聖女薬店 第22話「第20章」
祭壇の空気は、燻された薬草と金属の冷たい匂いとで満ちていた。聖痕装置の周縁を飾る縦列の符文は、微かな青白い光を脈打ちながら大地のほうへと溶け込むように伸びている。そこから立ち上る振動は、言葉にできない生の圧力を帯びていた。床石に指を置けば、鼓動のように伝わる。誰もがその鼓動に合わせて呼吸を揃えているようだった。
祭壇の空気は、燻された薬草と金属の冷たい匂いとで満ちていた。聖痕装置の周縁を飾る縦列の符文は、微かな青白い光を脈打ちながら大地のほうへと溶け込むように伸びている。そこから立ち上る振動は、言葉にできない生の圧力を帯びていた。床石に指を置けば、鼓動のように伝わる。誰もがその鼓動に合わせて呼吸を揃えているようだった。
リリアは装置のひとつの管に手を触れ、冷たさの奥に広がる熱の流れを感じ取った。触れるだけでは調合視は起動しない。患者と原料を同時に掌に収める――その条件はここでも変わらない。だが今、対象はこの装置全体だ。どうすれば「患者」と「原料」を同時に定義し、書面の三項を書き上げ、かつ完成調合の一度限りの禁を犯さずに作用させられるのか。時間は満月まで、もう数時間しか残っていなかった。
「ついにここまで来たか、薬屋リリア・フォルテ。」低く、ゆったりとした声。恵果院の長──灰色の髪を後ろで束ね、目に優しい皺を携えた老齢の男が、祭壇の高みからこちらを見下ろした。長の着る外套の縁には、かつての祝福を象徴する刺繍が縫われている。それは呪文ではなく、長い間用いられてきた統治の証である。
「理由を聞かせてください。なぜ人々の命を、こんな方法で秤にかけ続けたのですか。」リリアの声は冷静で、だが針のように鋭かった。代償の重さを知る者の言葉には、説得力がある。
長は手を胸に置き、ゆっくりと息を吐いた。「若いうちに答えるには重い問いだ。だが事実を隠すつもりはない。王都は長く飢饉と疫病と闘ってきた。聖痕の儀式は、土地と人の間の流れを束ね、都市圏に生の流れを集中させる。そこから食糧が戻り、繁栄が生み出された。数十年単位で見れば、数百万の命が救われた。だがその代償もまた、ここにある。」
長が指さした先に、赤い小瓶が置かれていた。小さな硝子の容れ物は、祭壇の光を受けて内側からほのかに光るようだった。その中の液体は濃厚で、見る者の目にひっそりと火を灯すような赤色を帯びている。
「それは……」リリアは間を置かずに近づき、瓶の表面に指の先を触れた。瓶は微かに暖かく、内側から波のような紋様が流れている。マルコの首輪と同じく、そこに古い設計の痕跡がある。彼女の調合視の先に、ほんの一瞬、聖痕の波形と同調する像がちらついた。だが今はまだ条件が整っていない――患者と原料を掌に収めていないからだ。
長は小さく笑った。「古い名で言えば『生命のしるし』の残滓だ。かつて聖女を選ぶため、あるいは祝福の結合を確かめるために用いられた。今は、その一滴が装置の同調を助ける触媒として使われる。量は微々たるものだが、反応の安定性を劇的に上げる。君が港の片隅で拾った瓶だという噂は本当だったのだな。」
リリアはその言葉に、怒りではなく冷たい驚きを覚えた。拾ったものが世界の中枢の一片だとは想像もしていなかった。だが驚きより先に来たのは、科学者としての好奇心だった。赤い液体の分子は、彼女がこれまで観測してきたどの保存因子とも異なる複雑な結合をしている。聖痕で使われる波形と化学的な同期を取り、無機的な装置と生体の流れを媒介している。技術だ。信仰ではなく、手順の問題だ。
