聖女薬店 第21話「第十九章 流れを裂く手」
王都の夜は、想像よりも厚かった。礫(つぶ)が敷かれた通路の冷たさ、石壁の湿り気、遠くで鳴る防鐘の余韻──それらが全部、儀式場の外側で待機する私たちの胸に、静かな重圧を重ねていく。リリアは息を吸って、吐いた。腕にある白い瘢痕がひりりと疼いた。右腕の内側を、いつもの癖で確かめる。瘢痕は夜明けごとに広がる気がした。代償は確かに日々を蝕んでいる。
王都の夜は、想像よりも厚かった。礫(つぶ)が敷かれた通路の冷たさ、石壁の湿り気、遠くで鳴る防鐘の余韻──それらが全部、儀式場の外側で待機する私たちの胸に、静かな重圧を重ねていく。リリアは息を吸って、吐いた。腕にある白い瘢痕がひりりと疼いた。右腕の内側を、いつもの癖で確かめる。瘢痕は夜明けごとに広がる気がした。代償は確かに日々を蝕んでいる。
「位置について。セルヴァン、東側の見張りを引きつけて。イレナ、医療包帯と鎮静薬を。マルコは……君は、あの中心に入るんだ」
私の声は低かった。暗闇の向こうで、マルコが小さくうなずく。彼の首に巻かれた革の首輪が、月明かりにかすかに反射した。あの首輪の刻印が、今夜どれだけ私たちを守り、あるいは犠牲にするのか、誰もまだはっきりとは言えない。だが、彼が自ら前に出ると決めた以上、誰も止めない。
「準備はいいか」と私が言うと、イレナが鋭い目で私を見た。「書面は?」
私は己のバッグから擦り切れた羊皮紙を取り出した。ペン先を押し、成分・温度・時間を書き下ろす。それは儀式場で行う私の作業に対する最低限の約束だ。調合視の法則はいつだって冷酷だ。口約束では効かない。紙の上に、三行がはっきりと並ぶ。
成分:紅液(赤い瓶)0.4滴、薄檉(はくてい)蒸留液7滴、結晶石灰溶液0.2%、
温度:維持34度±1
時間:初段攪拌90秒→二段休止30秒→最終連続撹拌3分
書いた。指で日付と自分の名(リリア・フォルテ)を押し付けるように押印する。調合視は書面に基づかねば動かない。書面は私と世界との約束。仲間がその紙を懐にしまうのを見て、私の指先にまたぞろ冷たい震えが走った。
「一つ確認する。完成調合は使わない。多段で行う。完成を強いると、あの一日の記憶が丸ごと消えるリスクが大きくなる。ここは――できるだけ、段階で抑える」と私は言った。けれども、心臓の奥で何かがざわつく。ここでの失敗は、ただの失敗ではない。生命の流れが暴走したら、ここにいる全員が巻き込まれる。
セルヴァンが小さく笑ったような声を出す。「君の書面は見事だ。恵果院の書類に比べれば、紙の匂いに人の心が宿っている」
冗談は場を和ませるが、すぐに静寂が戻る。遠く、儀式場内部からは低いうなりが伝わる。生き物の鼓動にも似たリズム。あの装置は今、生命を集め、王都へと送り出している。私たちはその流れを裂かなければならない。
侵入は計画通り滑り出した。セルヴァンが裏口に小さな火を放って見張りを引きつけ、イレナと私が正面の通路を切り開く。マルコは私の横で小さな袋を手に握りしめていた。袋の中には、赤い小瓶と、私がこの数日で取り寄せた数種の触媒が入っている。赤い小瓶。いまやそれは単なる拾い物ではない。何か古い儀式の残滓──だが、単独では不完全な破片だと私は分析していた。今夜、それを鍵にする。
儀式場の扉が見えた。内部は円形の大広間。石でできた床に刻まれた紋様がうごめき、中心に据えられた大きな器具が暗緑の光を放っている。器具の表面には動く溝、鋭く光る触手のような細い管がはい回っていた。触手は空気を震わせ、そこをかすめると皮膚の奥まで冷たさが届くようだ。
「ここから先は注意深く」とささやいたとき、通路の影からひとりの守衛が出てきた。イレナがさっと動き、非致死の麻酔矢を放つ。守衛は膝を折った。私たちはさっと中へ滑り込む。
