竜相棒 第1話「序章」
森は雨を引きずっていた。針葉の匂いと湿った土の匂いの間を、鉄のように鋭い血の匂いが横切る。蒼は匂いを辿って、落ち葉に埋もれた小さな影へと膝をついた。
森は雨を引きずっていた。針葉の匂いと湿った土の匂いの間を、鉄のように鋭い血の匂いが横切る。蒼は匂いを辿って、落ち葉に埋もれた小さな影へと膝をついた。
膝丈ほどの幼い体躯がそこに縮こまっている。鱗は青緑で、翼の膜は裂け、胸は浅く早く上下していた。右側の脇腹には黒ずんだ鱗片がめり込み、その脇に小さな結晶片が突き刺さっている。光を内から弱く放つその石片を、村人は「魂石」と呼ぶ――蒼はその言葉を小さく呟いた。
「怖がらなくていい。黙ってて」
手順は体が覚えていた。獣医として何度も動かした手つきで、蒼はまず呼吸を落ち着かせる。翼の裂け目の縁を濡れ布で押さえ、周囲の煤のような粉をそっと拭い取る。無理に剥がすことはしない。切開は最後の手段だ。
幼竜は痩せた前足で蒼の指を握った。掌に伝わる冷たさが、思わず胸の奥をつく。蒼はそっと声を落とす。
「名前はあるか? 声を出せないなら、合図してくれ」
返事はない。だが幼竜は震えながらもその手を離さなかった。蒼はポーチから消毒液と包帯を取り出し、傷の周囲をきれいにしていく。そのとき、木漏れ日の裂け目を縫うように足音がした。荷車を引かない軽い足取りで、細身の行商女が現れた。地図の皺が刻まれた顔に笑みが乗る。
「森で何を拾ってるの、獣医さん?」
物言いは人懐こいが、目はどこか吊り上がっている。女は荷物から薬瓶と、小さな銀の鈴を取り出した。鈴は指先に余るほどの小さな球で、外面に細かい紋様が刻まれている。風に触れてチリリと澄んだ音が鳴った。
「いいところね。竜の子に効くのよ、こういうの。心が落ち着く」
「誰かが名前を付けた方が早い。鳴き声のようなのがいいわね――『ミオ』なんてどう?」女は軽く目を細め、鈴を幼竜の首にかける。鈴は驚くほど軽く、首回りの鱗に小さく当たった。
蒼はその音と言葉が重なった瞬間に、幼竜の瞳が少し和らいだのを見た。彼は薬瓶を受け取り、傷の応急処置を続けながら女に訊いた。
「君は?」
「アルマよ。行商。助けが必要ならいつでも。魂石の話なら、どこでも聞くわ。最近、採掘の件で森が騒がしいって噂をよく聞くのよね」
アルマの口ぶりに、蒼の胸がひりりとした。幼竜の脇に刺さったあの結晶片と、周囲の煤の跡。採掘と何か関係があるのか――村で燃料や装飾に使われている「魂石」が、ここまで動物に影響を与えているのかもしれない。蒼は鱗の欠片を指で拾い上げ、慎重に包んだ。
「治療だけじゃ足りない。場所を移して詳しく見るべきだ。でも、まずは――共鳴契を使う」
言葉に含んだのは決意だった。共鳴契はこの国で奇跡と呼ばれる技だ。生きものの心に触れ、痛みや恐怖を分け合い、癒しを促す。だが力には必ず代償がある。蒼は前世の職業倫理と、転生して得た知識を合わせて、胸の中でやるべきことを確かめる。
「同意が必要だ。触媒は直接の接触。一度に一体だけ。相手の意思を奪ったり、殺したり、所有の証にしたりはしない。分かるか?」
蒼は手の平をひらめかせた。幼竜は戸惑いながらも、その小さな頭をそっと掌に押し当てた。合図だ。蒼は大きく頷き、低く言葉を重ねる。
「君の意思は君のものだ。僕は君の代わりにはならない。僕も同意する――治すために心を繋ぐ」
