入口広場に設けられた防壁の灯りが、迷宮の石肌を弱く照らす。遠方ではほかの迷宮群からだろう、低い地鳴りが幾重にも重なり、世界が一斉に呼吸を変えたような感覚が胸を締めつける。
彼の手は自然と、机の上に置かれた登録印へ伸びた。刻まれた紋はまだ新しい。先日、住民と共に取り交わした協約に基づき、正式に押されたものだ。誠は深く息を吸うと、その印をぎゅっと握り締め――管理室の座に落ち着いた。管理盤が、青く淡く光る。
「来るぞ」とエールが囁くようにホバリングし、管理室の空気をびりつかせる。小型端末の表面に、世界各地の迷宮からの断続的なログが並ぶ。どれも、先ほどから増え続けている。
「一斉起動だ。換源院の仕業だろう」
ミカが地図を広げながら言った。商店街からの臨時本部は管理室からすぐの古い倉庫に作られている。彼は電話線と人脈を総動員して外部との交渉を続けてきたが、その顔色はさして明るくはない。彼の指が、国際メディアの配信画面をさっと繰る。並ぶのはどれも似たような映像――別の迷宮での光渦、空が震える映像、人々が逃げ惑う映像。
「国連に相当する組織まで、各地の迷宮で法則破綻の報告が上がってる。換源院は同時多発で鍵を挿しにかかってる。狙いは核の同期だ。もし成功したら、その場で局所的に法則を書き換えることだって……あり得る」ミカの声は抑えられているが、言葉の重みは明快だった。
誠は管理盤の表示を凝視した。迷宮の内側構造が鮮明な線で浮かび上がり、問題点に赤いフラグが立つ。起動波形が複数箇所で検出され、それらが同位相へと寄せられていく。彼の指先が無意識に操作盤の縁を叩く。
「ここを死守するつもりだ。俺のやるべきことは――管理することだ。直接攻撃はできないが、通路を動かし、位相のズレを食い止める。巡回ログを集めろ。ログがなければ盤は拡張できない」
巡回ログ――それは今ある条件の一つであり、誠が管理盤を有効範囲で拡張するために必要な「証拠」だ。住人たちの目撃と記録が、迷宮の運用に力を与える。だがその蓄積は決して無尽蔵ではない。
「わかった。パトロール班を増やす。商店街と冒険者にも回してもらう」リナが短く答えた。彼女はまだ若いが、ここ数日の戦いで芯の強さをますます増している。肩には父親の形見だという小さな飾りがぶら下がっていた。それを見た瞬間、誠の胸に鋭い痛みが走る。リナの父――彼女は、あの日からずっと父を探していた。だが今夜、父の姿がどのように彼女の中で整理されるか、誠にはおぼろげに察せられた。
「クルム、番人術はどれだけ持つか」誠が問いかける。番人ゴーレムのクルムは、低く静かな声で答えた。
「我が術は消耗するが、作法を守れば迷宮の一部機能を長期維持できる。だが、それで世界の位相を永続させることはできぬ。術は保持、誠汝の盤は制御、人民の意志が鍵となる。此度は総動員だ」
クルムの古い金属質の手が板に落ちると、管理室の中に小さな共鳴が広がった。彼の言葉はいつも穏やかだが、そこにあるのは不変の重みだった。
作戦は即座に動き始めた。誠は管理盤の基盤を限定的に展開し、入口付近と商店街周辺の通路を「安定帯」として再配列する。簡単に見える作業だが、今夜は異なる。同期波形が遠隔で加わり、迷宮そのものの応答性が変化している。誠は管理室から一歩も出られない。印を押した管理者の座から動かずに盤を動かすしかないのだ。
「登録印、確認――行くぞ」誠は登録印をもう一度強く押し付けた。盤の光りが鋭く弾け、迷宮全体に緑のネットワークが走る。条件を満たし、盤は彼の意図を受け入れた。
だが、すぐに代償が示された。彼の視界の端で、机の上に開いていた巡回ログの一部が白い霧のようにふわりと消えた。エールの表示も一瞬乱れ、誠の胸に冷たい穴が穿たれるような感覚が走る。
(――また、一部が消えた)
誠はぎゅっと歯を噛んだ。記録が、記憶が、確かに――代償として消える。胸の奥に埋まっていた小さな記憶、彼の前世の細かな匂いや、手が触れた日常の一断面がぼやけていく。それは冷たい喪失感で、どうにもならない現実だった。
「誠さん、大丈夫か?」ミカが机を叩く。誠はビクッとし、椅子にもたれかかる。体中が鉛のように重くなる。代償の第二の徴候だ。肉体の疲労。彼は瞬時に管理盤の稼働率を下げ、出力を調整した。だが敵は待ってくれない。
「起動カウントが――三分前の報告だ」エールが小さな声で告げる。別の迷宮からの遠隔信号が管理室内に入り込んだ。同期が進む。世界の複数地点で、鍵が組み合わされ、位相が寄せられている。
「我らはここを死守する。だが、それは単独では成しえぬ」クルムの声が低く響く。彼は管理室の一角に座り、手を組むその姿は巨大な石像めいていた。「諸君、諸君の肉体を使え。巡回ログの名義を増やせ。人々の目撃と声が、盤の展開力を増す」
誠は渋々うなずき、外部通信を一斉に開いた。広場の指揮所にいる青年たち、商店街の主婦、冒険者組合の隅々まで――誠の声は疲れていたが、確かな命令となった。「外に出て、見張って、記録して。目撃したものを必ず報告する。一つでも多く、巡回ログを――」
その言葉とともに、町は動いた。石畳を踏む靴音が増え、照明塔の灯が順に点滅する。見張りは増え、紙の記録が増え、エールはその全てを取り込み、管理室の盤に次々と送る。誠は盤の光を見て、ひとつ、またひとつと赤いフラグを解除していく。
だが、すべてが順風満帆なわけではない。外で起きていることはより苛烈だった。迷宮壁面の一部がひび割れ、法則の歪みで時間感覚が揺らいだ時間帯が発生する。換源院の遠隔機構はあからさまに、法則を揺らすための周波を重ねてきていた。空気がねばつくように重くなり、色彩が鈍る箇所がある。見張りの一人が叫び、通信が途絶える。
「一箇所、位相崩壊が始まった。東の区画、注意」リナの声が割れた。彼女は既に前線で負傷者の手当てをしていた。だが彼女の口調に、今までとは違う緊張が宿る。誠は胸の中で、彼女の肩にある父の形見を見た。リナの指は微かに震えている。
「父は――」リナが短く言いかけ、言葉を飲み込む。誠はその言葉の先にある意味を理解した。彼女の父は迷宮の核に最も近い階層で、封印作業に関わっていたとされる。リナが父を探すための手がかりは、幾度となく廃材と古い記録の中に断片的に埋もれていた。だが今夜、その断片の一部が外部の通信として返ってくる。
「エールが拾ったログだ。遠隔地で父の断末魔のような声を拾ってる。『持ち堪えよ』――それだけだ。だが同時に、彼の最後の巡回ログは、位相安定のために自らを投げた形跡がある」ミカの声がかすれた。彼は書類を握り締め、紙の端が震えていた。
リナの目が鋭く光り、同時に濡れていた。「父さんは……封印の番をしてたのか。起動を止めようとしたのか。なのに、換源院はなんでそれを――」彼女は言葉を切った。怒りが彼女を支配した。誠はそっと、彼女の背に手を置いた。言葉は要らない。行動がすべてを物語る。
同時に、世界の別地点からの知らせがエールのスクリーンで踊る。ある迷宮では