聖女薬店 第20話「第十八章 穴の口」
明かりは低く、鉄格子の影が石壁に割れ目のように走っていた。油が滲んだ床に置かれた箱の傍らで、リリアは息を整える。右腕の皮膚に走る白い瘢痕がいつの間にか一回り広がっているのを、袖口の端に触れた指先で確かめた。ひんやりした瘢痕の感触は、どこか遠い世界を思い出させる。そこに詰まった記憶の端が、少しずつ揮発していく感覚を今日も味わっている。
明かりは低く、鉄格子の影が石壁に割れ目のように走っていた。油が滲んだ床に置かれた箱の傍らで、リリアは息を整える。右腕の皮膚に走る白い瘢痕がいつの間にか一回り広がっているのを、袖口の端に触れた指先で確かめた。ひんやりした瘢痕の感触は、どこか遠い世界を思い出させる。そこに詰まった記憶の端が、少しずつ揮発していく感覚を今日も味わっている。
「準備はどうだ、マルコ」
小さな声。マルコは箱の一つを慎重に持ち上げ、そこに仕舞ってある小瓶や器具を指で確かめる。彼の首に巻かれた古い革の首輪が、薄暗がりの中で細かく震えた。リリアはその動きに一瞬、胸が締めつけられた。首輪に刻まれた文様の意味――それを知れば、一段と事態は加速するだろう。だが今は時間がない。
「大丈夫だ。セルヴァンが手配してくれた隠し場所に、主要素材は分散してある。ここには調整用の残りだけ。でも……」マルコの声が途切れた。
彼の指先が小さな赤い瓶に触れる。赤い瓶は布に包まれ、外側には何の飾りもない。ただ、そこから漏れる薄い暖かさが、周囲の空気をほんの少し変えている。リリアはそれを意識せずにはいられなかった。瓶に封じられた液体は、触れる者の呼吸をひそめさせる何かを含んでいる。科学的に説明できる性質でありながら、同時に人の心に古い言葉を思い出させるような残滓を持っていた。
「セルヴァンは昨夜、最終確認に出た。だが今朝、監視網が一段と厳しくなったらしい。恵果院は動きが早い。小さな隙も与えまいと……」イレナの声は低く、だが確かな軸を持っていた。彼女は手元の包みを慎重にほどき、白布に包まれた試験器具を取り出す。医療の現場で培った動作は、いつでも穏やかで正確だ。
リリアは作戦図に目を戻した。印の一つ一つに、成分・温度・時間を細かく書き込んだ紙が重ねられている。彼女の筆跡は震えていない。言葉には出さずとも、書面に三項を残す行為は儀礼にも似た意味を持っていた。能力の条件を守ることは、彼女にとっての倫理でもある。完成調合を封じると誓った今、徹底した手順と分散した段取りだけが頼りだった。
「明日、満月よね」イレナが呟く。言霊が低く氷のように沈む。
「ええ。時間はもうない」リリアは答えを返すのに少し時間がかかった。直近一日の記憶の断片がまたどこかにすり寄せられている。たとえば昨夜、誰がどの言葉を交わしたか、セルヴァンが最後に見せた表情――そういうきめの細かい情景が、ふとした拍子に消えている。使うたびに失われる小さな日々は、彼女に匿名の傷を刻んだ。
控えめに胸の中で彼女は誓った。完成調合は使わない。成分は分け、工程は複数の手に分担する。調合視は最終手段として温存する。それでも、もしものときは……その「もし」こそが彼女の夜を長くした。
物音がして、扉の向こうから足音が近づく。だがそれは慣れた足取りではなかった。重く、規則的で、中央から来る匂いが混ざっている――油と消毒薬と、それから冷たい権威。
「監視の目がずいぶん早かったな」セルヴァンが複数の鍵束を見せながら扉に近づく。だがその顔色は悪い。彼の手は止まり、わずかに震えている。リリアは彼を見た瞬間に、胸に鋭い違和感が走った。セルヴァンの瞳に、かすかな恐れと決意が混ざっている。彼は過去十年を王都の市場で生きてきた男だ。だが時折浮かぶ陰は、本当にただの商人だけではないと彼女は思っていた。