掌を合わせた瞬間、冷たさがすーっと広がった。波のような感覚――怯え、疼き、けれどどこかに好奇が混じる。蒼はそれらを手のひらで受け止め、ゆっくりと痛みを呼吸で引き受けた。ミオの呼吸が、次第に落ち着く。裂けた翼の縁が薄い光を帯び、皮がきゅっと閉じるような感触が伝わる。
だが同時に、蒼の身体に違和感が走った。筋肉が重くなり、右手の腹に細かな焼けつくような痛み。掌の皮膚に小さな瘢痕のような痕が残る気配。触れ合いが終わると、視界の縁に白い靄が立ち上った。
「さっき、誰と話してただっけ……」
声が思ったより小さく、耳に刺さった。蒼は自分の言葉に驚き、アルマの顔を見た。アルマの目がすっと曇り、口元が強く引き結ばれる。
「契約の代償よ。直近一日分の記憶が薄れるって言ったでしょ。使うたびに身体も削られる。寿命が短くなるって噂もあるけど、その……」アルマはそこで言葉を切った。言い淀む動作に、過去の重さが滲んだ。
蒼は掌に残るひりつきを確かめながら、自分の頭の回転が一本遅れているのを感じた。誰かに渡した筈の温かいパンのこと、朝に通った宿屋の主人の顔が、どうしても輪郭を結べない。記憶の端が灼け落ちたようにぽっかり穴が空いている。
恥ずかしさと焦りが胸を締める。だがミオの呼吸は確かに落ち着き、胸の上にかけた布の下で小さな胸が規則正しく上下している。蒼は顔を上げ、少し笑ったように見せた。
「……すまない。アルマ、君の名前をもう一度?」
アルマは小さくため息を漏らし、ゆっくりと名乗った。蒼はその瞬間、名前がぴたりと胸に収まると同時に自分の愚かさに顔が熱くなる。代償は確かに現れた――小さなことでも、顔や名が抜け落ちる。それは単なる忘却ではなく、誰かと繋がるための記憶が薄まることを意味した。
「ここで終わらせるわけにはいかない。里を作るべきだ――」蒼は言葉をひとつひとつ噛み締める。決意は残った。しかしその決定を心に留めておくために、彼はポケットから小さな紙切れを取り出し、震える手で一行を書く。
「ミオを守る。里を作る。魂石を調べる」
自分の字を確かめると、蒼はその紙を包帯の下にそっと押し込み、忘れないように身近に縫い付けた。言葉にならない恐れを抑えて、行動で埋める術を見つけたのだ。
アルマは薬瓶を差し出し、手早く軟膏を塗る。鈴がまた揺れて、森に低い音が広がった。蒼は手を伸ばして、ミオの額に軽く触れた。鱗はまだ冷たく、だが眼は確かに今を見ている。
「採掘場が近い。坑夫たちが持ち帰るって話よ。綺麗に光るものは高く売れる。だけど、竜が少なくなったって声はね、金の話の前では小さいのよ」
アルマの声は平坦で、しかし重い。蒼は鱗の欠片を拾い、掌に包んでみる。黒い煤のような粉が爪の間に残った。ミオの腹の近くに刺さっていた小さな石片も、手のひらに収めると、内部からかすかな光が漏れた。
蒼は夜空を見上げる。雲の間に薄い星があった。記憶が削られる恐れは、今は彼の足を止めない。紙切れと背中の鈴、そしてミオの規則正しい呼吸が、彼に次の行動を促した。
「ここで手当てしたあとは、里に連れて行く。安全な場所を探す。魂石のことも調べる。僕は――獣医として、君を守る」
言葉を繰り返すたび、蒼の胸は少しずつ固まっていった。代償は存在する。だがそれを知ったうえで、目の前の命を救うことを選ぶ瞬間に、彼は躊躇しなかった。銀の鈴がかすかに震え、森は静かに答えた。