竜相棒 第15話「第13章 王都、塔の影」
波の匂いは、まだ蒼の胸の奥をざわつかせた。海路を渡って初めて見る王都は、想像の何倍も大きく、そして重かった。港の防波堤を越えて立ち上がる塔の影は、まるで街全体を押しつぶす一枚の蓋のように見えた。あの塔の名を誰もが小声で呼ぶ、竜具院──その尖塔が、いま王都の中心に黒い針を突き立てている。
波の匂いは、まだ蒼の胸の奥をざわつかせた。海路を渡って初めて見る王都は、想像の何倍も大きく、そして重かった。港の防波堤を越えて立ち上がる塔の影は、まるで街全体を押しつぶす一枚の蓋のように見えた。あの塔の名を誰もが小声で呼ぶ、竜具院──その尖塔が、いま王都の中心に黒い針を突き立てている。
「着いたぞ、蒼。息を整えろ」
ロルフの声が肩に入った。街路を埋める人々のざわめき、屋台の鉄板を打つ音、遠くで鳴る車輪の軋み──すべてがここでは生活の一部だったが、その隙間から時折、冷たい金属の匂いと細かな火薬の残り香が立ち上ってくる。公共灯の間に埋め込まれた小さな石片が、蒼の目を引いた。夜でなくとも青白く、薄い振動を帯びている。魂石だ。
「公共照明にも使ってるのか……」
蒼は声を出さずに呟く。魂石は里の者たちにとっては聞き慣れた名前だが、王都では日常そのものになっていた。石は、街の灯り、運河の水門、遠隔の機械にまで力を回している。働く人々の顔は生き生きとして見えたが、蒼にはその下に暗い負債が潜んでいるように思えた。負債は竜から切り取られたものだという確信が、重くのしかかる。
ミオは蒼の足元で丸まっていた。子竜の体はまだ小さく、黒い鱗は港の明かりを受けて鈍く輝く。彼女は人目を避けるように頭を隠し、時折鼻先で蒼の袖を探る。ここでは竜を公然と連れ歩けない。蒼は、杖先に仕込んだ布袋の中にミオを入れ、周りを人混みに溶け込ませていた。軽い糞の匂いと羽毛の抜けた小さな鱗の感触が、蒼の掌に残る。
「下手な真似はするなよ。王都の監視は里とは違う」
イネスが前を睨みつける。鍛冶屋の見習いとして培った筋肉が、街の薄い空気に押し当てられていた。彼女は短い鉄棒を帯び、目は常に周囲を走査している。蒼にはその厳格さがありがたかった。ここでの失敗は里全体に跳ね返る。
「ロルフ、予定の連絡は?」
ロルフは懐から小さな紙片を取り出した。乾いた印字の文字列と簡単な地図。彼の眼差しにはいつもの陰があったが、今日はそれがより固く結ばれている。
「旧獣医団の下層に当たる、古い診療所だ。非公式だが、顔を知る者はいる。もし入れれば、竜具院塔の下層管理の運用記録くらいは引き出せるかもしれん」
蒼はその言葉に手をぎゅっと握った。塔の下層──そこは以前からロルフが示唆していた、魂石の集積や分配が始まる地点の一つだ。石碑の破片と銀の鈴の刻印、それが塔の装飾に一致する可能性を確かめるには、内部の文書を見たい。だが内部に踏み込むには、大きな危険と多くの目がある。
「アルマは?」
蒼は耳の後ろで、銀の鈴をいじる手を止めた。彼女から渡された鈴は、いまはミオの身代わりにもなっている。音は小さかったが、どこか古びた、確かな手触りがあった。
「彼女は獣医団の古い知人に接触してる。あの女が動けば道が開く。だが、あいつの素性は完全には公になっていない。あまり大声で信用するな」
ロルフの口調は警告と期待が混じっていた。アルマはこの街で蒼たちにとって重要な鍵であると彼らは知っている。だがアルマ自身も、ここで何かを賭けているのだろう。
人混みを抜け、三人は古い区画へと歩を進めた。路地は段々と狭まり、木造の庇が影を落とす。すると、小さな広場に出た。中央に、古びた井戸と、かつては獣医団が使っていたという石の台座があった。その台座の縁に、細かい模様が刻まれているのを蒼は見逃さなかった。渦のような線──そしてその中に、小さな鈴の刻印が埋め込まれていた。
