竜相棒 第16話「第十四章 王都の影、二つの名」
王都は、蒼が知るどんな夜とも違っていた。屋根が重なり、塔が牙のように空を刺している。所々、魂石の微かな白煙が街灯に溶けて、都市全体が低く呻く生き物のように息を吐いていた。
王都は、蒼が知るどんな夜とも違っていた。屋根が重なり、塔が牙のように空を刺している。所々、魂石の微かな白煙が街灯に溶けて、都市全体が低く呻く生き物のように息を吐いていた。
裏口から入った庁舎の石壁は冷たく、アルマの足音だけが妙に小さく響く。彼女の指先には古い擦り切れた地図の匂いが残っていた。帽子の端が影になって、表情は読み取りにくい。蒼はその背中を見て、ただ一つ確かめた――彼女は単なる行商ではない、と。
保管庫は地下二階。重い扉を抜けると、古い紙の匂いと乾いた鱗の粉が鼻を突いた。板張りの机に積まれた箱、封蝋の割れた書簡、油に染まった診療録。ロルフは声を落として言った。
「魂石の出荷台帳だ。採掘業者の名、出荷日、行き先。中央セントラルと書かれている。これがあれば里は言える」
蒼は紙の上を指でなぞると、数字と地名が冷たく手に残った。その隣に、小さな箱がある。蓋には銀の鈴の文様──蒼の胸の中でいつも落ち着きをくれるあの模様と同じだ。指先が震える。箱を開けると、中には筆写本と、短く畳まれた紙片、そして古い織布で包まれた小物があった。織布の縁に刺繍された模様が、蒼の手首にいつも巻かれた鈴の印章とぴたり一致した。
ロルフが紙を広げる。「──この署名は、昔の獣医団の名簿だ。……アルマの旧名がある」
アルマの肩が小さく動いた。口元に浅い笑みが浮かぶが、その笑みはすぐに消えた。
「昔、ここにいたの。必要なときに、戻ってきただけ」彼女の声は薄く、しかし切実だった。蒼は何かを訊こうとしたが、石廊下の向こうから鈍い足音が聞こえた。誰かが定期巡回を早めている。
「用心しろ」ロルフが囁く。蒼は書類を素早く布に包み、箱からはみ出した筆写本の角を押さえた。そこに挟まれていたのは薄い紙片。古い竜語の文様と、細い字で書かれた観察メモだ。鱗片が貼り付いたページの余白に、手書きで「分離装置——反応は個体に依存」と書かれている。蒼の心臓が冷たくなる。
背後の廊下を二人の守衛が走る。鉄の靴音が近づき、もう一つの扉から光が漏れた。出入口は一本しかない。蒼は瞬時に計算した。逃げ道は人混みを通る市場しかないが、道すじを確実に覚えていないと捕まる。
守衛が扉を押し開け、二丁の短銃が構えられた。貴族風の外套を羽織った男が一歩前に出る。その目は薄い嘲りに満ちていた。
「下層の書類に手を出す権利はない。連れて行け」男の声は冷たい。
イネスが前に出て、金属の長柄で相手の手を封じにかかる。非致死的な制止。蒼はそれを感謝しつつ、別の問題が頭をよぎった。ここに展示用の小型鱗竜が箱に入っている。監視用の標本で、展示のために確保された個体だ。共鳴契は「同意」が必須である。強制は禁じられている。人を操ることは彼の倫理が許さない。だが――
背後からロルフが短く言った。「ここを使えば守衛の注意が逸れる。だが、代償はある。お前はそれで平気か?」
蒼は箱の蓋を開ける前に相手を見た。幼い獣は薄暗がりの中で縮こまり、片方の翼を軽く震わせている。眼は怯えていた。蒼は膝を折り、目線を合わせ、手のひらを見せた。
「触れてもいい?」言葉は獣語ではない。だが彼はいつもこう確認する――暖かさを、問いかけを、向こうが迎えるかを確かめるために。獣は一瞬だけ身体を緩め、かすかな鼻息を漏らした。小さな爪が蒼の手首に触れた。合図だった。受け入れ。
蒼は慎重に手を当て、心を開いた。最初にやって来たのは匂いの群れ、捕獲の恐怖、運搬の振動。蒼はそれらを撫でて、ひとつずつ音を沈める。獣の呼吸は次第に安定し、瞳が少し穏やぐ。守衛の注意は、箱の中の獣が静かになったことに向いた。
だが契約は即座に代償を与えた。胸の奥に針のような痺れが走り、視界の縁から先ほどロルフが囁いた言葉がするりと抜け落ちる感触がした。「出す――」とロルフが言ったはずだが、蒼はその先の数字が思い出せない。市場の裏路地、渡る橋の数、左に折れる二度目か三度目か。細かな道順をロルフが示した瞬間の“回数”が、ふっと消えたのだ。舌の先でぽろりと落ちた小さな断片。蒼は一瞬、頭が真っ白になった。
「どうした?」イネスが振り返る。蒼は軽く笑い、首を振ったが、足の運びにわずかな躊躇が出た。筋肉が鉛のように重く、歩幅を保つのにいつもより力が要る。腕の関節に小さな引き裂かれるような痛みが残った。治療のときと同じ、あの嫌な余韻。代償は確かにやって来た。
だが、効果は確かだった。守衛たちの注意が一瞬揺らぎ、アルマはその瞬間を逃さず紙片を袖に隠した。ロルフが低く合図すると、三人は人波に紛れた。蒼は覚えのない空白の代わりに、手の中に包んだ筆写本の重みを確かめた。箱の底にある小さな鈴は、微かに震えている。彼の鈴と同じ文様を刻んだそれが、ほんのりと振動した。アルマの目が、一瞬だけ変わる。
「行け!」イネスが叫ぶ。蒼は走り出した。だが曲がるべき角で、彼は迷った。ロルフがどちらだと囁いたのか、その“何回目”の曲がり角か、消えた記憶が壁のように立ちはだかる。ほんの一瞬、足が止まったために、守衛の一人の影が角を曲がって迫った。
イネスが振り向き、長柄を振る。守衛は転び、群衆の中へ消えた。蒼は布の中の文書を抱え、胸を押さえる。心は冷えていたが、決意は揺れない。得た証拠は大きい。だが代償も現実のものとして増えていく。彼は走りながら、失われた断片を取り戻せないかと必死に頭の中を探ったが、白い霧は薄まるどころか、また別の言葉をすり抜けさせた。
あらゆる雑踏の向こう、屋根の上に小さな影が止まっている。ミオだ。蒼はその姿を見上げ、胸が音を立てるのを感じた。鈴が手の中でまた震えた。古い約束と、新しい代償が同時に鳴るような感覚だった。
王都の追跡は遠くから笛の音とともに続き、蒼たちは人の波に溶け込みながら逃げた。だが蒼は知っていた――これで全面的に安全になったわけではない。箱の中の筆写本は、アルマの旧名と鈴の文様を示していた。魂石の出荷台帳は中央セントラルの名を示していた。それぞれが、里の問いに答える鍵だ。
握りしめた鈴が手のひらで小さく鳴る。アルマの瞳が蒼に向けられ、その表情は静かに決意を告げていた。「導いたのは、私だ」彼女は言葉少なに付け足す。その語尾は、まだ説明にならない約束のように消えた。
蒼は足を速めた。代償は増えていく。だが、失うことを恐れていては何も守れない――そう自分に言い聞かせて。王都の影が彼らを追うなか、銀の鈴は微かに、しかし確かに振動を続けていた。