「誰を、どのように使うのですか?」リリアは問い返した。彼女はすでに頭の中で仮設を組み立てていた。装置の海のような流れを変えるには、局所的な位相の反転が必要だ。単独で大地へ影響を与えるには、巨大なエネルギーが要る。完成調合を一度使えばそのエネルギーは出せる。しかし、それは一日一度の許容を破ることなく、しかも代償は彼女自身に跳ね返る──直近一日の記憶を消し、素材を失い、白い瘢痕を広げる。しかも装置に直結した作用は、死者の蘇生や意思の改変に繋がらないよう細く設計しなければならない。
長は目を伏せ、細い声で言った。「門守の血脈を使う。君が先ほど訪れたマルコの首輪の刻印は、我々の古い名簿にもある。あの血脈は、装置と生体の同期が取れる。だが、代償は大きい。血脈が『鍵』となれば、鍵は磨耗する。長年にわたる使用で、守り手は寿命を縮める。人は代替できるが、私はその先にある選択を問いたい。」
リリアの指先がわずかに震えた。マルコは祭壇から一歩前に出て、その首輪をいじりながら静かに笑った。「それでも構わない。俺が選んだ道だ。」顔には疲れがあるが、瞳は若い火を宿している。彼の声は揺れていなかった。
「マルコ、そんな……」リリアは言いかけて、言葉を吸い込んだ。彼の決意が彼の体を蝕む可能性を、彼の血そのものが消耗する可能性を、知っている。だが、もう一つの道がある。完成調合を使うことだ。完成調合は一日一度。数日前の彼女が払った代償の蓄積を思い出すと、その選択は重い。完璧に設計すれば装置を抑えられる可能性があるが、成功しても代償はリリアの精神と素材に刻まれる。しかも完成調合の効果が、儀式の根幹である「生命流」を他地域へと押し戻すことを保証はできない。むしろ、一度の強烈な逸脱が、かつてのように副作用を残す恐れもある。
リリアは深呼吸をし、祭壇の横に設えた小机へと向かった。上には彼女が書き残した数枚の紙片、ペン、そして小さな秤がある。多段調合の手順だ。彼女の筆は震えていたが、文字は精確だった。成分、温度、時間。――三項を書き出す。書面は調合視の要請だ。紙に書かれた項目は、どの段階で誰がどの原料に触れているかを定義し、再現性を担保するための契約となる。
「私には、装置と直接接続している『局所患者』が必要だ。装置自体を患者と見なすことはできない。だがもし誰かが自身を同期させ、装置の流れを小さなスケールで受け止める『触媒』になれるなら、我々は局所的に位相を攪乱し、次第に全体を変えることができる。マルコ、あなたはそれができるか?」リリアの声は冷静だが、内側には焦燥が渦巻いていた。完成調合を使えば一手で済む。だがその「一手」は、彼女にとって決断の重みが桁違いだった。
マルコは首輪を握りしめた。「できる。だが、条件がある。俺が鍵になったら、あとは皆で守ってくれ。リリア、俺はもう孤児じゃない。仲間がいる。だから……俺が役に立つなら、使ってくれ。」
セルヴァンが低く唸るように言った。「代償はわかっているか、リリア。血脈を使うということは、直接的に生命力を引き出すことだ。長老が言った通り、寿命が縮む。俺は商売人だが、それでも容認できない。だが、完成調合の代価も我々が払わねばならない。どちらが小さい代償かは、立場によって違う。」
イレナはマルコに手を触れた。「あなたが選ぶのではなく、皆で選ぶのよ。」看護師の声には揺るがぬ慈悲がある。彼女は患者の苦痛を最小にすることに生涯を捧げてきた。今ここで、彼女ができることはただ一つ、可能な限りの情報を集め、決断の手助けをすることだった。
リリアは紙を見つめ、そして心の中で自分のルールを確かめた。完成調合は一日に一度だけ。禁止事項は変わらない。人を殺す目的、意思改変、死者の蘇生には使えない。調合視を使うたびに、記憶の断片が消える。ここで一度、完全な完成調合を投じれば、彼女はこの日の記憶をはじめとして、重要なデータを失うかもしれない。多段調合で行けば記憶の喪失を最小化できるが、成功確率は低