大広間は思ったよりも広かった。中央の装置は人間の胸部ほどの大きさの金属の球体に多数の触手が繋がり、触手は床の紋様と繋がって地下へと伸びている。触手の先端は薄く光り、そこに触れた布が埃のように散る。装置の周りには数十のローブをまとった者たちが整列していた。彼らの首に下がる聖痕――刻まれた紋様が、会場の暗がりでさざめいていた。
恵果院の研究者数名が装置の制御盤に向かって忙しげに何かを書いている。彼らの目は私たちを見ると、僅かに驚き、すぐに静かに閉ざされた。リリアはその瞬間、計画の核心へ手を伸ばす。私がやらねばならぬのは、装置を「患者」として扱い、手元の原料を「材料」として同時に触れて調合視を起動することだ。装置は生体を模した流れを持つ。触れることができれば、私はその流れと原料とを結ぶことができる──理屈上は。
だが条件は厳格だ。患者と原料に同時に触れなければ発動しない。私の白夜の記憶に刻まれたルールだ。私は赤い小瓶を取り出し、マルコに渡した。彼は震える手で受け取り、首輪を軽く握った。
「君が必要なんだ、マルコ。君の血統が、この装置と共鳴する。これが、僕らの安全弁になる」私の言葉は平静を装っていたが、胸は締め付けられる。
マルコは息を呑み、首輪に触れながら赤い小瓶を装置の触手にかざした。私も同時に触手に手を伸ばす。冷たい粘膜のような感触が指先に伝わる。触手はかすかに振動し、私の掌のひらにゾクゾクするような波を送った。ここで――私は原料と患者を一度に掌に収めるような動作をする。だから私の右手には赤い小瓶の瓶底が、同時に装置の触手が押し当てられている。
「書面を読み上げろ」とイレナが低く命じる。彼女は私が書いた成分・温度・時間を確認する役目だ。声が震えているのを隠せない。私も震えている。
私は羊皮紙を開き、成分を口に出した。声が石に吸われるようだった。
「成分、紅液0.4滴、薄檉蒸留液7滴、結晶石灰溶液0.2パーセント。温度、三十四度プラスマイナス一。時間、初段九十秒、休止三十秒、最終三分。リリア・フォルテ、作業開始」
言い終えると同時に、赤い小瓶の中身が微かに震えた。瓶の中の液体はゆっくりと揺れ、内側の光が濃くなっていく。私は深呼吸すると、瓶の口を自分の掌に押し当て、瓶を傾けた。ほんの一滴、それは落ちた。赤い滴は触手の表面で弾け、そこから細い光の糸が装置へと吸い込まれていく。私はその瞬間、調合視の感覚が骨の奥まで走るのを感じた。世界が細い線で結ばれる。原料と患者がひとつの流れの中で振動するのがわかる。
だが、装置は既に多くの生命の流れを取り込んでいる。私が注ぎ込んだ滴は、流れの中で希薄に溶けようとした。私の計算では、多段の攪拌で流れの位相をずらし、暴走する共振を弱めるはずだ。初段の九十秒が始まった。私は掌で触手を軽く撫で、薄檉蒸留液を小さなスポイトで五滴注入した。スポイトの透明な液が、触手の縦溝に沿ってしみ込んでいく。石灰溶液の雫を一滴、一滴、確認しながら落とす。温度を維持するために、私は自己発熱包帯を右腕に巻いた。三十四度。そこから外れてはいけない。
最初の九十秒、装置は静かに抵抗した。だが次第に、触手の震えが弱まるように見えた。マルコが首輪を強く握りしめている。彼の顔は蒼白だ。彼は最小限の言葉で私に告げる。「……感じる、何かが、流れてくる。けど、痛い」
彼の両目は涙で光る。首輪の刻印が薄く発光し、装置の触手と不思議な共鳴を始めた。私はそれを利用した。門守の血筋が「流れの同期」を生むという古い伝承は、ただの伝説ではなく、実用的な同期装置だった。だが同期は代価を伴う。今は時間がない。二段の休止に入った。装置が再びうなりを上げる。周囲のローブの者たちがざわめいた。
そのとき、制御盤の向こうで一人の男が立