竜相棒 第2話「第1章」
夜の森は音が厚かった。風が葉を撫で、虫の合唱がまとわりつく。蒼は懐に忍ばせた包帯と消毒薬の小瓶を握りしめながら、息を潜めて前へ進んだ。地面には奇妙な跡がついている。幅広で、ところどころに小さな爪の跡。獣医としての勘が、ただの獣ではないと告げていた。
夜の森は音が厚かった。風が葉を撫で、虫の合唱がまとわりつく。蒼は懐に忍ばせた包帯と消毒薬の小瓶を握りしめながら、息を潜めて前へ進んだ。地面には奇妙な跡がついている。幅広で、ところどころに小さな爪の跡。獣医としての勘が、ただの獣ではないと告げていた。
倒れていたのは子竜だった。まだ幼さの残る体節、薄い藍色の鱗が泥と血で曇り、左翼の一部が焼けただれている。瞳は大きく、琥珀色の光を薄く宿していた。胸の上下は浅いが規則的で、呼吸は細い。蒼はむやみに触れず、まずは視診を行う。周囲に残る焦げた木の匂いと、何か石質の粉の混じった匂いが鼻を突いた。
「大丈夫だ。今から傷を清めるね。無理はさせない。」
言葉は相手を落ち着けるために選んだ。相手が人間でないことはわかっているが、医者の手は同じだ。蒼は手袋を取り出す代わりに素手で触れた。触媒は直接の肌接触。この世界の感覚が、手のひらを通して細かな熱と振動を返す。
小さな鱗は思ったより冷たかった。乾いた血とすすを慎重に拭い、焦げた部分に冷たい水を注ぐと、子竜は小さく鳴いた。声は猫とも鷹とも違う、遠い鐘のような響きだ。蒼は心臓音を確かめつつ、傷の縁を観察する。骨は見えない。だが翼の付け根の筋が焼け、筋膜が損傷している可能性が高い。無理なやすりや切開は避ける。昔の自分なら、機械的な処置に頼ったかもしれないが、ここでは動物の心を無視できなかった。
「消毒は弱めに。薬は――」
そのとき、森の小径を鈴の音が通った。微かな、銀色に澄んだ音。蒼は顔をあげると、行商人らしい年恰好の女が、荷車の脇で立ち止まった。腰にぶら下げた小袋からは軟膏の匂い。彼女はにっこりと笑い、袋から小さな銀の鈴を取り出して見せた。
「おやまあ、珍しいお客さんね。怪我じゃなさそうに見えないわ。薬ちょうだい。――あんた、獣医かい?」
蒼は短く相槌を打ち、薬の一つを差し出す。女は手慣れた動作で薬を渡し、鋭い瞳が子竜を素早く測った。
「ミオ、って名前にしな。落ち着くから。」
女は余計なことを言わずに小瓶を蒼に託した。銀の鈴は子竜の横にそっと置かれると、子竜はその音に耳を傾け、ふるふると震えた。鈴の音は不思議と気配を和らげる力がある。蒼はその場で応急処置を施し、やがて小さな饋えを口元に運んだ。子竜はぎこちなくも食らいつき、その瞳にほんの少しの生気が戻る。
「どうしてこんなところに?」と蒼。
女は肩をすくめた。「人の世は色々あってね。偶々通りかかったら、燃え跡があってさ。竜具院の巡回隊が通った後って話も聞くけど……あたしは薬しか売らないよ。名前はアルマ。何かあったらまた通るから。」
そう言い残して、女は闇に紛れていった。蒼は彼女の残した銀の鈴を手にとって見た。鈴の表面には小さな刻印があり、渦と羽根のような模様が刻まれている。彼はそれをミオの首に柔らかく結んだ。子竜はその音に一度だけ、深く反応して口を閉じた。
蒼は息をつき、患部に薬を塗り、やわらかな包帯で翼を負担の少ない形で固定した。夜気が冷たい。ここでは野外での長期治療は無理だ。彼は周囲を見回し、近くの廃屋に運び込むことにした。抱きかかえると、子竜は首を蒼の胸に押し当てる――それが小さな「印」だった。言葉ではなく行動で示す合意。蒼はそれを同意のサインとして受け取った。
「いいか、ミオ。共鳴契を結ぶ。私は君を助ける。だが、約束がある。」