胸が跳ねる。蒼は息を詰める。指先に残る鈴の冷たさが、じんわりと心を満たす。
「刻印──これだ。ここにもある。王都の公共に、あの模様が使用されている」
ロルフの声が震えないのを蒼は知っていた。だがその瞳には、かつて自分が加担したことへの深い苦悩がある。蒼は台座に手をかける。刻まれた線は古風で、しかし確かな存在感があった。銀の鈴と同じ模様。ここから塔へ、そして王都の深い仕組みへとつながる道筋が、静かに浮かび上がる。
──ここでやってはいけないことを思い出す。
共鳴契には条件がある。相手の同意、直接の触媒、そして一度に一体のみ。強制は不可だ。蒼の指先は、台座の刻印を撫でたまま止まる。ここで力に頼れば、目先の情報を読み取れるかもしれない。だがそれは禁忌を破るかもしれない。ロルフに依頼して情報を引き出すことは出来ても、蒼の、その身体と記憶を犠牲にする権利はない。
その瞬間、ミオが小さく鳴いた。布袋の中で子竜の鼓動が伝わる。街の騒音の中、音は蒼の胸に直接届く。彼は自然と手を伸ばし、布をめくってミオの小さな頭を撫でた。鱗の感触はまだ温かく、微かな傷痕の残り香がした。
「大丈夫、ミオ。ここは危ないけど、すぐに戻る」
蒼は囁き、無意識に共鳴の窓を開いた。既にミオとは『共鳴契』を結んでいる。触れ合えば心が通じる。しかし、契約は一度に一体にしか向けられない。蒼はそのルールを守りたかった。ミオの目が、澄んだ琥珀のように蒼を見つめる。そこに明確な同意があるのを蒼は感じた。静かな了承。
掌に走る温度の波。ミオの不安がゆっくりと溶け、息が深くなる。蒼はわずかな光のような感覚を胸に抱きながら、里でやったあの夜を思い出す。だが、それと同時に、生来の代償が蒼の胸に爪を立てた。
視界の縁が少しにじむ。直近一日の記憶が、ふっと薄れていく。目の前にあったはずの空の色が、指先から零れ落ちるように曖昧になった。身体の奥に、冷たい小さな切り傷が出来たような鈍い痛みが走る。蒼は歯を噛んでその感覚を押し込める。共鳴の代償は予告なしに出る。使用のたびに、寿命が微かに削られ、組織に微細な損傷が蓄積する。長く繰り返せば回復困難になる。
「蒼、大丈夫か?」
イネスの声が硬くなる。蒼は強く首を振って、記憶の欠けた部分を探ろうとした。だがそこには、ほんの一瞬前に話した言葉の輪郭が残らない。言葉が指先からこぼれた砂のように指の隙間を通り抜ける。蒼は口の端を引き上げ、平静を装った。
「大丈夫だ。ただの気怠いだけだ。続きを行こう」
蒼は深呼吸をして、自分の心を締め直す。ミオは穏やかな表情で小さく首を傾げ、尾を少し振った。彼女の存在が、蒼にとって世界の中心であり続けることを、この街の喧噪の中で再認識する。だが確かに、代償は重い。王都で無造作に力を使うわけにはいかない。
路地の向こうから、低い声が聞こえた。誰かが近づいてくる。蒼たちはすぐに身構える。来たのは細身の女で、古い白衣を羽織っている。アルマだった。彼女の目はいつもと変わらない狡さと暖かさを同居させていたが、その足取りには確かな緊張がある。
「予定より早かったわね。データは手に入れた。だが──」
アルマは小さな包みを差し出した。包みの中には、薄い羊皮紙の束と、古い薬の小瓶。羊皮紙には小さな図面と、塔の下層の配管図らしきものが描かれている。そこには、塔基部へと伸びる厚い導管と、複数の小室が示され、その中心に小さな円と鈴のような記号が重ねられていた。
「これか。竜具院塔の下層配図。魂石の集積室が二つ、分離装置が一つ。ここで石を扱っている。街を支える供給線はここに収束している」
ロルフの指が紙面