音が重なり、扉が勢いよく開いた。二人の黒衣――恵果院の下級使節だった。冷たい表情と官僚的な言葉――「捜索する。何も触らないように」。だが彼らの目は空気中を探るように、箱や瓶を一つずつなめるように動いた。リリアは指先が震えないように、白紙の一枚をテーブルに置いて、三項を書くふりをした。嘘の儀礼だったが、動作が落ち着きを与える。
「セルヴァン、マルコ、隠して」イレナが低くささやく。彼女の手が箱の蓋を締め直す。だが扉を塞いだ黒衣の一人が、その箱を片手で蹴とばした。中身が床に散る。器具、布、そしてあの赤い小瓶が音を立てて転がり、僅かな光を放った。
空気が変わる瞬間を、リリアは逃さなかった。赤い瓶が床で弾むと、微かな振動が部屋を横切った。感覚器官が曖昧に拾い上げる波形――それはまるで小さな心臓が一瞬だけ強く脈打ったような反応だった。黒衣の一人がそれに目を見張る。声にならない音を漏らし、素早く瓶を拾い上げる。
「それは何だ」彼の声は硬く、計算されている。
セルヴァンが顔を歪めた。彼は一度息を吸い、重い口を開いた。「昔、私が……その、恵果院へ材料を送っていた時期がありました。金のためでした。今は、全部取り返すつもりでここに来ている」
言葉は空気を切った。リリアの胸を誰かがつねったように疼く。セルヴァンの告白は、掴んだ扉を開ける。黒衣の目が一瞬、細くなった。忠実さの秤がぐらつくのを彼らはすぐに収めようとする。だが驚きは種を撒く。リリアはセルヴァンの手を見た。彼の手は白く、薬粉の残滓が爪の隙間に残っている。商人が、自分の過去をここで暴露した。勇気か、絶望か。どちらにせよ、彼の顔は穏やかではなかった。
黒衣の一人が鋭く声を出した。「監督官に報告を――」
その言葉が出る前に、別の扉が静かに開いた。薄い光の差し込み口から現れたのは、想像もしなかった人物だった。恵果院の中堅研究者、名をクロエ。彼女は外部の者には冷たく見えがちな学者で、先日リリアに接触してきた告発者の一人である。今は服装も髪も乱れ、顔に焦りが刻まれている。
「ここは私の安全圏だ。出て行け」クロエは低く言った。だがその声は、力づくで命令する口調ではない。むしろ祈るように聞こえた。
黒衣たちは戸惑った。組織の掟を持ち出してきた者が、外の世界で支配を振るうことを最優先するのだが、クロエの目はどこかしら涙で光っている。彼女は手に持った小さな紙束を差し出した。「彼らを連行すれば、ここにあるものはすべて――公のものになる。私はそれを望まない。私にはもう裏切る理由しかない。あなたたちも、どちらを選ぶかはその良心で決めればいい」
沈黙が落ちる。廊下の向こうで誰かが通告の声を上げるが、ここでは届かない。黒衣の先頭が狡猾に笑う。だがその笑みは短く、状況を見定めて諦めた。数分の駆け引きののち、彼らは標的の品を押収し、クロエの目を睨みつけて去って行った。去り際、先頭の者が短く刺すように言った。「これで済むと思うな。上層に報告する」
扉が閉まると、部屋は静寂を取り戻した。しかし空気は澄んだわけではない。箱の中はめちゃめちゃにされ、いくつかの重要な試剤は持ち去られていた。セルヴァンの顔は青ざめている。あの赤い瓶は手元に残されていたが、布に包まれていた封は裂かれ、そこから漏れた液体の量は少し減っている。監視が来る前に一滴、床にこぼれたのかもしれない。
「準備が半分失われたよ」セルヴァンは短く言った。彼の声には自責が混じっていた。
イレナが冷静に状況を整理する。「だが、全てを失ったわけではない。クロエが来てくれたのは計算外の救い。彼女は恵果院の内部告発者だと言っただろう。彼女は上の連絡網を混乱させる時間を稼いでくれた」
クロエは息を切らせながら座り込む。白衣の袖が泥で汚れている。