彼は静かに自分の頭の中で、あるルールを確認する。共鳴契――生物の心を紡ぎ、傷を癒す能力だ。だが使い方には厳しい条件がある。相手の明確な同意、皮膚接触か鱗・羽を介する触媒、一度に一体だけ。そして禁じられた用途――相手の意志を消すこと、人を直接傷つける目的に使うこと、所有の証拠に用いること。代償も忘れてはならない。使う度に直近の一日の記憶が薄れる、契約者の身体に疲労と微細な組織損傷が蓄積する、寿命が微量ずつ削られる。
蒼は深呼吸をして、子竜に語りかけた。「君の同意をくれ。言葉でも、印でもいい。自分で決めて。」
ミオは小さく鼻を鳴らして、蒼の手に頭を擦り付けた。皮膚接触の印。言葉はいらなかった。蒼はその時点で、合意の所作を確かに受け取った。
掌が鱗に触れた瞬間、熱が指先から胸に走った。温かさが体の中を巡り、目の前で夜の空が引き伸ばされたように、ミオの感情が映像のように流れ込む。恐怖、痛み、孤独、同時に父母の記憶の断片、群れの匂い、空を舞う夢。蒼はそれを拒まず、ただ介抱する。共鳴は相互だ。彼が渡すのは癒しであり、相手から受け取るのは信頼とその生命の一端だ。
治癒はゆっくりと始まった。焼けた筋組織が再編されるのを感じ、蒼の手のひらが熱を帯びる。だが同時に、目の端が霞み、昨夜や一日の些細な記憶が薄れていくのがわかった。頭の中で一つのページがふっとめくれるように剥がれ落ちる。代償だ。胸に軽い痛みが広がり、指の腹に赤い斑点が浮かんだ。蒼はそれを押さえて苦笑する。
「効く、な……でも、くれぐれも無理はしないように。」
ミオの体温は正常に戻りつつあった。息づかいは深くなり、翼の緊張はゆるむ。蒼はほっと息を吐いた。だが、同時に直近の細かい出来事を一つだけ忘れていた。薬を渡した行商の顔。彼女が言った言葉の半分。銀の鈴を手に取ったときの、個別の感触。蒼はそれが気になったが、治療が優先だ。
廃屋の床にミオを寝かせ、蒼は周囲に物を並べた。毛布、乾いた草、食べ物。夜の静けさの中、誰かが乱暴に戸を叩く音がした。蒼はとっさに立ち上がり、扉の方へ走る。外には若い女が、金属の粉で真っ黒なエプロンを着て立っていた。火に照らされた顔はきりりとしている。刃物の代わりに大きな鉄槌を抱えている。
「何してる。ここは私の材木小屋だ。勝手に入るな。」
「ごめんなさい。ここに子竜がいるんです。助けているんです。」
蒼は呼吸を整えながら説明する。女は目を細め、蒼の抱えた姿を見てから、ふっと息を吐いた。
「獣医か。なら、見せてみろ。」
彼女は鋼のような手つきで近づき、ミオの包帯に優しく指を当てた。心臓の鼓動を確かめる。彼女の手慣れた動作が、蒼には救いのように映った。
「イネスだ。鍛冶屋見習い。ここらじゃ腕っ節はいい方だ。竜を武具にする奴らがいるって話は聞くが――お前、一人か?」
蒼は頷く。自分の不器用な説明で、イネスは眉をひそめるが、やがて口をゆるめた。
「馬鹿正直にやるなよ。でも、助けるのは悪い話じゃない。私、鞍とか保護具なら作れる。竜用の負担を減らすように。あんた、どういうつもりで保護するんだ?」
蒼は胸の内を隠さずに言った。「治す。里を作る。安全に育てる場所を。彼らを道具にするのを、無くしたい。」
イネスはその言葉を反芻してから、小さく笑った。「でかいこと言うな。だが、嫌いじゃない。誰も代わりにやらないなら、自分でやる。あんた、力には頼らないでくれよ。無茶はするな。」
蒼はふと、共鳴契のルールを説明する必要を感じた。治療の後に、そのことはより重要になるだろう。廃屋のテーブルで、彼は簡潔に言葉を並べた。
「共鳴契には条件がある。まず相手の明確な同意。言葉でも印でもいい。今回のミオは印を示した。次に、直接の皮膚接触か鱗・